三島里山倶楽部

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源頼朝が化けた1180年
吾妻鏡+α現代語訳


吾妻鏡+α

治承4年(1180年)6月19日
散位三善康信の使者(弟の康清)が北條に到着、頼朝は静かな部屋で面会した。使者が言うには、「先月26日の以仁王事件の後、令旨を受け取った源氏らを全て追討せよとの命令が、平清盛より下されました。頼朝様は嫡流ですから特に危険で、至急奥州へ遁れるようお勧めします。」と。康信は母親が頼朝乳母の妹なので源氏の味方であり、これまでも毎月3回ほど使者を送って京の情勢を知らせていた人物である。

三善康信は、公式記録では宇治から南都(奈良)へ逃げる途中の山城国相楽郡(木津川市山城町神ノ木)で討たれた事になっている。高倉天皇の生母・建春門院は後白河の后であり清盛の妻の妹。側妾の加賀大納言藤原季成の娘・成子が産んだ以仁王は建春門院の妬みを受け、29歳になっても親王宣下(天皇による認知)も受けられず、不満が蓄積していた。さらに治承3年(1179年)11月の後白河幽閉にともなって以仁王の常興寺領も平家より没収された事が決起の引き金となった。

治承4年(1180年)8月9日   
大庭景親が佐々木秀義を招いて書状を読み聞かせた。「在京の際に藤原上総介忠清が長田入道からの書状だ。北條四郎(時政)と比企掃部允らが頼朝を大将に担ぎ上げ謀反を計画していると聞く。事実ならば、我々は頼朝の始末を考えねばならない。」との内容だった。「あなたは源氏と縁のある者だから話すのだが、あなたの息子たちは頼朝に味方している。巻き添えにならぬよう注意したほうが良い」と忠告した。秀義は驚きおののきを抑えて自分の館に戻った。

治承4年(1180年) 8月10日  
佐々木秀義は嫡男の定綱(宇都宮に滞在、先般渋谷に入ったばかり)を頼朝の許に送り景親が話した大庭景親の動向を伝えた。

治承4年(1180年) 8月19日 
兼隆親戚の史大夫知親は伊豆蒲屋御廚(伊勢神宮の神領:現在の下田市田牛(とうじ)から南伊豆町の青市・湊の一帯にあった)の庄司として勝手な振る舞いが多かったため権限を停止する下知を出した。走湯山(伊豆山権現)を往来する武士の狼藉を禁じ伊豆と相模の荘園を寄進することも下知した。頼朝の関東における最初の下知である。夜になって御台所(政子)に藤原邦道と昌長(神官)を供につけに走湯山(伊豆山)の文陽房・覚淵の坊に移す手配をしている。戦況が落ち着くまで密かに匿うためである。

治承4年(1180年) 8月20日
三浦介義明の軍勢は悪天候で遅れている。そのため頼朝は伊豆と相模の御家人のみを率いて伊豆を発ち相模国土肥郷(湯河原)に向った。
従った主たるメンバーは北條時政・北條宗時・北條義時・平六時定(時政の弟兼時の子)、足達盛長、狩野茂光・狩野親光、宇佐美助茂、土肥實平・土肥遠平、土屋宗遠・土屋義清・土屋忠光、岡崎義實・与一義忠、佐々木定綱・佐々木経高・佐々木盛綱・佐々木高綱、天野遠景・天野政景、宇佐美政光・宇佐美實政、大庭景義、豊田景俊、新田忠常、加藤景員・加藤光員・加藤景廉、堀親宗・堀助政、天野光家、中村景平・中村盛平、鮫島宗家・鮫島宣親、大見家秀、近藤七国平、平佐古為重、奈古谷頼時、澤宗家、義勝房成尋、中四郎惟重、中八惟平、新藤次俊長 、小中太光家 。

治承4年(1180年)8月22日
三浦次郎義澄(義明嫡男)・三浦十郎義連(義明の末子・佐原義連)・大多和三郎義久(義明の3男)と大多和義成・和田義盛と和田次郎義茂と和田三郎宗實・多々良三郎重春(義明の孫)と多々良四郎明宗・津久井次郎義行(義明の弟)らがそれぞれ数輩の精兵を率いて三浦から箱根方面へ向った。

治承4年(1180年)8月24日
大庭景親は3000余騎を率いて頼朝を小田原早川方面より追撃した。最初、頼朝軍は石橋山に布陣したが、多勢に無勢にして撤退を余儀なくされる。頼朝は(土肥椙山の入口に近い)堀口で戦った後に椙山の嶺を目指して落ち延びた。加藤次景廉・大見平次實政が留まって後衛の役を務めた。

加藤五景員は息子の景廉を案じ、大見平太政光は弟の實政を案じて山には入らず、堀口に留まって攻め寄せる景親軍と戦った。加えて加藤太光員・佐々木四郎高綱・天野籐内遠景・同平内光家・堀籐次親家・同平四郎助政も馬を返して防戦したが乗馬の多くは矢を受けて死傷してしまった。

頼朝も馬をめぐらして熟達した弓の妙技を見せ、多くの敵を倒した。その後に矢が尽きたため景廉が轡(くつわ)を取って深山 を目指したが、景親の軍兵は40〜50mまで接近した。高綱・遠景・景廉等が力を合わせて矢を放ち、北條時政・宗時・義時父子も死力を尽くして戦ったものの泥路・流石に足をとられ疲れ果て、すぐには頼朝の後に続く事が出来なかった。景員・光員 ・景廉・祐茂・親家・實政等が時政の指示を受けて険しい山道を数百mほどよじ登り頼朝に合流した。頼朝は土肥實平を従えて倒木の上に立ち、到着を喜んだ。

この地の土地勘に優れた土肥實平が言うには「皆が揃ったのは嬉しいが全員でこの山に隠れるのは無理だ、頼朝様だけなら何ヶ月でも隠し通せる」と説得し始めた。しかし全員が頼朝に同行を申し出て頼朝も許す気配を示したため、實平は「今の別離は後の幸せに通じる。全員が命を永らえ敗北を乗り越え恥辱をそそぐべき」と続けて説得した。

こうして全員が悲しみに耐えて後ろ髪を引かれつつ分散逃避する運びとなった。その後に飯田家義が跡を辿って追いつき頼朝の念珠を届けた。普段から持ち歩き今朝の合戦の際に落とした、頼朝に付き従う武士なら誰でも知っている数珠である。頼朝は嬉し涙を見せ家義も同行を望んだが實平が前例をひるがえさず同様に諌め、涙で退去した。

大庭景親は頼朝を追って山の峰や渓流沿いを隈なく捜索した。梶原平三景時という者が頼朝の所在を知りながら温情を掛け「この山には人が入った形跡が見られない」と咄嗟の嘘により景親を別の峰に誘導した。頼朝は髻(もとどり)の中の観音像を取り出して隠れた洞窟に安置した。實平が訳を尋ねると「景親らに首を獲られた時にこの仏像を見られたら源氏の大将軍らしくないと嘲笑されるだろう。この像は私が3歳の時に乳母が清水寺に参籠して将来を祈り、27日過ぎに夢のお告げで2寸の銀製観音像を得た、私が帰依している仏だ」と答えた。

夜になって北條時政が頼朝に合流した。筥根山(箱根権現)の別当僧・行實が弟の僧・永實に食料を持たせて頼朝を捜索し、まず時政に逢って頼朝の隠れ場所を尋ねた。時政は「景親の包囲から逃げられなかった」と語ると永實は「将が死んだのならあなた配下も此処には居ないでしょう」と答えた。時政はその通りと笑って頼朝の前に連れて行った。持参の食料は実に貴重な差し入れだった。實平は「世が落ち着いたら永實を筥根山の別当に抜擢すべき」と申し出た。頼朝もこれを了承し、永實とともに筥根山に向った。行實の宿坊は参詣人が多く、隠れるには適さないため永實の房に入った。

行實の父・良尋は為義と義朝(頼朝の祖父と父)の時に多少の縁があり、その縁によって父から筥根山別当職を譲られた者である。為義は行實に下し文を与え東国の関係者に供した。義朝の下し文にも「駿河・伊豆の者は行實の求めに応じるべし」としている。頼朝が北條にいたごろから祈祷を受け持っていた。石橋山敗北の知らせを受けて嘆いていたが、数多くの弟子から永實を選んで派遣したのである。

三浦軍は頼朝軍に合流する予定だったが酒匂川渡河に難航し、石橋山の合戦が頼朝敗走に終わったとの知らせを受け、丸子河(酒匂川)から撤退を余儀なくされている。さらに三浦軍は夜明けに小坪の浜で畠山軍とバッタリ遭遇した。三浦の侍大将和田義盛は総大将の三浦義澄に「鐙摺(葉山)の城に先に向かってくれ、私はここで一戦片付けてから合流しよう」と言って先陣に走った。赤旗を輝かした畠山重忠の500余騎は稲瀬河に布陣して使者を送り、「三浦の衆に遺恨はないが父重能と叔父小山田有重は平家に奉公し従軍している。重忠軍陣の前を源氏の軍勢が素通りすれば叱責を受けるから参上した。こちらへ来襲するか、或いはそちらに攻撃をかけようか」と申し入れた。義盛は實光を使者に立て「承知した。確かにその言い分は分かるが、重忠殿は三浦義明の孫(重能の正室は義明の娘、つまり重忠の母)であり、祖父に弓を向けるのが本意とは思えぬ」と答えた。重忠は「本音は、戦いの意趣はない。父と叔父の立場に配慮して否応なく出陣したのである。重忠も引き上げるから各々も三浦に帰り給え」と答えて源平双方の面目を保ちつつ合戦を回避したかに見えた。
ところが、予期せぬ事態が勃発してしまう。和田義盛の下人が早とちりして椙本館(父・椙本義宗の館、現在の杉本寺)に駆け込み、三浦本隊から離れて父の館に立ち寄っていた義盛の弟義茂に「由比ガ浜で合戦!」と報告したものだから、義茂は兄の危機を救うため由比ガ浜に駆け付けた。
義茂が犬懸坂(名越の南側)を駆け下ると甲冑の武者4〜500騎が見えたため大声で叫びながら突入した。それを見た畠山勢は「和睦の話は真っ赤な嘘か、援軍を待つ口実だったのか」と反撃に掛かり、義盛勢も「義茂を討たせるな、戦え」と押し寄せ、鐙摺に入った三浦義澄も後方での騒々しさに小坪浜に取って返した。畠山勢は「三浦勢に加えて上総・下総も加わった、多勢に囲まれては不利だ」と考え、防戦しながら撤退した。三浦軍は勢いに乗って攻めかかり本格的な合戦になってしまった。
和田義茂の奮戦によって畠山側は連太郎・河口次郎大夫・秋岡四郎など屈強の武者30余人が討たれ負傷者も多数出た。三浦方は多々良十郎と同・次郎と郎党2人が命を落とした。著しく武将のプライドを傷付けられた畠山重忠は同族の河越重頼と江戸重長とともに衣笠城に押し寄せることになる。

治承4年(1180年) 8月25日
大庭景親は頼朝の逃げ道を塞ぐため軍兵を各所に派遣し要所を固めた。(弟の)俣野景久は甲斐源氏の武田(信義)・一條(忠頼)を討つため駿河国目代の橘遠茂の軍勢とともに甲斐に向い富士北麓に宿営したが、百張り以上の弓弦を鼠に食い切られてしまった。狼狽しているところに石橋山合戦の情報を得て出陣した安田義定・工藤景光、同じく行光・市川行房らが波志太山で遭遇し、合戦は数刻に及んだ。景久勢は弓が使えないため太刀を取って戦ったが矢を防ぐことができず敗走した。

