愛染院(あいぜんいん)
明治の神仏分離令が下されるまで、日本全国の神社の殆どは神仏混淆が当たり前で仏教色の濃いものだった。神宮寺と称され、仏が神を助け祀るという理念に基づき、寺院の当主が神社の別当職を務め、事実上の神社運営を任じて来た時代が永く続いていた。
三嶋大社も例外では無く、昭和9年に開業された東海道線三島駅南口から約200m南へ下った溶岩塚(三島溶岩流の末端)付近一帯を社叢としていた真言宗高野山派の愛染院(あいぜんいん)の当主が三嶋大社の別当職を務め、三嶋大社境内にあった護摩堂を差配していた。
愛染院は末寺を多数有し、四面15間(27m)と伝えられる大寺院だったが、安政の大地震で堂宇が倒壊し、明治元年(1868)に神仏分離令が出されると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波が押し寄せ、勢力を誇った名刹(めいさつ)も廃寺を余儀なくされ、三島駅南口都市開発により、愛染院は跡形も無く消え去り、溶岩塚に造られた「愛染の滝」と「愛染小路」の名称を残すのみとなり、人々の記憶から消えつつある状況となっている。
愛染院(あいぜんいん)の末寺の一つに楊林山薬師院があるが、この寺の宗派は真言宗で開山(かいさん)は不祥だが、明暦(めいれき)年間(1655〜1658)尊誉(そんよ)上人を中興の祖師(そし)としている。寺伝によると弘法大師(こうぼうだいし)(空海)(774〜835)が,修善寺の独鈷(とっこ)の湯を発見の途中、この薬師院に留(とど)まったと言われ、本堂左手に弘法大師坐像が安置されている。また、その傍に弘法大師が座したと伝えられる「こしかけ石」がある。
三島八小路の一つである竹林寺小路(ちくりんじこうじ)にあった「竹林寺」という寺が応永年間(1394〜1427)にここに移り、楊林山薬師院と号した。元は、愛染院(あいぜんいん)の末寺(まつじ)だったが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、本山愛染院が廃寺に追い込まれ、これを引き継ぎ、真言宗高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の末寺となった。また、大正初期にはすぐ西隣にあった観法寺(かんぽうじ)という寺を合併し、今日に及んでいる。
したがって薬師院本尊の薬師如来(やくしにょらい)、観法寺本尊の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、愛染院の護摩本尊不動明王(ごまほんぞんふどうみょうおう)の3体を祀(まつ)っており、愛染院(あいぜんいん)の本尊はかろうじて薬師院に残されている。
薬師院の中には「ごぜ屋敷」があったと伝わる。「ごぜ」とは盲目の女性のことで、盲目の男性に按摩士の職が許されていたように、盲目の女性には遊芸の職が許されていた。
徳川家康は「ごぜ」を使って織田信長の情報を逐一入手していたといわれている。その礼として、五街道が整備されたときに、主要な宿場町に立派な屋敷と扶持米が用意された。そして、その屋敷はいわゆる「ごぜ」の見番所となった。
三島のごぜ屋敷の師匠おきみは特に美人で有名となり、三島に逗留する大名から引く手あまただったと伝えられている。また、街道整備後もごぜは幕府に逐一、街道の様子を報告していたという。三島宿に残る人別帳には12から18人のごぜがいたことが分かっている。
また、三島は三島女郎で有名だが、三島は神前町ということもあり、そういった花街家業が盛んだった。江戸の吉原、京の島原、駿府(静岡)の安倍川町の各遊廓が幕府直轄だった歴史には家康のこういった背景が関係していた。
愛染院の遺物と堆定される護摩石炉が発見されたのは昭和47年。楽寿園の東側、愛染小路の南側入り口付近のビルの建設に際して、掘り出された石造物・長径84cm、短径79cm、厚さ18cmの楕円形。周円部は溝が彫られ、溝に囲まれた中央楕円部は皿状に凹んでいる。それは明らかに燈明皿型。この石造物が発見された付近一帯は「愛染院」があった場所から護摩堂の石炉ではとの説が浮上した。
護摩堂には方形の護摩壇が設けられ、中央には石の炉が据えられ、この中で乳木を焼くことで煩悩を焼き尽くすという密教独特の儀式が行われていたとの説が有力だ。記録が無いので護摩石炉ではないかという推定の域を出ないが、愛染院の消えた歴史(資料喪失)という理由で、関係当局は、今でも謎を秘めた石造物と棚上げ状態としたままだが、護摩石炉であるか否かは真言宗高野山金剛峯寺の専門家により鑑定して貰えば、即刻、解決できるものと思われるのだが……40年余り放置されたままである。
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