日本の記紀には海上を渡る話が度々登場するが、中国大陸には航海に関する古代の記事に接することは極めて少ない。我々の多くは中国に対するイメージは大陸国家であり、海洋国家としてのイメージを持つ人は少ない。ちなみに中国の古代船に関するWeb検索をするに極めて情報が少ない。
中国の歴史を振り返るに、王朝の興亡を決したのは殆ど陸上戦であり、 舟を使った戦も主戦場は河川であって海上ではなかった。 このため、近年に至るまで中国には「海軍」という呼称はなく、 舟師・水軍などという言葉が用いられてきた。 この「舟師」という記述が史書に登場したのは紀元前7世紀ころである。その内容は 揚子江上流の楚が舟師を作り下流の呉を打ったという記述があり、 海上では無く河川の戦いである。
西暦1世紀に入ると漢の光武帝が船団を組んで福建、 広東方面からベトナム沿岸に海上遠征し、 南から北へ転じて朝鮮半島も海路から進攻している。 4世紀には「指南針」と呼ばれる羅針儀を実用化し、 唐の大宗が高句麗に攻め入った時には、 江南地方に数百隻の大船の建造を命じ、 これら船舶を山東地方に回航し水路で朝鮮に兵を送っていた。
そして、 アラビヤ人が東洋に現れる以前の7西紀末までに南シナ海、 セレベス海、 バンダ海からアンダマン海方面まで進出し、 各地に中国人町を形成していた。 唐代の663年には劉仁軌の率いる水軍が百済の救援に向かった日本の水軍を白村江で破り、 1274年と81年には数百隻の元の水軍が九州を襲撃した。
さらに、 明代の1405年には鄭和の率いる62隻の艦隊(27,800人)がジャワ、 パレンバン、 マラッカ、 セイロンからインドのカリカットに達したが、 鄭和はその後1433年までに七回にわたり、 セイロン、 ベトナム、 ビルマ、 マレー、 ジャワ、 さらに、 インド洋をわたってアフリカやペルシャ湾への大遠征航海を行い、 30数国から朝貢させていた。
これはヴァスコ・ダ・ガマによって、 いわゆる大航海時代が開幕される半世紀も前のことであり、 コロンブスがアメリカ大陸を発見した1世紀も前のことであった。
このように中国は、 一般的には大陸国家と考えられがちであるが1400年以降の一時期広く海外に飛躍し、 強大な水軍を保有し活発に海外渡航したこともあった。
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