三島里山倶楽部

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浅間神社・芝岡神社ご祭神の系譜 (浅間神社社務所配布資料より抜粋・一部編者加筆)
天孫降臨

天照大神は、子の天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)を豊葦原の国(日本)へ降ろして統御しようとしたが、事情によりできなくなった。そこで、高天原(たかまがはら)の実力者・高御産巣神(たかみむすびのかみ)と相談し、天照大神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)に三種の神器を与え天降りさせた。
邇邇芸命は日向(宮崎県)の高千穂の峰に降臨した。

三種の神器とは・・・八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)をいう。天皇の地位の標識として、歴代の天皇の受け継いだ三つの宝物。
記紀の伝承によると、八咫鏡は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天石窟(あめのいわや)に入ったとき、八百万(やおよろず)の神々が計って天香久山(あめのかぐやま)の鉄をとってつくり、草薙剣は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲(いずも)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したとき、尾の中からみいだして天照大神に献じたもの、八尺瓊勾玉は、天照大神が天石窟に入ったとき八百万神が玉祖命(たまのやのみこと)に命じてつくらせた、という。天照大神は天孫降臨すなわち孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を高天原(たかまがはら)から葦原中国(あしはらのなかつくに)に天下(あまくだ)らせるとき、この三種の神器を授け、そのうち八咫鏡については、わが魂として祭れといった。三種の神器は神武(じんむ)天皇の即位以後は宮中に安置されたが、崇神(すじん)天皇のとき八咫鏡を宮中から出して倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り、垂仁(すいにん)天皇のとき伊勢(いせ)に移し伊勢神宮に祭った。景行(けいこう)朝、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征に際し、伊勢斎宮の倭姫命(やまとひめのみこと)より草薙剣を授かって携行し、帰途尾張(おわり)に置いた。記紀にみえる以上の伝承により、八咫鏡は伊勢神宮の、草薙剣は熱田(あつた)神宮の神体であるとする信仰が生じた。この伝承に従えば、八尺瓊勾玉だけが宮中に残ったことになるが、『古語拾遺』によれば、崇神朝に新たに鏡と剣を模造し、宮中に置いたという。この伝えは、奈良時代の前後、宮中に皇位のしるしとなる神聖な鏡・剣が存した事実と、上述の記紀の伝承を調和させるために生じたのであろう。

木花開耶毘売命(このはなのさくやひめのみこと)

邇邇芸命(ににぎのみこと)は笠沙の岬(現鹿児島県加世田の港)で美しい女に会った。木花開耶毘売である。父親は大山津見の神(山の神の元締めといわれ、三嶋大社の祭神にもなっている)である。邇邇芸命の求婚に対し、大山津見の神は承諾し、姉の岩長比売(いわながひめ)と二人を送ったが、岩長比売は器量が悪かったので送り返された。大山津見は「姉を送ったのは丈夫な子孫であるように思ってのことで、木花開耶毘売だけをとどめたのでは天の神の子は木の花のようにもろくはかないということになるかも知れません」と言った。それで当時の天皇たちの命は永くないのである。
海幸(うみさち)・山幸(やまさち)

火照命(ほでりのみこと)は海幸彦として魚を取った。また火遠理命(ほおりのみこと)は山幸彦として山の獣を取っていた。そこで火遠理命は兄の火照命に獲物をとる道具を換えて仕事をしたいと申し出た。やっと許されて魚を釣りに出たが、釣り針を海の中に失ってしまった。火遠理命は自分の剣をつぶして五百もの釣り針を作って弁償しようとしたが、兄の火照命はそれを受け取らず元の釣り針が欲しいと言い張った。火遠理命が海辺で泣き悲しんでいると、塩椎神(しおつちのかみ)が来て慰めてくれ、その案内で綿津見の神(わたつみのかみ)の宮殿に入った。綿津見の神は娘の豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)と結婚させた。なお綿津見の神は多くの魚を集め赤鯛から火遠理命が失った釣り針を探し出し、その釣り針と共に塩盈珠(しおみつだま)・塩乾珠(しおひるだま)を与えた。火遠理命は釣り針を返すと共に、この二つの珠によって兄が攻めて来たとき兄を悩ませた。火照命は降参して以後火遠理命を助けることとなった。