大庭景親は頼朝が(土肥の椙山から)逃亡するのを阻止するため軍兵を方々に派遣して要所を固めた。弟の俣野景久は駿河目代・橘遠茂の軍勢を伴って甲斐源氏の武田信義・一條忠頼らを攻めるため甲斐国に向った。昨夜富士の北麓に宿営したところ、百余りの弓弦が鼠に食い切られた。狼狽している処へ石橋山合戦を知って甲斐を出発した安田義定・工藤景光と嫡子の行光・市川行房らと波志太山で遭遇、景久勢は弓が使えず太刀を抜いて戦ったが多くが射取られた。義定の家人にも負傷者はあったが、俣野景久は逃亡して行方不明になった。

治承4年(1180年) 8月26日
畠山重忠は平家の恩に報いるため、また由比ガ浜の屈辱を晴らすため三浦を襲った。秩父の家督を継いだ河越重頼と縁戚の江戸重長も同意し加わった。

治承4年(1180年) 8月27日
衣笠城の三浦介義明(89歳)が河越重頼と江戸重長らに、辰の刻(朝8時)討ち取られた。大庭景親も数千騎を率いて衣笠に攻め込んだが既に三浦一党の退去後で、空しく引き上げている。
源平盛衰記によれば義明は全滅を覚悟した一族に「敗戦は明らかだが死んではならん、佐殿(頼朝)は必ず生きているから合流して三浦の家を立て直せ。」と説得し、その後に「しかし私は残る。この歳ですでに体は不自由であり、もし逃げ遅れて一族が滅びたら命を惜しんだ私の恥辱と思われる。逃げ切れずに途中で置き去りにすればお前たちが不孝・不忠と嘲られる」と覚悟を示した。

治承4年(1180年) 8月28日
加藤光員と景廉兄弟は駿河国大岡牧(沼津北部)で合流、無事を確認し涙を流した後は富士山麓に潜伏した。頼朝は土肥實平が配下の貞恒用意させた小舟で眞名鶴崎(真鶴)から安房国を目指した。また土肥遠平(實平嫡男)を使者として御台所政子に無事を連絡した。
三浦から落ち延びた人々は舟に乗り安房の北にある猟島に上陸、敗残の惨めさが漸く安らいだ。やがて沖合いに一艘の舟が見えたため「この悪天候に漁師や商人ではあるまい、頼朝殿の舟か或いは敵の舟かも知れぬ」と警戒した。

次第に近付いた舟に頼朝の笠印が見えたため、三浦の舟でも笠印を掲げた。頼朝の舟では更に用心して頼朝を打板(脚付きの腰掛け)の下に隠し、その上に武者が居並んだ。三浦方の和田義盛が「頼朝殿は乗っていないのか」と問い、頼朝方の岡崎義實が「我らも行方を捜している」と答えた。三浦方は義明が遺した言葉を語り岡崎義實は与一討死のことなど、合戦の様子を語り合った。頼朝は隠れる必要はないと考えて打板の下から出た。

三浦の人々は大いに喜び、和田義盛は「父が死のうが子孫が滅びようが、頼朝殿の無事を確認した喜びに勝るものはない。挙兵の目的を達成するのは疑いなし、その時には侍たちに国中の所領を分け与え、義盛には侍所別当への任命を。上総権守忠清(藤原忠清)が平家から関東8ヶ国の侍別当に任命されたのが羨ましかった」と語った。 

治承4年(1180年) 8月29日
頼朝は土肥實平を伴い小舟で安房国平北郡猟島に上陸した。北條時政ら先着の人々が頼朝を出迎え、数日間続いていた鬱念が晴れた。
当時の安房国は安西・金余・丸・東條・長狭の五豪族が支配しており、長狭氏以外は頼朝に従った。上陸した猟島一帯は安西氏の所領であり、安西氏の出自には諸説あるが「安房の西」を領有し三浦一族と縁戚関係にあったと推測されている。

三浦一族や土肥一族が頼朝を安房国猟島に導いたのはもちろん偶然ではなく、頼朝の挙兵に対応して協力し合うのを事前に確認していたと思われる。
頼朝が安房国に上陸したのは諸説あるが、現在では鋸南町の竜島(旧名・猟島)が定説となっている。

治承4年(1180年) 9月1日
頼朝が上総介廣常の屋敷に行こうと言い出した。北條時政を筆頭に従者の面々はそうすべきだと言った。安房国の安西景益)は頼朝の子供の頃より仲良くしていた間柄だったので、安房に来て最初に手紙を出した。「令旨は間違いなく従うべきなので、国衙に勤める在庁官人を同行して参上するべし。また安房の国内の京都から来ている平家方の連中は、全て捕まえて連れて来るべし。」との下知文だった。

治承4年(1180年) 9月2日
御臺所(みだいどころ=政子)は熱海伊豆山の走湯山権現から秋戸郷(静岡県熱海市伊豆山西側海岸の崖下要害の地)に匿われていたが、頼朝の無事を確認できぬ状況下で一人悶々とした日々を過ごしていた。今日の午前八時ごろ土肥実平の嫡子・土肥弥太郎遠平が頼朝の伝令として真鶴岬から秋戸郷に馳せ参じ、まず頼朝の健在であることを伝えたが、舟に乗って安房へ向かった後の消息は分からないとの遠平の真っ歯に衣を着せぬ返事で、悲しみと心配は助長されるばかりで、神だのみに頼朝の無事を祈るだけの日々が続くことになる。

治承4年(1180年) 9月3日
大庭三郎景親は、平家の命令を受け、三千余騎を引き連れ頼朝討伐に執念を燃やした。石橋山の戦いでは天候や立地の悪さに総大将・頼朝を捕り逃がしているが、その足で狩野茂光の狩野城(狩野川上流の山頂の砦)を落城させている。
頼朝勢300騎に対しては、大庭景親率いる三千余騎の軍勢は十分すぎるほどの脅威ではあったが、景親に味方したのは相模の武士としては大庭御厨周辺の大庭氏子飼いの郎党、武蔵の武士は平家に従属する武士に限定されていた。これに対し頼朝に加担したのは三浦一族と相模西部の中村一族の構図にあった。つまり、平家全盛時代には大庭家は甘い汁を飲んでいたが、周囲の源氏勢力は苦い汁を飲まされていた訳で、流れが変われば大庭勢力が極めて限定的だったこともあり、逆転劇が極めて可能な勢力図になっていた。
源頼朝の状況判断は的確であった。安房上陸後、矢継ぎ早に武蔵国の源氏の恩顧を汲む武将達への手紙を送付し続ける。小山四郎朝政(現栃木県小山市)・下河邊庄司行平(荒川沿いの幸手市等)・豊嶋(てしま)權守C元(現・北区豊島 清光寺)、葛西三郎C重 (葛西御厨で現葛飾区と市川市)に送っている。

内容は、旗揚げした源頼朝に味方する志のある武士は参集されたしだった。特筆すべきは、江戸太郎重長と川越太郎重頼の中間に領地を有し源氏の忠誠心の厚い葛西清重(武蔵国丸子荘)へは「ここへ来るのに陸路は難しいだろうから、早く舟で海を渡ってくるように」との丁寧な言葉が添えられ、また大番で留守中の豊嶋右馬允朝經の妻には「また綿入れを作ってよこすように」と記されているなど細かな配慮がなされていることである。

このような状況下、安房(一戦場)において小さな戦いが発生している。平家に味方する安房国・長狭常伴が頼朝の宿泊の隙を狙って夜襲をかけようと兵を挙げたが、事前に事態を察知した三浦義澄が先回りし機先を制し長狭一族は敗北している。

治承4年(1180年) 9月4日
安西三郎景益は手紙を貰い、安西一族と在庁官人を2〜3人を引き連れて宿泊所に参上した。安西景益が進言するには、「安易に上総廣常の所へ行くべきではない。上総に向かう道中には長狭のように平家の褒美を狙った盗賊紛いの連中が徘徊している。道中の途中からでも使いを出して、迎えに来るように下知されるのが宜しいと思う」と進言した。そこで頼朝は良諾、踵を返して安西景益の屋敷に向かい宿泊した。和田義盛を上総廣常の館に行かせ、藤九郎盛長を千葉常胤の館に行かせて、それぞれに頼朝様のもとへ来るように伝言させている。
  
治承4年(1180年) 9月5日
頼朝は洲崎神社(千葉県館山市)の祭壇前に詣でて熱心なお祈りをした。上総廣常と千葉常胤に行かせた二人の使者が安全無事に戻ったならば、良田を神社に寄付するという願文を奉納している。

治承4年(1180年) 9月6日
夜になって和田義盛が上総広常の館から戻って来た。「千葉常胤に相談した上で、参上いたします」との廣常からの伝言を述べている。

治承4年(1180年) 9月7日
木曾冠者義仲は源義賢の次男として生まれる。帶刀義賢(東宮警備兵の隊長)は昔の久寿2年(1155年)8月に武蔵国大倉の館で鎌倉惡源太義平に打ち滅ぼされた。
父・義賢が亡くなった時、木曽義仲は三歳の子供だったので、乳父の中三權守兼遠が抱いて信州の木曽へ連れて逃げ帰り、義仲を育成した。成人した今は武士の家系の血を引いた義仲の心中に、平家征伐・源家再興を願いが強まって行く。そこへ、源頼朝が旗揚げし、石橋山の戦いを耳にし、直ぐに参戦して、義仲の志を表明したいと思った。

しかしながら、平家に味方した小笠原平五頼直 (長野県中野市笠原)が義仲の前に立ち塞がった。木曽義仲の味方となる村山七郎義直(長野市村山)と栗田寺(長野市栗太)の長官大法師の範覺達が義仲の旗上げを伝え聞いて信濃に向かった。信濃国の市原で出会った小笠原平五頼直との戦の口火が切られた。双方の戦力が拮抗していたのか、戰の途中で日が暮れてしまい軍配の行方が分らない。

村山七郎義直は矢が無くなり戦意喪失(当時の戦は矢戦が主体)、伝令を木曾冠者義仲の陣に走らせ戦況不利を伝えた。木曾冠者義仲は伝令を聞くや直ちに大軍を引き連れて合流助成に入ったため、小笠原頼直はその勢いに怯えて逃げ出し、城四郎長茂の軍勢に助けを求めて越後国へ逃走した。

治承4年(1180年) 9月8日
北條時政は、源頼朝の派遣司として甲斐の国へ出発する。

治承4年(1180年) 9月9日
藤九郎盛長が千葉の館から戻り、千葉介常胤との会見の模様を頼朝に伝えた。
「常胤の門前で案内を乞うたところ、いくらも待たせずに客室へ招かれ、常胤は既に首座座し、子供の胤正と胤頼が近侍していた。常胤はきちんと全て盛長の話すことを聞いていたけれども、まるで眠っているかのように、しばらく発言しないままだった。

使者として要件を話し終わると、その二人の息子は父の無言状態を心配して「まるで、頼朝様が眠れる虎が目を覚ますがごとく、先祖の英雄の足跡を思い起こして、世間に我が物顔に振る舞っている平家を攻め鎮めようと、事の最初に我が家に下知されたのに、なんで答えを躊躇しているのですか。早く承諾の手紙を献じ賜え。」と常胤に進言した。

