祭神は、祭神は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)と伝えられている。
さて、『日本書紀』における天地開闢(てんちかいびゃく)は渾沌(こんとん)が陰陽(いんよう)に分離して天地と成ったという古代の世界観が語られている。太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神々が生まれるのである。
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが三つの神となる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
これらの神々には性別がなかった。太古の昔は奈良時代初頭に芽生える山岳宗教と似て、日本では山や岩、大地や河川などの自然そのものを崇拝し神とした永い歴史があったことがうかがえる。
国狭槌尊(くにさつちのみこと)は、主に『日本書紀』の天地開闢の段に登場する神である。別名国狭立尊(くにのさたちのみこと)。神代七代のうちの最も古い前段三代の一柱である。
神名「サツチ」の「サ」は神稲、「ツチ」は土、即ち神稲を植える土の意と解される。平たくいえば田畑を形成する大地の神、つまり農業の神を指す。
幸原の現在地の周辺の田畑が開墾され村が形成されたごろ、村の長老が村民に声をかけた。「隣の村が神を招いて祠を建てたぞ、オラの村でも五穀豊年を祈れる祠を作るべえよ」と。皆も「やるべ、やるべ」となった。いつの世にも反対者はいるものだが村八分(むらはちぶ)されるのも嫌で渋々承知したかも知れない。
水の分配やら田畑の耕作やらで当時は大勢の村民の助け合いが必要不可欠であった時代背景もあって全国各地で神社勧請の輪が広がっていった。
場所は耳の形に似た俗称「耳石」の近くに小さな祠が建てられた。農業の神・国狭槌尊(くにさつちのみこと)を知恵者の仲介にて勧請(かんじょう)し祀った。時が過ぎ、また村の長老が村民に声をかけた。「隣の村で祠から立派な神社を拵えたそうだ。オラの村でもオラタチの神を祠から神社に祀り上げようぜ」と。祠から神社に昇格してゆく。いつのころから耳石(みみいし)神社と呼ばれるようになった。
この神社も天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで焼失していると伝えられていることから、国府原(幸原)の耳石神社の名称が天正18年(1590)頃には近隣諸国に立派に定着していたことが間接的に証明される。今では三島七石の一つである「耳石」の方が祭神・国狭槌尊(くにさつちのみこと)より有名となり、祭神を知らなくとも耳石は知っている人が多くなり、昔から耳の病を治す霊験(れいけん)あらたかな神社として知られているが、昔の幸原の村民が五穀豊穣を祈り祀った神社であることは忘れないで欲しい。
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