富士山の神

古代は山そのものを神として崇拝していたから富士山には拝殿があっただけで神社の本殿は無かった。平安時代の富士山記には天女が山頂に現れたと書いてあり、戦国時代の書に初めて富士山を女神と誌してある。江戸時代初め富士山の神は木花開耶毘売命(このはなのさくやひめのみこと)であると云うようになった。木花開耶毘売は美であると共に徳即ち善の理想化された神である。この神が富士山の神となったのは意義深く、霊峰富士の端麗は容姿を表して、この神を富士山の主神と仰ぐに至った。なお富士浅間神社は各地に存在するが主神は木花開耶毘売(姫)であり、雲見浅間神社は木花開耶毘売命の姉である岩長比売命(いわながひめのみこと)である。

波布比売神社(はぶひめじんじゃ)

延喜式(えんぎしき=平安時代初め、当時の書類を集大成したもの)に波布比売神社として浅間(せんげん)神社が出ている。三島市誌(三嶋大社矢田部宮司)では浅間神社が姫宮としてあり波布比売命が主神であった。浅間神社と改名したのはいつかは定かでない。

浅間神社・芝岡神社の立地と特長

JR東海道線三島駅より南南東約400m(徒歩5分)のところに浅間神社と芝岡神社が東西に並んで祀られている。1万4000年前に富士山の噴火により流れ出た三島溶岩流が三島の浅間神社付近にて止まったと伝承されることから別名・岩留浅間(いわどめせんげん)とも称され、境内には溶岩流の痕跡が残されている。

神社の西には楽寿園の小浜が池、東側は白滝公園からの湧水、北東には菰池や鏡池などの湧水、浅間神社の池からも昔は富士山からの水が豊富に湧き出し、富士山の伏流水が浅間神社に向かい湧き出している感がある。また、三島風穴を代表する数多くの風穴群が新幹線三島駅北口辺りで形成され、溶岩塚も存在している。まさに伊豆ジオパークと富士山を繋ぐジオポイントが三島駅周辺に眠っているのである。

三島の浅間神社は祭神が実に多い。木花開耶毘売命(このはなのさくやひめのみこと)の家族全員+大山祇神の妻を祀っている。普通の浅間神社は木花開耶毘売命だけを祀っている場合が多いのに対して実にファミリー的なのである。木花開耶毘売命1柱、夫である天照大神の孫・邇邇芸命(ににぎのみこと)1柱、子供=火照命(火明命・海幸彦)・火須勢理命(ほすせりのみこと)・火遠理命(彦火々出見命・山幸彦)計3柱、大山祇神の妻・波布比売命(はぶひめのみこと)1柱を併せ計6柱を祭神としている。

木花開耶毘売命の父は三嶋大社の主神の1柱・大山祇神(おおやまつみのかみ)であり、三島市の二宮・浅間神社と芝岡神社は三嶋大社宮司により手厚く祀られており、云わば、三嶋大社系浅間神社と見られる。
例年、正月2日と7月16日の夏祭りには、邇邇芸命(ににぎのみこと)の父・天照大神の子・天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の妻になり邇邇芸命を生んだ母・万幡豊秋津師比売命(よろずはたあきつしひめのみこと)の父である高御産巣神(たかみむすびのかみ)を祀る芝岡神社と浅間神社の両社への御供物献上の儀と参拝が執り行われている。神武天皇に直接繋がる天孫系の神々をお祀りしており、天照大神に直結する実に格式の高い神社なのである。

何時の頃からか分らないが、伊豆方面の人々が富士山参詣登山の際、必ず三島の浅間神社に参詣し禊ぎをしてから富士山登頂に臨んだと伝えられている。
浅間神社
Web初公開
拝殿内左奉納額(龍か?)・・・神仏混淆の残影
Web初公開
拝殿内右奉納額(白龍)・・・神仏混淆の残影
古くは三嶋大社の別宮(べつぐう)で、神階(しんかい)正五位を授けられ三嶋大社に次ぐ名社でした。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、波布比売命(はぶひめのみこと)を主神とし、瓊々杵命(ににぎのみこと)、火明命(ほあかりのみこと)、火蘭降命(ほすせりのみこと)、彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)が祀られている。波布比売命を祀る神社は、元、伊豆大島波浮(はぶ)港にあった。(三宅記)

 およそ1万4千年前の富士山の大噴火のとき、ここで溶岩の流れが止まったので、岩留浅間(いわどめせんげん)ともいわれている。ここから湧き出していた水は、富士山の雪解け水で三島の水源ともなっていた。

富士講が賑わいを見せた当時、富士登山をする三島、伊豆方面の者は必ず立ち寄り安全を祈って富士へ出発したものと伝えられている。
「郷土資料館だより」(通巻第103号2012.8.1)5Pに伊豆半島ジオパーク構想Vol.5として三島溶岩の溶岩塚が紹介されている。その中で浅間神社社殿右側にある「溶岩塚の赤ちゃん」の写真が掲載されていたが、社殿右側では場所がはっきり特定できない。