常胤が沈黙を破り答えるには、「心はすでに、了承する事に何の躊躇いも無い。源氏の途絶えていた権勢を盛り返そうとのお心に、感動の涙が目に溢れ、言葉では言い表せないのだ」と重い口を切った。その後、酒を振舞われ、その時に「今のおられる所は、たいして守り易い土地でもなし、ましてや先祖の云われも無い。速やかに相模の鎌倉へ行かれるが良い。常胤が出入りのもの皆引き連れて、頼朝様をお出迎えに参りましょう。」と、この上も無い伝言が届いた。

治承4年(1180年) 9月10日
甲斐国の源氏・武田太郎信義と一條次郎忠頼以下は、石橋山合戦の伝えを聞いて、源頼朝に参軍しようと考え、駿河の国へ向かった。しかし、平家の味方が信濃国にいる状況なので、まずそちらの敵を制しようと矛先を向けた。

昨晩、一條忠頼が諏訪神社の上宮の庵沢の辺りに宿泊したところ、深夜に一人の婦人が一條忠頼の陣に来て、話すことが有ると申し上げた。一條忠頼は不信に思いながらも、焚き火の傍に招いて話を聞いた。女が言上するには「私は諏訪神社の大祝篤光(おおはふりあつみつ)の妻で、夫の使者として参上したという。大祝篤光が妻に話したのは、源氏のために祈祷をしていたところ、社殿での夢想の中に梶の葉の紋(諏訪神社の紋)の直垂を着て葦毛の馬に乗った勇士が一騎、源氏の味方であると云って西へ向けて走っていった。これは諏訪明神のご威光が現れたに違いないと、夢のお告げから覚めて、篤光自身が伝えに来ようと思ったが、ご威光を告知していただいた神様の前で拝んでいるべきだと思い、替わりに私を使いによこした」と吉祥を伝えた。

一條次郎忠頼はとくに諏訪神を信仰していたので、大事にしていた太刀一腰と腹巻一領をその妻に与え吉祥のお告げを喜んだ。
神のお告げに従って直ぐに出陣して平氏の味方の菅冠者の伊那郡大田切郷の城へ攻めるため到着した。菅はこの事を聞いて、戦いも始めない内に館に火を付けて自殺してしまった。皆根上河原に陣をひいて、相談して云うには、庄園を上下社に寄附して後日頼朝に報告しようと意見を述べると、皆反対をしなかった。右筆を呼んで、寄進状を書かせた。

上宮の分は信州の平出と宮所の二郷、下宮の分は龍市(辰野町立野)の一郷。それなにの書く人が間違えて岡仁谷郷を書き足してしまう。何度も書き直させましたが、毎回二郷の名前を書いてしまうので、そのままにして置いた。老人に聞いてみると岡仁谷と呼ばれる所があると云う。武田太郎信義と一條次郎忠頼は手を打って、上下の神社に差別があってはならない~の思し召しが明らかだ。これはすごい神のお告げだと信じて、改めて信心を深めた。その後、平家方につくと噂される武士達をかなり多く攻め滅ぼした。

治承4年(1180年) 9月11日
源頼朝は安房の丸御厨(千葉県丸山町)を見学して回った。丸五郎信俊がお供して案内した。ここは先祖の与州禅門源頼義様が後三年の役で阿部一族を征伐した時に初めて朝廷から貰った所で、また源義朝が父の廷尉爲義から譲渡された最初の地でもある。そして頼朝の位の上がることを祈ってこの地を平治元年6月1日に伊勢神宮に庄園を寄進したので、同月の28日に蔵人に任命された。

そこで今懐かしく思う余りここに立つと、20年以上の昔を思い出して、懐かしの涙を流した。御厨にした所は必ず~のご加護にあうものなので、この先の願望に対して邪魔が無く旨くいけば、ここ安房の国に新しい御厨を立てて、なお伊勢神宮に寄附しましょうと、願いを自筆で書いて捧げた。

治承4年(1180年) 9月12日
源頼朝は、年貢を神社に納めるための田地を洲崎宮に寄進された。その寄進状を今日認め神社に送付する。

治承4年(1180年) 9月13日
頼朝は安房の国から上總の国へ向けて出発する。従う兵隊は三百騎に達する。しかし、上総權介廣常は兵員を集めるために未だ遅くなるとの返事が返されている。今日、常胤は子供達や親類を率いて、頼朝の所へ参上しようとしたが、息子の東六郎大夫胤頼が父に進言した。「下総国の軍勢の殆どは平家に従う者達。私達一族全員が国境を出て頼朝の居る安房国へ行ってしまえば、その隙を衝いて必ずや攻め込んでくるに違いない。まず足下の敵を攻め殺しておく必要があるのでは」との意見を述べた。

常胤もこの意見に同意し「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ」と下知した。よって東六郎大夫胤頼とその甥に当る千葉小太郎成胤は部下を連れて千葉の代官屋敷へ攻めかかった。千葉の平家の代官(紀季經)は元からの大豪族なので数十人の兵隊で防戦した。丁度北風が強く吹くので、千葉小太郎成胤は下郎達を館(市川市国府台)の後ろに回らせて、建物に火を付けて燃やさせたので、代官は火事に逃げ惑い、防戦のすべも無いままに、東六郎大夫胤頼にその首を獲られている。

治承4年(1180年) 9月14日
下總国の「千田の庄」の領家である千田判官代親政は刑部卿平忠盛の聟である。平清盛に従う意思があるので、代官が殺されたのを聞いて、兵隊を連れて、常胤に反撃しようとした。そこで常胤の孫の千葉小太郎成胤はこれと戦ってついに千田判官代親政を捕虜にし、相手の位が高いだけに下総周辺にかけて評判を得ている。

治承4年(1180年) 9月15日
甲斐源氏・武田信義、一條忠頼以下は信濃中の敵を討ち終って、昨夜甲斐へ戻って逸見山(須玉町若神子)に泊った。今日、北條時政がその場所へ到着され、伝言の内容を彼等に話した。

治承4年(1180年) 9月17日
源頼朝一行は、上総權介廣常の到着を待たずに下総へ向かうことにした。千葉介常胤が息子の太郎胤正、相馬次郎師常、武石三郎胤成、大須賀四郎胤信、國分五郎胤道、東六郎大夫胤頼、嫡孫の千葉小太郎成胤を引き連れて、下総国府(市川市国府台)にやってきた。従う兵隊は三百騎に達した。千葉介常胤は捕らえた囚人の千田判官代親政を頼朝一行に見せた。次に昼食を献上した。頼朝は千葉介常胤を頼朝席の脇に呼び寄せて、「千葉介常胤を父とも思っている」と心底を漏らしている。次に、千葉介常胤は一人の若い侍を連れて前へ出た。

「この者を今日の贈り物としますので、どうぞお使いください。これは、陸奥六郎義隆の息子で毛利冠者頼隆と申します」と紹介した。紺村濃の鎧直垂を着て、小具足を着け、千葉介常胤の脇に跪いている。その雰囲気を見て、確かに源氏の血筋に違いないと感じて、すぐに常胤の隣に呼び寄せた。彼の父の義隆は過ぎ去った平治元年十二月京の戦に破れ、東国を目指し落ち行くときに、比叡山延暦寺北側片田町竜華へでる峠で、比叡山の僧兵に落人狩りで攻められ、左典厩義朝の身代わりとなって命を捧げた。そのとき頼隆は生後50日前後。頼隆は父影響で罰せられ、永暦元年(1160)二月に常胤に流人として預けられていた。

治承4年(1180年) 9月19日
上総權介廣常は上総の周東周西、伊南伊北、廳南廳北の連中を呼び集めて、二万騎で隅田川の辺りで合流した。源頼朝は廣常の遅参を怒って、許さなかった。上総廣常は、平家の時代となって坂東の侍で平清盛に仕えていないものは無い。一方、頼朝は流人であり格別の戦功も無く、反逆の蜂起をしたばかりで、仮に、頼朝と対面して棟梁の器量が無く高貴な相が無ければ、二万騎の兵力で直ちに頼朝一行を討取って平家に差し出そうとの思いの、二心を抱きながらも、表面は従う振りをして参上したというのが本音だったかも知れない。

安房国で廣常にさんざん待たされ、源平どちらに就くのか立場も鮮明にしなかったことが、頼朝が廣常に対し疑心暗鬼を抱くに至り、両者の間には深い溝が出来たことは否めまい。隅田川の合流では、配下古参の執り成しから廣常軍の参加は許されたものの、廣常の心境は棟梁の逆鱗に触れてしまった後悔の念が生じ、一方、頼朝の心底には「利用するだけ利用して、利用しきった後は抹殺するのみとの憎しみ念が芽生えていた」と思えるのである。


治承4年(1180年) 9月20日
土屋三郎宗遠 (平塚市土屋)は頼朝様の使者として甲斐へ向かった。安房、上総、下総の兵隊は全て参加して来た。そこで、上野、下野、武蔵の兵隊を連れて、駿河の国へ行き、平家の来るのを待つように、早く北條四郎時政を案内として黄瀬川の辺りに来て迎え撃つように、武田太郎信義以下の甲斐源氏に伝えるように早くから使者を送り出している。

治承4年(1180年) 9月22日
平惟盛は源氏を攻めるため関東に出発しようとしていると、摂政家が馬を与えた。朝廷の厩の案主の兵衛の志C方が使いとして来ると、平左近少將惟盛は是に出会って馬を貰い受けた。

昔の嘉承2年(1107年)12月19日に平左近少將惟盛の高祖父の平正盛「当時は因幡守」が宣旨を受けて源義親を追討するため、出発の日に摂政家に行き、出発の挨拶を終えて帰る途中に、馬を平正盛の家へ贈らせたところ、使いは厩の案主の兵衛の志爲貞だった。またもや、平安貴族の得意技・前例にのっとり縁起の良い古い例を踏襲しているのだ。

治承4年(1180年) 9月24日
北條時政と甲斐の源氏達は逸見山から石和へ来て宿泊していたところ、真夜中の12時頃に土屋宗遠が到着して頼朝の命令を伝えた。そこで武田太郎信義、一條次郎忠頼以下皆集団にて駿河で頼朝に合流できるよう出発しようとの話となった。

治承4年(1180年) 9月28日
源頼朝の軍は、既に大軍に膨らんでいる。ところが頼朝は武蔵国の状況を深く洞察し、武蔵国の主たる武将の平家からの切り崩しの手を決して緩めようとしない。祖父・父が構築した武蔵国での源氏の流れを再構築したいのか。

頼朝は、使いを出して江戸太郎重長を呼びつけた。「大庭三郎景親の催促に合せて石橋山合戦で敵対した。それはそれで理由は分かるけれども、令旨を守って私に従いなさい。畠山重能と小山田有重はたまたま大番で京都にいるから、武蔵で今は、そなたが一番上なので頼りにしている。集まれる勇士を引き連れて、味方に参加するように」と誘っている。

治承4年(1180年) 9月29日
頼朝への従軍は2万7000騎以上になった。甲斐(山梨)の源氏と常陸(茨城)下野(栃木)上野(群馬)から参加してくるものはおおよそ5万騎にもなる。しかしながら、江戸太郎重長は大庭三郎景親に過去に味方しているので、未だに来ないので試しに手紙を出してみたが、追討した方が良いと決めた。

中四郎惟重を葛西三郎C重の処へ行かせて「大井川(太日川)の防衛を確かめよう」と嘘をついて江戸太郎重長を誘い込んで殺してしまえと命じた。江戸と葛西は同じ秩父一族ではあるが、葛西三郎C重は二心の無い人なので、白羽の矢が立てられた。

