三嶋宿の外れ三島広小路付近にある国分寺の参道だった阿闍梨小路(あじゃりこうじ)南側に蓮沼川が流れていますが、その暗渠の上の東側三角地に市子石は置かれている。
市子とは 神霊・生き霊(りょう)・死霊(しりょう)を呪文を唱えて招き寄せ、その意中を語ることを業とする女性。梓巫(あずさみこ)・巫女(みこ)・口寄(くちよせ)とも呼ばれます。
この石に霊験を感じ手で撫でて霊を招き寄せて、霊の意中を語り占いを生業にしていた三嶋宿阿闍梨小路付近に生活していたのだろうか?
市子石を触ると蝋燭のようにつるんとした感触だった。
この阿闍梨小路に現存する市子石に関し、関西方面あるいは関東方面からの流れ巫女の下げ降ろされた残影と見る向きも有りながら、一方で箱根派修験比丘尼の存在を指摘する少数意見もある。当該市子石に関しては古資料が逸脱して明言できないものの、お産という重大な家々にとって、子孫繁栄・無事安産は何よりも望むところ、先祖を口寄せしてもらい市子の霊験に仰ぐしか方途の無い俗世への市子の生業の成立を主張する向きもある。
現在でも、医者から癌告知された場合、真っ先に祖先の墓へ行き父母の加護を求め祈る人が多くいる。祖先の声に耳を澄ます。生老病死・愛別離苦などを背負う人生を歩む庶民にとって祖先の声を語り伝える市子(巫女)に頼る心情は痛いほど分る。
市子石をもう一度見てみよう。手前の中央にでっぱりが見て取れる。このでっぱりが臍の緒で親石と繋がっているのだ。祖先の御霊を市子石が引き寄せ市子が祖霊の声を語る。病院も無い薬も無い時代、神仏に頼るしか無かった時代に市子の霊力が頼りとなったのである。いくばくかの銭を貰って市子石の傍に座って祖霊の言霊を語っていたのである。
三島七石の中で一番小さい石の市子石、巫女五〜六人で持ち運べる大きさだ。商家・庄屋など中流以上の隠居に口寄せを頼まれた場合、市子石を大勢の市子達が家々に運び込みご先祖様の言霊を大勢の異形の巫女達を後ろにして慇懃無礼に隠居に語り祖先降ろしの儀式に昇華せしめる。お礼として市子全員、少女付き人まで礼銭が配られる。人の集まる旧東海道と阿闍梨小路の三叉路付近に普段置かれていることが多かったということだけで、もともと市子石の厳密な定位置は無かったと見るのが自然である。
三島広小路周辺の道路の変遷の激しさ「市子石」の移動は一度や二度では無かったと類推できる。三島広小路駅周辺は、三島バイパスが完成・開通するまでの国道1号(当時「一級国道1号」、1952年に指定)であった。年代によっては、軌道線が通る旧道を「電車道」、迂回路として作られた道を「新国道」と呼ぶ者もある(ちなみに、新道・旧道を迂回する形で作られた三島バイパスは、1962年に完成)。以後、新道は、市道(三島市道川原ヶ谷八幡線)等に格下げとなる。
既に明治39年に「三島・沼津間の路面電車(チンチン電車)」を開通させた駿豆電気鉄道が開通され1963 昭和38年三島・沼津間の路面電車(ちんちん電車)廃止されるまで走っていた。この間、「市子石」は常にジャマな存在だった。阿闍梨小路の入り口の旧東海道路側帯南側に置かれていたと伝承される「市子石」は近代化の推進者にとって障害物の何物でもなかった。ただ、三島七石という由緒により廃棄は、さすが免れている。
まず路面電車の軌道確保のための道路幅拡張工事、建物新設時のセットバックなど道路事情の変遷に伴い「市子石」は工事業者預かり、市役所関係当局預かりとなり、都度移動を余儀なくされたと見るのが自然である。
ユニー(現在敷地内は15階マンション+キミサワ広小路店)の店舗前にあったとされるが、それも元の位置から移動されている可能性は高い筈だ。
市役所建設部をはじめとする関係者は「市子石」の安住設置場所を考えた。その条件としては@阿闍梨小路の路線内にあること A民間の動がし難い河川上にあることB通行に邪魔にならない場所などを条件に現在の場所に移動させられた経緯が考えられる。
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