写真を頼りに平成24年10月5日、浅間神社の用事を兼ねて確認したところ、拝殿に向かって石段手前、石敷き参道右手奥(左に掲載写真黄丸)に概ね楕円、表面に亀裂のある「溶岩塚の赤ちゃん」が視認された。

メジャーで測ると南北約95cm、東西約65cmの小さな溶岩塚でした。素人目からすると周りの溶岩と余り変わらないような気がするのだが、地質学の専門家の目を通すと正に貴重な「溶岩塚の赤ちゃん」となるのでしょう。

右の写真は南側から撮影しました。約1万年4000年前より安らかに当地で眠っていた「溶岩塚の赤ちゃん」。
当神社のケヤキの大木より舞い落ちた枯葉を身にまとい赤ちゃんのままで富士山の神・木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る浅間神社の膝元で眠り続けている。

この近くの白滝公園トイレ北側には、赤ちゃんより少し大きい「溶岩塚の子ども」もあると郷土資料館は指摘しており、有名な愛染院跡の「溶岩塚の大人」に加え楽寿園内には大小の溶岩塚が20近くあるとのことで、新幹線駅周辺は正に富士山と伊豆とを結ぶジオパークに相応しい自然環境にあるとも言えそうだ。

新幹線駅北口にも数多くの溶岩塚があったが、職業安定所横にあった溶岩塚は全く平地化され姿を消している。第一級とされる三島風穴と北高敷地内の紫苑の森に残された溶岩塚と溶岩洞窟は壊したくないものと思う。
左の写真は浅間神社内「溶岩塚の赤ちゃん」。 

富士山から約40km離れた三島市まで三島溶岩流は、こんな小さな「溶岩流の赤ちゃん」を誕生せしめていた。

今度、浅間神社にお参りする機会がありましたなら、是非とも富士山の申し子である「溶岩塚の赤ちゃん」を踏まぬよう手を合わせて大切に保存して行きたいものである。

以上、地学会所属・ジオツア等で講師を務められていられる増島淳氏のご案内により取材できましたこと、本ページを借りて厚くお礼申し上げます。 編集者・長谷川
浅間神社社殿手前石段西脇の縄状溶岩 浅間神社の縄状溶岩
芝岡神社と高産霊神と第六天神とシヴァ神とヴィシュヌ神

三島市の浅間神社は小学生のころの遊び場であった。浅間神社の裏側には数か所、楽寿園に無料で入れる秘密の出入口があったから、悪いこととは承知の上で、無断で侵入するスリルを堪能しつつ夢中で遊んだ悪がきだった。

その浅間神社の西隣に三島宿一番の元本陣・世古六太夫家の邸内に祀ってあった芝岡神社が鎮座する。同社は明治四年芝町の氏神として祭ることとなり、村社であった明治十年三月の三島宿の大火に類焼し柴岡村の寄進もあって同十二年に復興した。昭和二十七年七月に浅間神社へ合祀して社殿と共に現在地へ移転した。本殿の下に大きな円形の石があるとされ 霊石と称し昔から子供の守神として知られている。

豆州志稿の中で祭神は高産霊神を祀るとあるが、江戸時代には第六天を祀るとある。名前の変更については、全国的に似た傾向がある。祭神は高皇産霊神であるとされている。しかし、江戸末期は国学の影響より第六天神と呼ばれていたものが皇産霊神と変化していった例が多くある。

明治維新の追い風から国学者達の発言力が高まった時代、明治2年の神仏分離令・廃仏希釈の大号令により神仏混淆の時代は終わり、国家神道が産声をあげた。
この国家神道(主に天孫神を中心に置く体系)の論理にしたがい、とくに仏教神を祀る地方神社は、古来よりの主祭神を神道系の神々に換えられ神社名も変えられた歴史があっことを知ることから日本の宗教を考えなければならない。

当ホームページの「三島の巨樹のある神社仏閣」シリーズを編集していたころ、芝岡神社と浅間神社を訪問したところ不思議な石像に遭遇した。その石像は芝岡神社の南側の境内と浅間神社の池の間の三島溶岩の段差部の人目に触れにくい場所に東南の向きに置かれていた。どうみてもガルダに跨ったヴィシュヌ神の石像なのだ。石像の捨て場に困り果てた誰かが日本の神社境内に置いたものなのか分らぬものの、日本の神社関係者も文句も言わず撤去もせず、大らかなものだと感じただけで格別な関心を持つに至らなかった。


