三島生まれの児童文学者・小出正吾氏の自筆原稿「ジンタと三島」に次のように記されている。
せせらぎの音は子守唄のようなものだった。川のホタルは家の中まで飛んできた。水上の岸べは男女の子ども河童で賑わっていた。その付近には十個ばかりの水車があって、朝から晩までコットン、コットン・・・米をついていた。 (中略)
「水上の岸」とは現在の白滝公園周辺の川岸を指す。昔は現在の楽寿園と白滝公園(昔は水泉園と呼称されていた)とは三島溶岩流南端の一塊の溶岩湧水地帯として繋がっていました。しかし東海道線三島駅の開通により楽寿園と白滝公園の間に道路が造られそれぞれ分離独立した湧水樹林帯となっています。
水上(みずかみ)と呼称されましたのは、三島市内を流れる湧水系河川の上流部に立地するからであり、水上の上流部には菰池(こもいけ)・鏡池(かがみいけ)などの自噴泉があり川上に水が集まる。この水上自体から自噴する湧水と浅間神社の池から湧く水の一部が合流して桜川や御殿川への水源地であることを意味しています。
毎年7月15日・16日の両日には、三島楽寿園の南隣と南東隣に位置する浅間・芝岡神社の祭りと白滝公園の「水まつり」が、三嶋大社・三島仏教会・商工会議所と旧芝町区(文教町1・一番町・芝本町1・芝本町2・芝本町3)の五つの町民により祭りが執り行われています。
三島八景の一つ「水上からの富士山」がありますが、古の三島人は水上辺りから富士山が強く意識していたようで浅間神社は別名「岩止め浅間」とされ、浅間神社の位置で三島溶岩流は止まったと伝承され、この止まった溶岩群一帯から富士山からの豊富な地下水が湧きあがるというイメージを持っていました。
さて、搗屋のみちを白滝公園側から入りますと、直ぐに西から東へ流れ下る細い川があります。浅間神社付近に住む古老によれば、浅間神社の南側に道幅の狭い前道があり、その道の南脇に沿って浅間神社の池から流れる川が東へ流れ信号機のある交差点(暗渠)を渡り、白滝公園から南へ下る細い川(暗渠下)とY字に合流して民家の裏を通過して御殿川へ更に合流していることが仄聞されました。これが、搗屋のみちの足水の正体です。つまり、水源は白滝公園の湧水に加え浅間神社の池からの湧水のブレンド水でした。
浅間神社の湧水は一般的に西へ流れ源平川に流れ注がれるだけと見られて来ましたが、実は東方面への分流もこっそり存在していた訳で、古の人は搗屋の水車の流速を高めつつ御殿川の水量を増加させ、温水池農業用水の確保を心掛けた知恵が垣間見られます。
なお、平成24年7月14日午後3時30分ごろ浅間神社の提灯設置作業前に写真を撮ろうと桜川を通りかかったところ平成24年6月6日に菰池(こもいけ)で出あったカルガモの親子と遭遇、11羽の子どもは親鳥と同じくらいに成長し、どれが母鳥なのか分らない集団となって泳いでいました。犬を散歩させていた婦人は「11羽もの子供を無事育て上げ母鴨は偉いですね〜」とカメラを向けていた筆者に話しかけて来ました。
あさって16日にはコガモにとって灯篭流しの初体験、菰池に一時避難していた方が良さそうです。
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