その他に特別の使いを佐那田余一義忠の母の処へ送った。この佐那田余一義忠は石橋山合戦で頼朝のために命を捨てて戦い死んでいったので、特に感謝しているからだ。彼の幼い子供達がその遺領に住んでいる。

しかしながら、大庭三郎景親に従っている相模・伊豆の敵対している連中が、佐那田の一族たちが源氏に心を寄せているので、さぞかし狙ってくるだろうからと賢く諭され、安全のために今いる場所〔下総〕へ送り届けるように、使者を出している。

今日、平惟盛が関東へ向けて出発した。平忠度と知度が配下に就いている。これは石橋山合戦の事を大庭三郎景親が8月28日に送った使者が9月2日に京都に着いたので、検討していたが、やっと決まって今日出発した。

治承4年(1180年) 9月30日
新田大炊助源義重入道(法名は上西)は、関東で頼朝が立ち上がる以前に義家の直系だからと源氏の頭領になろうと云う気持ちが合った。頼朝が味方に加わるように手紙を出したのに返事もよこさず、上州の寺尾城に立てこもって軍隊を集めていた。また、足利太郎俊綱は平家に味方して、上野国府の民家を焼き払った。これは源氏についている者たちの屋敷があったからとされている。

治承4年(1180年)10月1日
甲斐の国の源氏の人たちが軍隊を連れて急襲して来るぞ、と駿河に噂が流れたので、駿河の国の代官の橘遠茂は遠江と駿河の軍隊を寄せ集めて、興津(静岡県静岡市興津町)の辺りに陣を構えた。一方、石橋山合戰の時に別れ別れになった人たちの多くは頼朝のいる鷺沼の宿泊先に参上した。

また、醍醐禅師全成(阿野全成で頼朝の弟・後に政子の妹と結婚し、駿河国阿野荘を貰って阿野全成も来ると言う良い事が重なった。令旨が出されたことを京都で聞いて、寺を抜け出して修行者に扮装をして下ってきたと話している。頼朝はその志に泣いて感激をしている。

治承4年(1180年)10月2日
頼朝は、千葉介常胤、上総介廣常等が用意した船に乗って太井川、墨田川を渡った。立派な軍隊は三万騎にも膨れ上がり武蔵国へ進んだ。豊嶋權守C元と葛西三郎C重が一番にやって来た。足立右馬允遠元は前々からの命令を守って迎えにくるため向かってきていると伝えた。今日、頼朝の乳母で故八田武者宗綱の娘(小山下野大掾政光の妻の寒河尼)が最愛の末っ子を連れて墨田川の宿泊所へ来た。すぐに御前に呼んで昔の思い出話をし合った。

その息子を頼朝の近侍にして欲しいと乳母は切望している。そこで、今年数えの14歳の子を呼び出し、直接烏帽子親になって加冠させ元服をさせている。名を小山七郎宗朝と名付けた(成人して朝光と変える・後に頼朝から結城を貰い、結城七郎朝光となる)。

治承4年(1180年)10月3日
千葉介常胤は、厳しく命令して、子息等と配下達を上総へ行かせ、伊北庄司常仲(南新介常景の息子=勝浦市夷隅町)を攻撃させ、一族郎等ことごとく討伐した。その際、千葉太郎胤政が手柄を立てた。その常仲は長佐六郎の甥なので殺している。

治承4年(1180年)10月4日
畠山次郎重忠が長井の渡し(浅草・石原町)に参上した。川越太郎重頼、江戸太郎重長も一緒に参上した。これら秩父一族は頼朝の忠臣・三浦介義明を殺した人たちである。そして義澄以下の子息一族も頼朝について着実に武功を上げて来た。

重長達は平氏に就き源氏に敵対し、頼朝忠臣の三浦を一時攻めたけれども、頼朝は大勢力の秩父一族を味方にしなければ、打倒平家の大目的を遂げ難いと判断した。打倒平家の大義を尽くすには、過去の恨み辛みを持っていてはいけないと、前もって三浦一族に言い聞かせていたので、三浦一族は異論はないと大人の見地で承諾し、お互いに目を合わせただけで同列に並んだ。

治承4年(1180年)10月5日
武蔵の国での労働奉仕の万雑公事(臨時の労働奉仕)については、国衙の役人や郡衙の役人を指示差配するように、江戸太郎重長に命じた。

治承4年(1180年)10月6日
頼朝は武蔵国を経て相模国へ到着した。畠山次郎重忠が先頭に立ち、千葉介常胤がしんがりを取った。お供にしたう軍勢は数え切れぬ程でした。武蔵国での戦乱を未然に防ぎ進軍が余りにも早かったので、鎌倉での居館を作る暇も無かったので、民家を借りて宿泊所にすることになる。

治承4年(1180年)10月7日
まず鶴岡八幡宮を遠くから拝んで、次に亡き父左馬頭源義朝の亀谷(現在の寿福寺の地)の邸宅跡を見に行った。直ぐにこの場所に邸宅を構えようと一旦は決めていたが、地形が余りにも狭く、それに岡崎4郎義實が義朝様の供養のために、既にお堂を建てていたこともあり、この地での居館着工は取り止めとなった。

治承4年(1180年)10月8日
足立右馬允遠元は普段からよくつかえており、それにいち早く命令に従いやって来たので、元からの領地である郡郷(現足立区・川口・浦和)の支配権を今までどおり認めると命じた。早い段階からの「本領安堵」という下知を下していたことは注目に値する。

治承4年(1180年)10月9日
大庭平太景義を実施担当の奉行として頼朝の家を造る行事の作事を始めた。ただし直ぐには間に合わないので当分の間、知家事(兼道)の山内の屋敷を指定され、これを移転建築させている。この建物は正暦(990-995)の頃に立てられて未だに火災にあっておらず、安部清明の守り札を貼ってあるからと、鎌倉村民には信じられていた。

治承4年(1180年)10月11日
午前六時頃の卯の刻に御臺所(政子)が鎌倉入りをした。大庭景義が迎えに上がっている。昨夜、伊豆の秋戸郷から到着したものの、引越しには縁起が悪い日とされていて、政子も前例に倣い、稲瀬川の民家に宿泊した。また、伊豆山走湯権現の專光坊良暹(頼朝の仏教の先生)が、前々の約束があるので同日に到着した。

治承4年(1180年)10月12日
午前4時頃の寅の刻に祖先からの八幡宮を祀るため小林郷の北山を決めて社殿を造って鶴岡宮をここへ遷した。專光坊良暹をしばらく八幡宮の長官職とした。大庭景義が八幡宮寺の事務担当をしている。頼朝は、今度の実施に際しお清めをし、八幡宮の居場所、新旧両方の場所の選定を心配し、神のお告げを聞くために宮の前で、おみくじを引いて、とりあえず遷祀の場所に決定した。当初とりあえず、綺装飾はせずに茅葺の社殿を造った。

この八幡宮の元社は、後冷泉上皇の時代に伊与守源朝臣頼義が天皇の命令を受けて安倍貞任を討った時に願い事があって、康平六年秋八月に密かに石清水八幡宮から勧請して瑞垣を相模の国由比の郷(今はこれを下の若宮という)に建てた。永保元年二月陸奥守同朝臣義家は修理をした。今また頼朝が小林郷に神に供える浮き草と白蓬を祀っている

治承4年(1180年)10月13日
木曾冠者義仲は亡き父義賢の遺跡(現寄居町)を訪れるために、信州を出て上州に入って来た。そこで住人は木曾義仲に従ったので、藤性足利俊綱 (現足利市)に煩わされても私に従っていれば怖れることは無いと命令をした。(足利太郎俊綱の云うことを無視し木曾冠者義仲の下知に従えと云う意味)また、甲州の源氏と北條四郎時政、北條四郎義時親子は駿河へ向かい、今日も暮れたので大石宿(富士宮市大石寺辺)に泊った。

午後八時頃に、駿河目代(橘遠茂)は長田入道(義朝を殺した長田忠致・尾張知多半島長田荘)の計略を採用して富士野へ回って攻めて来るとの伝達が入ったので、途中で出迎えて戦いをしようと甲斐源氏の面々・武田太郎信義、一條次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内五郎義長、石和五郎信光達等は群議をして、富士山の北麓の若彦路を越えて戦場に向かった。加藤太光員と加藤次景廉は石橋合戦の後、一旦甲州に逃げていたが、ここで一緒に駿河へ向かっている。

治承4年(1180年)10月14日
昼頃に、武田と安田の人達は、神野(富士宮市白糸)と春田路(富士宮市原田)を通って鉢田の辺りに到着した。駿河の代官は大勢の軍隊を率いて甲州に向かった処、不意にこの場所で武田軍に出会ってしまう。山々の狭い一本道に大軍なので前進も退却も思うように動けない。そこで、信光は加藤次景廉達と一緒に先へ進んで攻め戦った。

橘遠茂は多少こらえて攻撃を防いたが、ついに長田入道の子供二人が討たれて、橘遠茂は捕らえられ、死傷者は数え切れないほどだった。軍隊の後の方にいた兵隊も矢を撃つことも出来ず、皆逃亡した。午後六時頃には、討ち取った敵軍の首を富士野の伊堤(沼津市井出)辺りに晒した。

治承4年(1180年)10月15日
頼朝は初めて鎌倉の屋敷に入りました。大庭景義が担当の奉行をして修理をしていた。

治承4年(1180年)10月16日
頼朝の願いとして八幡宮で一日中続ける読経を始めた。経は、法華経、仁王経、最勝王経など国を守る三つの効き目ある経。その他にも、大般若経、観世音経、薬師経、寿命経など、八幡宮寺に仕えている僧達が勤めた。相模の国の桑原郷の田地 (神奈川県小田原市桑原)を勤業維持の年貢徴収用として寄附した。

また、源頼朝は今日駿河国へ出陣した。平家の大將軍として平左近少將惟盛が数万騎の軍勢を率いて、去る13日に駿河国の手越しの駅に到着したと連絡に対応したもの。
今夜相模の国府の六所宮につきまして、ここでこの国の早川庄(神奈川県足柄下郡湯河原町真鶴町)を箱根神社に寄附することにした。

その下し文に自筆の手紙を添えて雜色の鶴太郎に命じて長官の行実の処へ遣わした。書面の内容は、忠節であることは前々から承知しているので、あえて粗略にしているとは思わないが、特別に熱心に祈るようにとの事。
下し文に書いてあるのは
寄附 箱根権現の神の領地の事
相模の国の早川の庄 箱根神社長官の領地として早く命令するように
右の庄園は頼朝の命令により寄附する所で、絶対にその邪魔をしてはならない。
念のため後日のために文書にして命令する。
     治承4年10月16日

治承4年(1180年)10月17日
波多野右馬允義常を討つ為に軍隊を派遣したところ、義常はこれを聞いて下河邊庄司行平達が到着する前に松田(神奈川県足柄上郡松田町)で自殺した。子供の有常は大庭平太景義の処にいたので、その難にあわなかった。義常の叔母は義朝の次男の朝長の母で久恒の子である。父の義通は、妹の推挙によって、左典厩義朝の家来となっていたが、不仲になり、保元三年の春に突然京都から波多野に帰って来て住んでいた。