ガルーダに乗るヴィシュヌ神

第六天の源泉を辿ると、もともとヒンドゥー教の主神の1神・シヴァ神であるとの説に多く出くわす。やがて、シヴァ神は仏教に取り入れられて第六天魔王となったとされるのだ。
仏教では天道(界)の一つである他化自在天(第六天)であると主張する。一方、神道では第六天神、すなわち神々の第六番目の神とされ、面足尊(おもたるのみこと)、吾屋惶根尊(あそかしこねのみこと)を祭神と論ずる場合が多い。

この説に接してからは、芝岡神社のヴィシュヌ神像のことが気になり出した。もしかして芝岡神社の真ん前にヴィシュヌ神の石像を安置した人物は、邪魔になり放置したものでは無く、第六天=シヴァ神を強く意識して、対極にあるヴィシュヌ神を祀ったものでは無いかという気がして来た。富士山からの三島溶岩流が止まった場所と伝えられる浅間神社は別名・岩留浅間(いわどめせんげん)とも称されている場所、全てもの物を破壊し焼き尽くして停止した場所にヴィシュヌ神が良く似合うような気がするのは何故だろう。それにしても良く見ると鬼気迫る不思議な石像(作者不明)ではある。

ところで、この小さな境内にインドのヒンドゥー教の二大神のシヴァ神(創造と破壊の神)とヴィシュヌ神(世界維持の神)が形を変えて並立している神社は珍しい。シヴァ神は第六天(高産霊神)と日本風にアレンジされているが、近世、何者かがガルダに跨るヴィシュヌ神を配置したものと見られるが、インド・東南アジアの観光客が三島市の芝岡神社を訪れた時、如何なる反応を示すものか興味を引くところだ。

愛染院(あいぜんいん)跡について

三島市民でも「愛染院(あいぜんいん)」という名前は知っているが、どんな寺院であったかを知る人は少ない筈だ。三島駅が現在地に建設され、駅前道路が整備され、駅南口繁華街が形成されるにともない三島宿の北に愛染院(あいぜんいん)と威容を誇った大寺院が完全に姿を消した。
現在、名前を残しているのは「愛染小路」と商工会議所近くの溶岩塚に造られた人工の滝「愛染の滝」ぐらいなものだろう。幕末の安政の大地震で被災倒壊、明治の神仏分離令(廃仏毀釈)により完全に再建の息を絶たれ、人々から忘れ去られようとしている。

私は一枚の古絵図を見付けた。地震後の絵なのかそうでないかは分らぬものの、河川の位置や楽寿園の小浜が池の位置から愛染院(あいぜんいん)跡と類推できる古絵図なのであり、浅間神社と現白滝公園に挟まれた空間が愛染院(あいぜんいん)の出入口だったことを示している。
大きな伽藍は描かれておらず、小さな建物ばかり描かれていることから震災後の古絵図ではないかと推察されるが、境内周囲は溶岩交じりの樹林となっていることが図示されており、現在の三島駅付近は溶岩の丘だったのか何も描かれておらず、道すら無かったことが覗える。

現楽寿園の小浜が池への道は、浅間神社の細い通路を横切っていたことを示し、楽寿園・三島文化会館・商工会議所・鏡池西方の樹林帯まで一帯が愛染院(あいぜんいん)の敷地だったと古図は示唆している。


愛染院は、真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは)に属し、三嶋大社の別当寺院(べっとうじいん)で10数カ所の末寺を持つ伊豆随一の大寺院であったと伝えられている。鎌倉二代将軍源頼家の親書「心経」も所有(現在は三嶋大社所有)していた。

昔、竹林寺小路(ちくりんじこうじ)にあった「竹林寺」という寺が応永年間(1394〜1427)に現在地・三島市大社町11−15に移り、楊林山薬師院と号した。元は、愛染院(あいぜんいん)の末寺(まつじ)だったが、明治維新の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、本山愛染院が廃寺を余儀なくされ、これを引き継ぎ、真言宗高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)の末寺となり薬師院として今日に及んでいる。

また、大正初期にはすぐ西隣にあった観法寺(かんぽうじ)という寺を合併し、現在に至っている。したがって薬師院本尊の薬師如来(やくしにょらい)、観法寺本尊の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)、愛染院の護摩本尊不動明王(ごまほんぞんふどうみょうおう)の3体を祀(まつ)っている。

