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縄文海進と現在の三島市
縄文海進と現在の三島市


【縄文海進】とは
縄文海進とは日本全域で引き起こされた現象であり、現在の海面より縄文時代前期の海面が数m〜数10m高くなり陸地奥部まで海水が浸入し複雑な湾を内陸部まで形成したことを指します。
静岡県三島市周辺においては沼津市平野部の大半は海底となり、長泉町、清水町、伊豆の国市、伊豆市などの低地部へ海水が浸入し山や台地など標高が高い部分だけが残る複雑で大きな湾が形成されました。

縄文海進の原因は地球規模で検証される必要があります。この現象は日本だけに招来されたものではありません。日本の縄文時代に気温が現代より1〜2度高かったから海面が高くなったからという説も間違っています。
気温が現在より高かったというのは黒潮の影響でどうやら正しいらしいのですが、それが原因で海面が高くなったに繋げるには短絡過ぎ誤っています。

世界的研究によりますと、約1万年前の北半球の北米大陸とヨーロッパ大陸の北部には南極大陸に匹敵する膨大な氷床が存在していたと伝えられます。その氷床量は約1万9千年前にピークとなり約7千年前までにほぼ溶解仕切った模様です。この巨大氷床の融解にともない氷床から離れた地域では約7千年前に海面は一番高くなったと評されています。氷床の融解した地域では氷床の重みから解放され逆に陸地が隆起してフィヨルドなどの地形を形成されたことが地形学者の研究で報告されています。

なぜ、上記の北半球の巨大な氷床が融解したのでしょうか? その原因は太陽と地球の天文学的な位置関係にあるようで北半球の高緯度地域への夏の日射量が増大したことに起因したと研究者は発表しています。日射量の最大ピークは研究により約9千年前とされていますが、縄文時代前期の縄文進海6から7千年前と時期が食い違う理由として、日射量ピークを過ぎても氷床自体の表面積が減少したことにより融解がその後も続き、海面が年1〜2cmと猛スピードで上昇し続けたと解説しています。

【海退とは】
では、その後起こった海面が次第に低くなって汀線が退いて行く「海退」の原因は、氷床が地球のどこかで再氷結拡大した訳ではなく、氷床融解で海水量が増大したことにより、その巨大重量により押され、ゆっくり海洋底が沈み込み、地球上の海水量が同じでも、見かけ上、海面が低くなったと見える現象と研究者は話します。

【縄文海進の研究】
花粉化石や貝化石などの考古学者が主体に縄文海進の研究にあたっています。日本では東京から研究が始まったようで、地方では研究途上と見られ教科書掲載やや正式研究発表には時間がかかるものと思います。

ただ、石器時代、縄文時代、弥生時代に箱根西麓や愛鷹山麓の多くの古墳を偲ぶにあたって山と海との位置関係を知ることは大事なことと思います。古の人々がどのように古道を切り開き、どのように時代の変遷とともに田畑を開墾して行き村落を築いて来たか、時代ごとの海進と海退の状態を把握することは重要な仕事と思います。

三島宿は1万4千年前より三島溶岩流や御殿場泥流などの影響大きく、縄文当時より三島宿の中心部が陸地にあったことは東海道筋において稀有なこととされ、郷土資料館(要駐車場)の無料見学の早期実現が望まれます。
※三島風穴と三島溶岩流と御殿場泥流と湧水は富士山と三島市とを結ぶかけがえのない自然遺産です。
生物多様性にもかかわる三島風穴の専門的調査(生物・鉱物)の早期実現を求めます。
→→三島風穴



縄文海進と静岡県東部の海岸線 (現代の標高地図に基づき海岸線を推定した概略図)
約3万年前から2万7千年前より旧石器時代に愛鷹山南麓と箱根山西麓に人の足跡を残す石器や遺跡が多く出土してい
ます。そして、約7千年前からピーク約6千年前に縄文海進により現在の平野部の奥まで海水が浸入しました。
愛鷹山南麓と箱根山西麓の足元まで海が迫っていたことになり、人々は海の幸・山の幸を享受していた事でしょう。
Flood Maps Sea level rise +30m

三島市南部から大仁町辺りまで田方平野は海没、沼津市は根方街道以北の台地を除く南部(浮島など)は海面下となり、現在、沼津アルプスと称される香貫山から南へ横山、徳倉山、志下山、小鷲頭山、鷲頭山、大平山と続く山稜線が、当時のメインストリートでした。

つまり、海退の進む縄文後期・弥生・古墳時代において沼津市では最も古く活動の場が開けて行くのは、愛鷹山の山裾と香貫山周辺部であり、特に勾玉作りの専門集団の部落が形成された玉造神社周辺は古い歴史を刻んでいると見られる。三島市においては箱根丘陵部の千枚原・初音ヶ丘付近が古くから部落が開け、三島南部においては箱根山麓の尾根上の向山古墳群・夏梅木古墳群辺りの部落が形成されている。

伊豆市修禅寺には古代造船所とされる記紀にも名を刻む軽野神社が知られ、現在、修禅寺周辺の遺跡を再検討中であり、なにか発見できましたなら、当HPで公表する予定です。

やがて、海が退いて行く海退が始まり、古代の人々の東西の道として海岸線沿い(現在の根方街道)の通路が使われ始
めたのが最も古い道と想像されます。箱根山の上下の移動は最も傾斜角度の低い(標高幅が広い)尾根道が使われた
と思います。1万4千年前の三島火山流、その後の御殿場泥流などあって現在の御殿場方面へ向かう古代の道ははっき
りと分りませんが、おそらく山裾野の道と川沿いの道が複数本在った筈と想像されます。

現在、台地とされている場所は縄文時代は平地だった訳で、海は目と鼻の前、真水もあり塩分補給に事足り、貝、海
藻、木の実、小動物などを食し、竪穴住居を設け子孫を育んできました。弥生時代に人々は山から平野へ降りて来たの
では無く元々山と海が近くにあって平地か当時の台地に住んでいた者たちが海退とともに徐々に現在の平野部に進ん
でいった。なぜなら塩は生きる上で必需品だからです。

縄文人のメインディッシュは「シカ」と「イノシシ」でした。それに加えて魚介類に山菜に果実や根菜類を摂取、体格身長も
弥生人に次いで大きく、江戸時代や昭和の初期(戦前)の身長を縄文男女とも大きかったことが分っています。
八丈島・三宅島をはじめとして伊豆諸島全ての遺跡からイノシシの骨が出土しているなど伊豆半島全域にもイノシシの影
が濃く沼津市・三島市周辺に住んでいた祖先の食糧事情は良かったものと想像されます。

近年、黒曜石などの石器の研究が進み、旧石器の昔より人々はかなりの移動をしていたことが解明されつつあります。
このイメージ画から読み取れますのは奈良平安の人々が関西関東間を旅するのに富士山北側を迂回していた事が理
解出来ますし、江戸時代になっても多くの人が広大な沼地が残る南側を通る旧東海道を選ばず、佐野街道(甲州街道)
から根方街道を往来していた事が頷けられます。


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