治承4年(1180年)10月18日
大庭三郎景親は、平家方に付くために1000騎を連れて出発しようとしたが、頼朝が20万騎の軍隊を引き連れて、足柄峠を越えたので、景親は前を塞がれてしまい、河村山(現在の御殿場線山北駅南に河村城址)に逃げざるを得なかった。
今日、伊豆山走湯権現の当番の僧兵達が手紙を提出のため急いで来た。世間で戦争中なので兵士達が当山の神聖地を通行路にしているので、狼藉が絶えないと思われるのだが、どうおもいますかとの事です。そこで、一般人の狼藉を停止するよう文書を下して宥めている。その書面には、
謹んで請け賜る 走湯山の皆さんの捧げ状について
早くこの山の狼藉を停止して喜ばせるためのご祈祷の事について
右の祈る事への経の力はすでに旨くいきました。これは他の力ではなく箱根権現のご利益のとおりであるから、狼藉はしないように。その神社は以仁王と頼朝の祈りの神社である。だからやたらに入ってはならないことを言いつける。
  治承4年10月18日
夕方になって、黄瀬河に着いた。来る24日を戦始めの矢合わせの時と決めた。そこへ甲斐、信濃の源氏と北條四郎時政が二万騎をつれて、前に約束とおり、黄瀬川に到着した。源頼朝は甲斐源氏との面会をした。
それぞれ、諏訪の神官篤光の夢のお告げによって、菅冠者を滅ぼした事とその領地をお礼に諏訪の上下社に寄附した事を話した。もっとも頼朝の心にあっている事をしたと、特別感心した。次に駿河目代との合戦の話に移り、その部下達の捕虜18人を見分した。又その合戦で加藤太光員は目代の橘遠茂を討ち取り、部下一人を捕虜にする。加藤次景廉は部下二人を討ち一人を捕虜にする。工藤庄司景光は鉢田山(愛鷹山)で俣野五郎景久を責め戦い、頼朝への忠節を示した旨を報告し、皆、表彰を受けた。
石橋山合戦において、頼朝に対し弓を引いた者達は、後悔して生きた心地がしなかった。その中で、荻野五郎俊重(現厚木市上荻野、下荻野)、曾我太郎助信(現神奈川県小田原市曽我)は揃って降参して来た。夜に入って、土肥次郎實平や土屋三郎宗遠は酒宴の用意を整えた。この間に北条時政親子を始めとする伊豆や相模の人々に馬や直垂を褒美に配っている。その後、土肥次郎實平を使いとして、故中宮大夫進朝長が育った松田の屋敷(頼朝の兄・朝長の育った屋敷)を修理するように中村庄司宗平(現神奈川県足柄上郡中井町)に命じた。

治承4年(1180年)10月19日
伊東次郎祐親法師は小松平左近少將惟盛に付こうとして、伊豆の鯉名 (現南伊豆町小稲)に船を用意し、海上から平家側に回ろうとしていたので、天野藤内遠景がこれを見つけて生け捕りにして、黄瀬川の頼朝の宿泊先に連れて来た。これを見て、伊東次郎祐親の聟の三浦介義澄が頼朝の御前に参って伊東祐親の身を預かりたいと申し出たので、処罰が決まるまで三浦介義澄に預けると頼朝は下知している。
ずっと昔のことだが、伊東祐親が頼朝を殺そうとした時に、祐親の次男の九郎祐泰(祐清)がこれを伝えたことから、その捕縛から逃げる事ができた。その手柄に今答えて賞しようと呼び出したところ、祐泰(祐清)が云うには、父親が將軍の敵として捕まっているのに、その子が何故賞をいただけましょうかと強く辞退。平家に就く己の斬首を頼朝に嘆願し、頼朝の謝礼心を跳ね除け平家配下の立場を貫き通した武将への賛嘆の声が広がった。

治承4年(1180年)10月20日
頼朝は駿河国賀島(富士市加島・富士川から4里)に到着した。一方、平家軍・左少將惟盛、薩摩守忠度、三河守知度等は富士川の西岸に陣を張った。しかし、宵闇の頃になって武田太郎信義が奇襲作戦を考えて、頼朝の采配を無視して平家の陣の後ろを襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音はまるで軍隊の攻撃音に酷似して、平家軍が驚いて心胆を凍らせた。

次將の上総介忠C(侍大将)などが相談して云うには、東国の軍勢は大き過ぎる。我々平家の武将は寄せ集めで兵糧も乏しく疲弊している。このまま、鎌倉に向け進軍すれば捕虜となるのは必定、早く京都へ戻り、立て直しした方が良いと進言した。知盛以下はその言葉のとおり夜明けを待たずに退却し、大きな合戦の無いままに富士川の戦いは幕を下ろしている。

治承4年(1180年)10月21日
頼朝は、平左近少將惟盛を追って攻めるために、京都へ追撃するように武士達に命令した。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして提案した。「常陸国の佐竹太郎義政と冠者秀義は数百の軍隊を擁していながら、未だに態度を鮮明にせず源氏軍として参加していない。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも侮れない郎党がたむろしている。したがって、関東の敵対しそうな武装集団を攻め平定したうえで、関西(京)に向かうべき」と進言した。

この進言は頼朝に受け入れられ、黄瀬川宿に戻り宿泊することにした。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河の守護として配置した。
今日、一人の若者が宿泊所の入口に立って、鎌倉殿にお会いしたいと言上した。土肥實平、土屋宗遠、岡崎義實は、怪しく思って取り次がない。時間が経って行くうちに、頼朝がこの話を聞いて、年齢を考えると奥州の義経かも知れない。早く対面しようと云った。そこで、土肥實平はその人を招き入れ、頼朝の勘が当たり義経と判明した。直ぐに御前へ進んでお互いに昔を語り、懐かしの涙を流す。

ここで、頼朝と義経の対面石の話に飛ぶが、仮にその話が史実とするならば、その対面石に義経が座した瞬間、頼朝の義経への殺意が芽生えた瞬間だったと思えるからである。平安末期の主従関係といえば、たとえ兄弟とは言え、臣下の礼を尽くさねばならない。いかにせん、ホスト側の熱烈歓迎のセレモニーだったにせよ、対面石に平気で座した義経の若さや無知蒙昧さが頼朝の脳裏に刻まれたに違いない。頼朝に鬱積した流人時代のコンプレックスが妙に感じられるのである。

中でも、白河上皇の時代の永保三年(1083)9月、先祖の陸奥守同朝臣義家が奥州で征夷将軍清原三郎武衡・清原四郎家衡と合戦をした。その時、弟の佐兵衛尉新羅三郎義光は京都に居てこのことを伝え聞き、朝廷警護の官職を辞職して、朝廷から授けられている弓弦の袋を投げ出して、朝廷には内緒で奥州へ出向き、兄の軍隊に参加してので、間も無く敵を滅ぼすことができた。今日ここへ来たのは、その良い例に似ていると感動して話している。

この義経は、平治二年正月に、まだ、「ねんねこ」に包まれた内に父の死にあった後、継父の一条長成に育てられ出家をさせるため鞍馬山に預けられた。成人になった時には、とても父の仇討ちをしたいと思い込み、自分で元服をして、秀衡の力を頼って奥州へ出かけ、年月を重ねた。そこで秀衡は継信・忠信兄弟という勇士を付けてくれた。

夕暮れになって、湯で体を清めて(みそぎして)、三島神社へお参りに行った。願い事が叶ったので、これもひとえに神社のお陰だと信仰深くて、伊豆国のうちの庄園を三島神社の領地として寄附している。直ぐに本殿の前へ行き寄進状を書いている。
その内容は、伊豆国の御園 (田方郡中郷御園)、河原谷(田方郡錦田村河原谷)、長崎(田方郡韮山村長崎)を三島神社に寄附する。
これは、この御園はご祈祷の効果があり、天下が平和になったお礼に寄進するのはこのとおりです。  治承4年10月21日   源朝臣

治承4年(1180年)10月22日
飯田五郎家義は平家の家人の伊藤武者次郎の首を持って来て、合戦の内容や子の太郎の討ち死にの話を報告した。昨日は頼朝の参拝の日だったので遠慮したと見られる。飯田五郎家義 (神奈川県横浜市泉区上下飯田)に頼朝が感心して話したことは、「今の日本で一番の比べるものの無い勇士である。石橋山においては、大庭景親の軍の中にいながら私のために景親と戦って逃がしてくれた。今は又この手柄を立てた。いまだにこれほどの勇者に会ったことは無い」との褒め言葉だった。周りの皆も異論は無かったようだ。

治承4年(1180年)10月23日
頼朝は、相摸国府(神奈川県中郡大磯町国府新宿内国府本郷)に着き、初めて論功行賞を行った。北條時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総廣常、和田義盛、土肥實平、藤九郎盛長、土屋宗遠、岡崎義實、工藤親光、佐々木定綱、佐々木經高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、宇佐美祐茂、市川行房、加藤景員入道、宇佐美實政、大見家秀、飯田家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えたりした。義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河邊庄司に任命すると命令している。

大庭三郎景親はとうとう降参してこの場所へ投降して来た。すぐに上総權介廣常に預かり囚人として預けられた。長尾新五爲宗は岡崎四郎義實に預けられ、長尾新六定景は三浦義澄の預かりとなっている。河村三郎義秀は河村郷(相摸国足柄上郡山北町)を取上げられ、大庭景義に預けられている。また、山内首藤瀧口三郎經俊の山内庄(相摸の国最大の庄園で七十一村に及ぶ)を取り上げ、土肥實平に身柄を預けている。この他に石橋合戦の対立者は相当数あるが、死刑にしたのはほんの十人中一人位だと伝えられている。

治承4年(1180年)10月25日
松田(相摸国足柄上郡松田町)の屋敷(頼朝の兄朝長の屋敷跡)に入った。ここは中村庄司宗平に言いつけて、予め修理をさせておいた所。侍所は二十五間の茅葺屋根と記されている。

治承4年(1180年)10月26日
大庭平太景義が預かっている河村三郎義秀を斬首するよう頼朝が下知した。今日、江ノ島近くの片瀬川で大庭三郎景親は首をはねた。弟の俣野五郎景久は、平家に付く為に秘かに抜け出して京都へ向かった。

治承4年(1180年)10月27日
頼朝は、佐竹冠者秀義を征伐するため常陸国へ向けて出発した。これは、今日は外出には縁起が悪い日なのでと周囲の者たちが反対したが、「前の4月27日に令旨が到着して関東を掌握できたのだから、日の縁起にあわせる必要は無い。むしろ前と同じに27日を使うべきである」と答えている。

治承4年(1180年)11月2日
小松少將平惟盛始め、平家の武将が何の手柄も無しで京都へ戻った。

治承4年(1180年)11月4日
頼朝は常陸に到着した。佐竹は権力を領地の外にまで延ばして、その配下達は国中に溢れている。あわてて責めるようなことはしないで、よく戦略を練ってから攻めるべく、千葉常胤、上総廣常、三浦義澄、土肥實平などの長老達が軍儀を練った。まず、彼らの思惑を試すために、佐竹の縁戚に当たる上総廣常を交渉に行かせたところ、佐竹太郎義政はすぐに参上すると言った。佐竹冠者義秀は、その部下の軍隊は佐竹太郎義政を超えており、また、佐竹義秀は、今、父が在京し平家方へ行っているので、考えると簡単に頼朝へ参上出来ないと云って、常陸の金砂城へ籠ってしまう。