薬師院の宗派は真言宗で開山は不祥だが、明暦年間(1655〜1658)尊誉(そんよ)上人を中興の祖としている。寺伝によると弘法大師(空海)(774〜835)が,修善寺の独鈷(とっこ)の湯を発見の途中、この薬師院に留まったと言われ、本堂左手に弘法大師坐像が安置されている。また、その傍に弘法大師が座したと伝えられる「こしかけ石」がある。正確に記すならば、薬師院に名を変える前の竹林寺に弘法大師が立ち寄り、こしかけ石は遷祀されたものとされなければなるまい。

また、伊豆中央道をまたぎ県道140号線を北上すると、長伏の17番札所泉福寺がある。境内に入ると左側に観音堂があり、千手観音を安置している。愛染院の仏像の一つで、愛染院が廃寺になった時にここに遷祀されたものである。

加えて、愛染院の秘仏の一つ、「歓喜天」(愛染明王)は高さ 8寸 5分。駿東郡清水町堂庭の「蓮華寺」に遷祀されている。つまり、愛染院の伽藍は姿を消したが、愛染院や三嶋大社に祀られていた仏像は、末寺など三島周辺に遷祀され現存していることを看過してはならない。

更に付け加えて申せば、昭和47年に愛染小路の南側入り口付近のビルの建設に際して発見された愛染院護摩堂で使用された護摩石炉という説が有力である石造物が三島市郷土資料館に保管されているのだが、高野山金剛峰寺護摩壇専門家に視て貰えば一発で事の真偽が分かる筈だが、結論を見送ったまま倉庫に放置されたままであることが不思議でならない。発見されてから何年経つというのか?

密教は即身成仏を説く。来世でなく、この世のご利益を説く。ご本尊の大日如来は矛盾の集合で、世界のあらゆる存在は大日如来の変身、変化であると説いている。大日如来の智慧を現す不動明王は怒って頑迷な人を悟らせる。慈悲を司る歓喜菩薩(愛染明王)は微笑をたたえ愛情、愛欲の煩悩を即菩提に導く。密教の教えは、現世利益、煩悩や愛欲の肯定、更に呪術的、世俗的、即身成仏だから、忽ち貴族・武士・庶民の信仰を集めた。

ところで余談を申せば、源氏は沼津の浮島で平家の軍に大勝、一の谷、壇ノ浦の闘いで平家を亡ぼし、源氏が天下をとって鎌倉に幕府を開いた源頼朝の念持仏(日常、念持して礼拝する仏像)は、愛染明王だった。この念持仏は頼朝の没後、妻の北条政子により、政子ゆかりの和歌山県高野町の金剛三昧院に奉納され、現在、国の重要文化財となっている。

真偽のほどは分らないものの、頼朝旗揚げ時に愛染院に本陣を置いたとの伝承が仄聞されるが、出陣は北条邸だったことが知られており、愛染院の本陣とは神仏の戦勝加護を祈念する祈祷基壇だったに違いない。愛染明王と頼朝との初期接点は愛染院だった可能性は高いと私は睨んでいる。ちなみに、頼朝の背後に見え隠れする文覚も立川流真言密教の僧だったのであり、頼朝同様に伊豆に流されており、仏教談話があったならば愛染明王の功徳を学んでいたことも考えられる。ともかく、平安末期は神仏習合の時代だった訳で、頼朝も当然、神も信じ仏も当然の如く信じていたのである。

下の写真・愛染明王(あいぜんみょうおう)像は、源頼朝が亡くなった際、正室の北条政子が、当時仏師として世間に名を広めていた運慶に依頼し、頼朝公の等身大の坐像念持仏(ざぞうねんじぶつ・愛染明王像)として作成されたもの。この念持仏が世界遺産・高野山・金剛三昧院建立の原点と評されている。


源頼朝と愛染院(あいぜんいん)とを直接結ぶ寺も現存している。青梅市成木にある成木山愛染院安楽寺である。奈良時代の和銅年間(708-714)、僧・行基が諸国巡錫の途路、楠木の巨木が鳴動し、光を発しているその中に、軍茶利の形を見て、軍茶利明王を彫り上げ、安置したのが安楽寺の始まりと伝わる。鎌倉時代、源頼朝が念持仏の愛染明王を納め愛染院を建立している。昭和五十二年、同五十七年から二度に亘り本堂、法堂、仁王門が修理された。境内の大杉は都の天然記念物に指定され、寺域は都の史跡に指定されている。

以上、源頼朝・北条政子・源頼家の残された愛染明王に関する寺院・仏像・親書など踏まえれば、源頼朝の念持仏が愛染明王だったことが明らかになり、とくに三島の愛染院に鎌倉第二代将軍・源頼家の親書が残されていた事実は、源頼朝と三島の愛染院との因縁が浅からぬものだったことを示唆するものと思われる。


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