一方、佐竹義政は廣常の誘いを受けて大矢橋に来たところ、頼朝は義政の家来を遠ざけて、一人だけで橋の中央に呼んで、上総權介廣常に殺させました。アッと言う間もない出来事だっただけに、義政の家来達は唖然として降伏する者あり、慌てて逃走する者もいた。
その後、秀義を攻撃するため軍隊を金砂城へ差し向けた。それらは、下河邊行平、下河邊政義、土肥實平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱、熊谷直實、平山季重 (東京都日野市平山)以下の兵隊が数千の軍隊を引き連れて競い合うように行軍した。

佐竹義秀は金砂城で、城壁を補強し防備を固め、防衛戦に徹することに決めていた。この城は山の頂に作られて、双方の構える高低差は天地ほども離れている。平家勢から飛んでくる矢石が頭の上から降り注ぐように源氏軍に当たり、源氏勢から打ち放つ矢は、全く山上へは届かない。その上、岩石が道をふさぎ、人馬が進むに困難を極める。難攻不落と思われる金砂城だけに源氏勢の攻城戦は一進一退を繰り返し日没を迎えた。

治承4年(1180年)11月5日
翌日午前4時頃。土肥實平、土屋宗遠等は、頼朝に使者をよこした。佐竹秀義が構えている要塞はとても人の力で破れそうもない。しかも中に篭っている兵隊は一騎当千のつわものですから、良く考えたほうが良いと伝えた。上総廣常がいうには、秀義の叔父に佐竹藏人義季がいる。義季は知恵も策略も優れ、出世欲もあるので、勳功の賞を約束すればきっと佐竹秀義を滅ぼす策略に加わるはずだと懸案し、頼朝も、その提案を採用し、ただちに上総廣常を佐竹義季の所へ行かせた。

佐竹義季は上総廣常の来訪を喜んで、敬意を表して面会した。上総廣常が云うには、最近の坂東の情勢は、源氏と親しい親しくないに関係なく、頼朝に服従しない武将は居なくなった。佐竹秀義一人が孤立無援で関東において赤旗振り続けようとしている。貴方は親戚とはいっても、なんでその斜陽組に味方するのか。早く頼朝様の所へ行って、佐竹秀義を討ち取ってその領地を掌握するのが得策と薦めた。

佐竹義季はすぐに上総廣常の説得に乗った。上総廣常を裏道案内して金砂城の後に回って攻撃の雄叫びを一斉に挙げた。その音は城郭の中まで響き、予想外の出来事に、佐竹秀義と配下達は度肝を抜かれ、城内戦に入ると防御するのも忘れ敵は逃亡し、佐竹秀義も行方をくらました。その後、佐竹藏人義季は、隆義の弟で五郎。頼朝の門客に列せられるが、奇怪な行動により文治3年3月21日、駿河へ配流されている。

治承4年(1180年)11月6日
午前2時頃に、上総廣常は佐竹秀義の逃亡した跡へ入城し、城壁を焼き払った。その後、軍隊を方々の道路に派遣して、佐竹秀義を捜し求めさせたところ、深山に入り奥州の花園城(茨城県北茨城市華川町花園)へ行ったと噂を仄聞している。

治承4年(1180年)11月7日
上総廣常以下の武士達が頼朝の宿泊所に帰って来て、合戦の次第と佐竹秀義の逃げ去ったこと、城郭へ放火した事などを報告した。軍隊の中で熊谷直實と平山季重は特に手柄があり、いつも先陣を切り、命を顧みず、沢山の敵の首を獲っていることが報告された。それで、褒賞も同僚より秀でるようにとの旨を、頼朝がその場で直接明示している。また、佐竹藏人が参上して配下になりたいとの要望は、落城案内の手柄により許可された。今日、頼朝の叔父に当たる志太義廣と十郎蔵人行家達が国府にやってきて会見をしている。

治承4年(1180年)11月8日
秀義の領地の常陸國の奥七郡と太田、糟田、酒出等の領地を没収して、軍隊の手柄の褒美として配られた。上総廣常や和田義盛に言いつけて佐竹の家臣十人ほど捕虜にした。その捕虜の中の岩瀬与一太郎という武士の質疑応答が頼朝の心を掴み断首すべきではない、御家人に入れると命じている。頼朝様は鎌倉へ帰る。途中のついでに小栗十郎重成の八田の屋敷(元真壁郡協和町小栗)に入っている。

治承4年(1180年)11月10日
武藏國丸子庄(多摩川を挟み東京都大田区下丸子と神奈川県川崎市中原区上丸子)を葛西三郎C重に与えた。彼の屋敷に泊っている。葛西三郎C重は妻に言いつけて御膳を用意した。しかしその真実を言わずに楽しんで頂くためによそから独身女性を呼び寄せたと伝えられている。

治承4年(1180年)11月12日
武藏國荻野 (神奈川県厚木市上下荻野)に到着して荻野五郎俊重を斬首した。石橋合戦の時に景親に同心して特に敵対したので、今その時の罪を正さないと、他の敵対者に示しがつかないと断行された。

治承4年(1180年)11月14日
土肥次郎實平は武藏國内の寺社(神仏混交)に行った。これは侍達が寺社の聖地へ入り込み乱暴をするので、止めるように命令をするためである。

治承4年(1180年)11月15日
武藏国威光寺 (川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺)は、源氏の代々の祈祷所なので、住職の僧の増園が、受け継いでいる寺(坊)の領地を元の通り年貢を免除している。

治承4年(1180年)11月17日
頼朝は、鎌倉に着いた。今日、曽我太郎祐信は、先の合戦で敵対した罪を許した。また、和田義盛を侍所長官の別当(軍事の長官)に任命した。これは、8月の石橋山合戦の後、安房国へ行った時に、未だ勝負がどうなるか分からない状態なのに、和田義盛はこの役職を希望した経緯があるので、上役達を出し抜いて任命した。

治承4年(1180年)11月19日
武蔵国の長尾寺(川崎市多摩区長尾三丁目の妙楽寺)は、頼朝様の弟の禅師全成 (元今若丸と称され、頼朝から駿河国・阿野庄(裾野市)を貰い阿野全成と呼ばれる)に地頭職を分け与えた。もともと居る坊さんの職を認めて、以前と同様に源氏の武運長久を祈祷するように言いつけたために住職達を呼び出した。それが、慈教坊・僧円、慈音坊・観海、法乗坊・弁朗達だった。

治承4年(1180年)11月20日
大庭平太景義が波多野右馬允義常の息子(大庭平太景義の妹の子)を連れて参上して許可を求めた。そこで頼朝は、しばらく預かって置くように命じた。波多野右馬允義常の元の領地の松田郷(神奈川県足柄上郡松田町)は大庭平太景義の領地とされている。

治承4年(1180年)11月26日
山内瀧口三郎経俊を斬罪にするように内々に命令があった。彼の老いた母(頼朝の乳母)がこれを聞いて、息子の命乞いに泣きながら参上して来た。資通入道は八幡太郎義家に仕え源爲義の乳母になってから以来、代々忠義を源氏に尽くして来た。とりわけ、俊通は平治の乱で討ち死に、死体を六条河原に晒された。経俊が景親に味方した罪はあるけれども、石橋山合戦に参加した者は、ほとんど許されている。

頼朝はとくに言葉を出さず、預けておいた鎧を持ってくるように土肥實平に言いつけた。土肥實平は唐櫃の蓋を開けて鎧を取り出し、山内の尼の前へ置いた。これは石橋山合戦の日に経俊の矢がこの鎧の袖に突き立った証拠を見せ頼朝は読んで聞かせした。尼はそれ以上言葉もなくなり流れる涙を拭いながら出て行った。山内経俊の罰は死刑を免れる訳にはいかないけれど、老母の悲しみに免じて、又先祖の手柄に免じて、直ぐに死刑が許された。

治承4年(1180年)12月1日
左兵衛督平知盛は、数千の軍隊を連れて近江国へ向かい、近江源氏の山本兵衛尉義経及び弟の柏木冠者義兼と合戦した。山本義経をはじめ近江源氏軍は、命を顧みずに戦ったが、知盛は多勢を背景として、周囲の家々を焼きまわったので、義経も義廉も打つ手が無くなり撤退している。

これは、この8月に頼朝が関東で旗揚げした事を伝えられた後、京都に近い所に住んでいるにも関わらず、近江源氏が関東に味方するため、平清盛の機嫌を損ねたので、このような攻撃になったと見られる。 
治承4年(1180年)12月2日
藏人頭重衡朝臣・淡路守C房(重衡の弟)・肥後守貞能等が関東を目差して出軍した。源頼朝様を攻めるためだ。しかし、途中から京都へ帰ってしまった。

治承4年(1180年)12月4日
仏法の知識を有する阿闍梨定兼が頼朝に呼ばれて、上総国から鎌倉に入った。彼は、安元1年の4月26日に上総へ流罪になった僧だが、鎌倉には仏法の知識人が居ないので、上総權介廣常に命じて呼び出し八幡宮の僧侶に任命した。

治承4年(1180年)12月10日
土肥次郎實平を通じ新羅三郎義光から五代の技法をついだ弓馬の腕は人に知られた山本兵衛尉義經が鎌倉に入った。山本兄弟が琵琶湖の水運を止めて京都への物資の輸送を邪魔したとある。

治承4年(1180年)12月11日
平清盛は、息子・重衡を三井寺に行かせて、5月に以仁王に味方した僧兵と戦った。奈良も同様に滅ぼされることになるだろう。頼朝が以仁王の令旨によって関東で合戦をしたので、僧兵も頼朝に味方するだろうと平清盛が先を読み出兵させたもの。
平家は、西日本での深刻な飢饉により12月になるまで兵糧と兵力不足が災いし、関東方面への遠征が思うようならなかったことも頼朝に幸いしたとの見方もある。

治承4年(1180年)12月12日
午後10時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式が行われた。
大庭景義が奉行となって去る10月に事始があって大倉郷に着工していたもので、上総介廣常の屋敷から新しい御殿に引っ越しである。
頼朝は水干を着て、石和栗毛の馬に騎乗して新築の屋敷に入った。

和田義盛が先頭に従い、加々美長Cが頼朝様の馬の左側に従い、毛呂季光(埼玉県入間郡毛呂山町)が同様に右に従う。北條時政、北條義時、足利義兼、山名義範、千葉介常胤、千葉胤正、千葉胤頼、藤九郎盛長、土肥實平、岡崎義實、工藤景光、宇佐美助茂、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱等が供をした。畠山重忠が最後に従う。寝殿に入られた後、お供の人達は侍所「十八間」に来て二行に向かい合って座った。和田義盛はその中央に座り、着致状の仕事をした。凡そで出仕した者は三百十一人と伝えられる。

また、頼朝配下の御家人達も同様に宿や館を構えた。これから以後、関東の武士達は皆その力が道(理屈に合っている)に合っていることを見抜いて、一揆して鎌倉の主人と認めた。鎌倉はもともと辺鄙な所で、漁師と百姓位以外住んでいる人が少なく、この時に街中の道を真っ直ぐにして、郊外の村や里に名前を付けて、家々が増えて軒がひしめき合うようになったと伝えられる。
今日、園城寺が平家軍に焼かれた。金堂以下建物も堂塔も大乗や小乗の経も密教の道具類もおよそ殆ど灰になってしまった。

治承4年(1180年)12月14日
武蔵在住の武士達の多くが代々知行している地頭の役を、元のとおり知行(本領安堵)するよう命令を受けました。北條時政と土肥實平とが指揮担当の奉行をして、藤判官代邦通がこの命令書を発行した。本領安堵を仲介した時政の権威が武蔵に広がって行く。

治承4年(1180年)12月16日
鶴岡八幡宮に鳥居が建てられた。また、一日中絶え間なく最勝寺が鎌倉の安堵を祈る読経を続け、皆に聞かせる行事を始めた。頼朝も水干を着て、立派な馬に乗って参詣している。

治承4年(1180年)12月19日
左兵衛督知盛卿の家来・橘右馬允公長が息子の橘太公忠、橘次公成を連れ鎌倉に入る。去る2日に蔵人頭重衡朝臣が関東を攻めようと出発した時に、前の右大将宗盛の奨めで味方に付けた。弓馬の名人にて優れ作戦をたてるとの評判の武将。橘右馬允公長は行く末を色々考え、運の傾きかけた平家に追従していくことに疑問を抱いていた。

一方源氏方を顧みるに、粟田口で源爲義の家来の長井斎藤別当実盛・片桐小八郎と喧嘩をした際に、それを怒りもせず許し、むしろ源爲義の家来の斎藤と片桐を叱ってくれたことを忘れられず心底には源氏への忠誠の心を抱いていた。平家の大将軍重衡に勤めることを嫌い、知り合いを頼って遠江へ下り、そして鎌倉へ参上した。知り合いの縁で加々美次郎長Cを通して、詳しく表敬申し上げたので、御家人に取り上げられている。

治承4年(1180年)12月20日
新築のお屋敷で、三浦介義澄がご馳走を振舞う椀飯を献上した。その後で新築亭での弓始めをした。この事は予め決めてあったわけではないが、橘右馬允公長の二人の息子が特に弓の名人だからと頼朝の耳に入り、その腕前をみたかったので、宴会の余興にこの席上で言い出したとのこと。
射手
 一番手に 下河邊庄司行平 対 愛甲三郎季隆
 二番手が 橘 太 公 忠 対 橘 次 公 成
 三番手に 和田太郎義盛  対 工藤小次郎行光
今日、新築の家から始めて外出をする儀式として、藤九郎盛長の甘縄の屋敷へ入った。
藤九郎盛長は馬を引き出物にして捧げた。佐々木三郎盛綱が手綱引きの役をした。

治承4年(1180年)12月22日
新田大炊助入道上西が頼朝に呼び出されてやっと参上した。しかし簡単に鎌倉へ入ってはならないと命令されて山内に留め置かれた。それは、軍隊を呼び集めて上州の寺尾館に立てこもったと噂が流れたからで、藤九郎盛長に言いつけて呼び出したとされる。

新田義重は弁解をして説明した。「頼朝様に逆らう気持ちは毛頭なく、戦さが始まったと聞いたので、城を出れば危険だと部下達が止めるので躊躇していたところ、この度の通告を受けて恐れ慄いております」そこで藤九郎盛長は特に弁明を強調して取次いだので、許されることになった。

治承4年(1180年)12月24日
木曾冠者義仲は上州から信州に立ち退いた。これは自分で独立して立ち上がろうとする意志を持っている上、上州多古庄(群馬県多野郡吉井町多胡)は父・帶刀先生義賢の由緒があるので侵入したものの、頼朝の権威が関東に行き渡っているので、怖れを抱いて降伏的和順をもって撤退の道を選択した。

治承4年(1180年)12月25日
石橋山合戦の時にある洞穴に置いてきた、小さな像の正観音を專光坊良暹の弟子僧が閼伽桶の中に入れて、これを捧げもって、鎌倉に到着した。先月申し付けたところ、何日か山中を探して、あの洞窟にめぐり合い、奇跡的に見つけることが出来た。頼朝は随分信心深いことに手を合わせて自ら受け取って祀りあげた。
今日、重衡が平清盛の命令で数千の軍隊を引き連れて、奈良の僧兵を攻撃するため出発した。

治承4年(1180年)12月26日
佐々木五郎義C(母・澁谷庄司重國の娘)は囚人として兄の佐々木三郎盛綱に預けられた。これは、早川合戦の時に澁谷庄司重國に従って敵対し、特に源氏軍に向かって上手に弓を射たことによる。

治承4年(1180年)12月28日
出雲時沢は雜色の長になるように命じた。朝夕仕えている雜色は沢山いるが、戦争の時の時沢の手柄は他とは違っていた。そこでその職を抜擢して任命した。
今日、重衡は奈良の寺社を焼き払った。東大寺、興福寺の両方の寺の境内のお堂や塔は一つとしてその災禍を免れず、仏像も経典も皆一緒に燃えてしまった。

治承5年(1181年) 閏2月5日
戌の刻(20時前後)に九條河原の盛国(側近の侍大将)邸で入道相国(平清盛)が没した。
去る25日から病床に伏していたらしい。遺言に曰く「3日が過ぎたら葬儀をせよ。遺骨は播磨国山田法華堂に納め、毎日ではなく7日ごとに通例にしたがって法事を行い、京で追善供養をしてはならない。残った一門の者はただ偏に東国の平定を目指せ」と。

治承5年(1181年) 閏2月23日   
実際には寿永2年(1183年)2月の事件を差す
志田義廣 は3万余騎を率いて鎌倉に向い、源氏に叛いた(藤姓足利氏の)忠綱も加わった。
忠綱は同じ藤原秀郷を祖とする小山一族と下野地域の主導権を競う立場にあり、さらに(治承4年の) 以仁王挙兵の令旨が藤姓足利氏ではなく小山氏だけに届いたため反発して平家に味方した経緯もあり、義廣に協力するついでに小山氏も滅ぼしてしまおう、と考えた。
次に志田義廣は小山四郎朝政に味方に加わるよう持ち掛けた。朝政の父政光は御所警護に任じ郎従の多くを率いて在京していたため朝政が動員できる手勢は少なかったが、彼の志は頼朝にある。義廣を討ってしまおうと考え、老臣の言葉にしたがって味方をすると偽り義廣を誘い出した。

治承5年(1181年) 閏2月23日
実際には寿永2年(1183年)2月の事件を差す
次に忠綱は味方に加わるよう小山四郎朝政に持ち掛けた。朝政の父政光は御所警護に任じて郎従の多くとともに在京しており朝政の手勢は少なかったが、志は頼朝の側にある。義廣を討ち取ろうと考え、老臣の言葉を容れて味方をすると偽り、義廣を誘い出した。

義廣の一行が野木宮まで来た時に登々呂木澤と地獄谷で待ち伏せし多くの敵を討ち取った後に馬を射られて落馬し、さらに徒歩で奮闘を続けた。馬は主人から離れて登々呂木澤で嘶き、そこへ鎌倉から小山を目指していた五郎宗政(20歳)がこの馬を見て朝政討死と判断して義廣の陣へ突入、立ち塞がった義廣の乳母子・多和利山七太を討ち取った。義廣は少し退いて野木宮の西南に布陣し、小山四郎朝政と五郎宗政は東から攻め寄せた。

この時に東南の方向から突風が吹いて土埃を巻き上げたため義廣勢は視界を失って統率が取れず、多くが討ち取られて地獄谷と登々呂木澤に死骸を晒した。また 下河辺庄司行平と弟の四郎政義が古我と高野の渡を封鎖し敗走する兵を討ち取った。足利7郎有綱と嫡男の佐野太郎基綱、4男の阿曽沼四郎廣綱、5男の木村五郎信綱・大田小権守行朝らは小手差原に陣取って戦った。他にも八田武者所知家・下妻四郎清氏・小野寺太郎道綱・小栗十郎重成・宇都宮所信房・鎌田七郎為成・湊河庄司太郎景澄らが朝政勢に加わった。蒲冠者範頼も同様に駆け付けた。

治承5年(1181年) 7月1日
兼光の言葉によると越後国の城太郎助永の弟助職(白川御館)は、故禅門(清盛)と前の幕下(宗盛)にしたがって信濃国の反乱を追討するため6月13日と14日に信濃に進軍したが殆ど抵抗は見られず降伏する者が多かった。勝ちに乗じて進んだところ、信濃の源氏勢は三手(木曽党・さこ党・甲斐武田党)に分れて攻め掛ったため難路を進んで疲弊した越後の軍勢は抵抗できず惨敗した。

大将軍の助職は3ヶ所に疵を受け甲冑を脱ぎ武器を捨て、万を越える軍勢も僅か300騎になって本国へ逃げ帰った。残る9千人余りは討ち死に、あるいは崖から落ちて落命し、山林に逃げ込むなどして戦力は壊滅した。本国の越後でも反乱が起きたため藍津(会津)の城で籠城を試みたが、秀平(秀衡)の手勢に攻められ僅か4〜50人で佐渡へ逃げ去ったという。これは越後を知行している前の治部卿光隆卿が未確認情報として院で語った内容である。

治承5年(1181年) 7月5日  
長尾新六定景が罪を許された。去年の石橋山合戦で佐奈田余一義忠を討ったのを頼朝が特に憎み、父の岡崎四郎義實に預けて処分を任せた。慈悲深い性格の義實は定景を殺さず、定景は囚人のまま法華経を転読して日を過ごしていた。

義實は夢を見たと称して頼朝に願い出て曰く、「義忠の仇なので殺さなければ心が晴れないのだが、法華経を読む声を聞くたびに怨念が薄れていく。もし殺したら義忠も成仏できない様な気がして、許そうと思っている。」と。頼朝は「悲しみを癒せるかと考えて定景の処分を任せたのだが、その気持ちは良く判る」として助命を認めた。

寿永1年(1182年)10月9日  実際には養和1年(1181年)
越後の住人城四郎永用(助職、資職)→長茂(永茂、永用と改名、兄の資永も資長・助永・資元など改名が多い)は国守である兄資元の跡を継いで源氏を攻めようとした。木曽冠者義仲は北陸道の兵を率いて信濃国築磨河(千曲川)の付近で合戦し、夕刻になって永用は敗走した。

合戦の月日:玉葉は治承5年(1181年)6月、吾妻鏡は寿永1年(1182年)10月、平家物語は同年9月としている。城氏一族の棟梁だった兄の資永が急死して弟の助職(長茂とも)が家督を継いだのが治承5年2月、間もなく越後から信濃に出兵しているのでここでは玉葉に従った。

寿永3年(1184年) 1月20日
頼朝が義仲追討のため派遣した蒲冠者範頼が勢田から、九郎義経が宇治から数万騎を率いて京に入った。義仲は志田義廣と今井四郎兼平らを派遣して防いだが敗れて防衛線を突破された。両将は河越重頼・同重房・佐々木高綱・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季とともに6条殿に入り院の御所を警護した。この間に一條忠頼率いる兵が義仲軍を追い詰め、相模国の住人石田次郎が近江国粟津で義仲を討ち取った。

寿永3年(1184年) 1月21日
九郎義経が義仲の首を獲った旨を朝廷に奏上。夜、義経の家臣が義仲腹心の家臣樋口兼光を生け捕った。義仲の命令で河内の石川判官代を攻めたが逃げられたため帰還し、八幡大渡で義仲の討死を知ったのだが強引に京に入って義経の家来と戦い捕われたものである。
 
寿永3年(1184年) 1月26日
今朝、検非違使らが七條河原で伊予守義仲・高梨忠直・今井兼平・根井行親らの首を受け取り獄門の樹に架けた。囚人として連行されていた樋口兼光も検非違使に引き渡された。
平家物語によれば、兼光と縁があった武蔵国児玉党の武士が自分らの功績に替えても助命を嘆願すると約束して樋口兼光を投降させた。

範頼や義経も助命嘆願に同調し一度は許されたが、公卿や女官らが法住寺殿襲撃の際の放火や殺人を深く怨んで反対し、法皇もそれを無視できず「4天王の一人を許せば憂いを残す」と斬首を決定した。義仲らの首が都大路を引き回される際には懇願して付きしたがい、その翌日に斬られたという。

寿永3年(1184年) 2月4日
平家は西海・山陰の兵数万騎を集めて摂津国と播磨国の境にある一ノ谷に布陣した。本日は相国禅門(清盛)の一回忌を迎え仏事を行う、と。

寿永3年(1184年) 2月7日
寅の刻(16時前後)に義経は精鋭70余騎を選び一ノ谷背後の山(鵯越)に進出、熊谷直實・平山季重らは卯の刻(朝6時前後)に一ノ谷西の海辺から名乗りつつ攻撃した。平家側は伊勢平氏の藤原景綱・越中盛次・上総忠光・悪7兵衛景清らは木戸口を開いて23騎が迎え討ち熊谷直家が負傷、季重郎従が落命した。

その後に範頼と足利・秩父・三浦・鎌倉の武士が突撃して混戦となった。義経が三浦(佐原)義連らを引き連れて鵯越から急襲したため平家軍は混乱に陥り、ある者は騎馬で逃亡・ある者は舟で4国に逃れた。三位通盛は湊河で源3俊綱に討ち取られ、薩摩守忠度・若狭守経俊・武蔵守知章・敦盛・業盛・越中前司盛俊ら7人は、範頼・義経らの軍勢に討ち取られた。但馬前司経正・能登守教経・備中守師盛は遠江守安田義定に討ち取られた。

寿永3年(1184年) 2月8日
範頼と義経が摂津国から京に飛脚を派遣。昨日一ノ谷で合戦して大将軍9人の首を獲り数千人を討ち取った。

寿永3年(1184年) 2月9日
義経が少数の兵を率いて本隊より先に入洛。これは平家諸将の首を都大路引き回しの許可を得るため急いだ。

寿永3年(1184年) 2月10日
院宣は首の引き回しに否定的な内容である。義経と範頼は「義仲の首を引き回して平氏の首を引き回さないのは理屈に合わない」と申し立てた。返答は、罪状が義仲と同じではなく帝の外戚として公卿あるいは近臣の身分に昇った、討伐はされたが首を引き回すほどの理由はない。かつて信頼の首を引き回さなかったのと同様である。
 
寿永3年(1184年) 2月13日
平氏諸将の首(通盛・忠度・経正・教経・敦盛・師盛・知章・経俊・業盛・盛俊)は義経の6條室町邸に集められ、8條河原に向った。大夫判官仲頼らがこれを受け取ってそれぞれ長鉾の先に付け、名を記した赤札を付けて獄門に向かい樹に懸けた。見物する者が市をなした。

寿永3年(1184年) 2月20日
去る15日に使者を四国(屋島)に派遣し勅定の意向(安徳帝と3種の神器の返還)を宗盛に伝えた。その返書が届き閲覧に及んだ。
酉の刻(16時前後)に源氏の両将(範頼と義経)は攝津国に到着、7日卯の刻(朝6時)を箭(矢)合せと定めた。

大手の大将軍は蒲冠者範頼、従うのは小山朝政・武田有義・板垣兼信・下川辺行平・長沼宗政・千葉常胤・佐貫成綱・畠山重忠・稲毛重成と重朝と行重・梶原景時と景季と景高・相馬師常と胤道と胤頼・中條家長・海老名太郎・小野寺通綱・曽我祐信・庄司忠家と廣方・塩谷惟廣・庄家長・秩父武者行綱・安保實光・中村時経・河原高直と忠家・小代行平・久下重光ら、5万6千余騎。

搦め手の大将軍は源九郎義経、従うのは安田義定・大内惟義・山名義範・齋院次官親能・田代信綱・大河戸廣行・土肥實平・三浦義連・糟屋有季・平山季重・平佐古為重・熊谷直實と直家・小河祐義・山田重澄・原清益・ 猪俣則綱ら、2万余騎。
平家はこれを聞き、新三位中将資盛・小松少将有盛・備中守師盛・平内兵衛尉清家・恵美盛方ら7千余騎を北方にある3草山の西に布陣、源氏軍も山の東に3里(2km弱)を隔てて布陣した。義経は田代信綱・土肥實平らと協議して夜襲をかけたため平家軍は混乱して敗退した。

寿永3年(1184年) 3月2日
三位中将重衡卿が土肥實平から九郎義経に引き渡された。實平が西海に出陣するためである。
 
寿永3年(1184年) 3月10日
頼朝の指示を受けた梶原景時が三位中将重衡卿を伴って京から関東に向った。また同日、頼朝が因幡国の住人長田實経(後日廣経に改名)を呼び出して書面を与えた。曰く、平家に味方した事実は罰せられるべきだが、私が伊豆流罪になり代々の家人さえ付き従う者もなかった時に、實経の父・高庭介資経が家人の籐七資家を副えて送ってくれた恩は忘れ難い。よって本領を安堵する。

寿永3年(1184年) 3月17日
板垣兼信の飛脚が鎌倉に着き、判官代邦通が内容を報告。曰く、命令にしたがい8日に京から山陽道に向った。門葉の一人として追討使を受け賜り目的を達成するべきなのに、従軍する土肥實平が特命を受けたと称して打合せに応じず自分が決めると言って私の関与を受け付けない。兼信が上司である旨を徹底させて頂きたい、と。

頼朝はこの求めを許さず、「門葉とか家人とかは関係なし、實平の忠義心は衆に抜きん出ているから西国の差配を委ねている。兼信レベルの者は命を捨てて戦うのが分相応で、申し出は僭越である、と答えた。使者は空しく走り帰った。

寿永3年(1184年) 3月28日
捕虜の重衡が鎌倉に到着、頼朝は廊下に招いて面会した。頼朝は「後白河法皇の怒りを慰めるため、また父の恥辱を雪ぐため石橋山で合戦し平家を討伐したのは周知の通り、名誉の回復である。槐門(右大臣宗盛)ともこの様に面会することになるだろう。」と。重衡は「源平はともに天下を警護した立場で、結果として平家だけが朝廷を守る立場になった。

官職を得たのは80余名、繁栄は20数年だが今は運命が縮み捕虜として此処にいるのだから言う事はない。これは武者としての恥辱に非ず、早く斬罪に処すればよろしい。」と答えた。聞いていた者はその動じる様子のない態度に感銘を受けた。身柄は狩野介宗茂に預けられた。その後、院からの指示があり「(平家の)武士については是非を問わず成敗せよ、何らかの理屈があれば成敗した後に奏上せよ」と定められた。

寿永3年(1184年) 4月4日
御所の桜が見事に開いたので一條能保卿を招き、前の少将平時家(時忠の次男で上総流罪になっていた)もともに加わって終日花見の宴を催し、併せて音曲を楽しんだ。

寿永3年(1184年) 4月6日
朝廷が平家から没収した前の大納言平頼盛夫妻の所領は頼朝に与えられた。頼朝は池禅尼の恩に報いるため頼盛の勅勘を許して貰い、所領の34ヶ所を頼盛が1通りに知行出来るように自分の所有から外した。その中に含まれていた信濃国諏訪社は伊賀国6箇山と差し替えた。

元暦1年(1184年) 4月20日
頼朝の許しを得て重衡が沐浴の儀で体を清めた。その後に頼朝は捕虜生活の重衡慰安のため籐判官代邦通・工藤祐経・官女(千手の前)を酒肴とともに派遣、重衡はこの配慮を受け、宴を楽しんだ。祐経が鼓を打って今様を歌い女房が琵琶を弾き重衡が横笛で和して時を過ごした。

宴から戻った邦通は「重衡の態度は言葉も芸能も甚だ優美だった」と頼朝に報告、頼朝は世の評判を憚って同席できなかった事を悔やみ千手の前と夜具一組を重衡に届け、祐経を介して「田舎の女もまた趣あり、鎌倉にいる間は近くに置くように」と伝えた。祐経は重盛に仕えたころには重衡の近くだったため旧交を忘れず、しきりに今の境遇を憐れんだ。

文治4年(1184年) 4月22日
夜になって御台所政子に仕える女官(千手の前)が御前で気を失い間もなく息を吹き返した。普段は特に病気をしていない者だが、夜明けに仰せを受けて御所を退出し自宅に戻った。
 
文治4年(1184年) 4月25日
明け方に千手の前(24歳)が死没。穏便な性格な女だったため人々は突然の死を惜しんだ。前中将重衡卿が鎌倉に抑留されていた際には命じられて身辺の世話を続け、重衡卿が鎌倉を離れた後は恋慕の思いが積み重なり、これが病気の元なのだろうと人々には感じられた。

元暦1年(1184年) 5月19日
頼朝は池大納言頼盛や一條能保を誘い海辺を逍遥。由比ガ浜から乗船し御家人の舟を従えて杜戸の海岸(葉山)に上陸し小笠懸を行った。

元暦1年(1184年) 6月1日
頼朝は近日中に京へ帰る平頼盛を招き別離の宴を催した。一條能保と平時家(時忠の子)も同席し盃を重ねながら雑談に興じた。小山朝政・三浦義澄・結城朝光・下川辺庄司行平・畠山重忠・橘右馬允公長・足立遠1・8田知家・後藤基清らが呼ばれて庭先に控えた。いずれも京にいた事のある者である。

次に引出物の儀、まず時家を介して鍍金仕立ての太刀一振、次に廣元を介して砂金一袋、次に鞍を付けた馬を10頭、次に頼盛の供にもそれぞれ引出物を与えた。さらに(引出物を与えるため)弥平左衛門尉宗清(季宗の子)を呼んだが、彼は鎌倉には来ていなかった。平治の乱の際に頼朝助命に貢献した者なのだが京から鎌倉に向う頼盛に命じられても同行せず、「戦場に向うなら先陣を承りますが、鎌倉の招きは助命の恩に報いるためでしょう。平家が零落した今になって参向するのは武士としての恥です。」と言って屋島の宗盛軍に加わった。

元暦1年(1184年) 6月5日
池大納言頼盛卿が帰洛。頼朝は(自分の所有となった)荘園を譲渡し、鎌倉逗留中は宴を重ね金銀や衣服を贈って歓待を尽していた。

元暦1年(1184年) 6月16日
平家の一党が備後国(広島県東部)で頼朝郎従の土肥二郎實衡(實平)と早川太郎(嫡子遠平)を追い散らしたとの情報があった。そのため播磨国に駐屯していた梶原景時が備前国(岡山県南東部)に向ったため手薄になった室泊(兵庫県たつの市御津町・ 地図)が平家軍に焼き払われた。京都に駐在する武士を派遣してこれに対応する、と。大将軍は不在、対策も後手に回っているのではどうしようもない。

元暦1年(1184年) 6月20日
去る5日に臨時の除目があり、今日その文書が届いた。頼朝が申請した通り、権大納言に平頼盛・侍従に光盛・河内守に保業・讃岐守に一條能保・三河守に源範頼・駿河守に源廣綱(頼政の末子)・武蔵守に源(平賀)義信が任じられた。

元暦1年(1184年) 6月21日
頼朝は範頼・義信・廣綱等を召し集めて勧盃の儀を行った。次いで除目を告知し、それぞれを喜ばせた。(無官のまま京都守護職にある)九郎義経は頻りに推挙を望んだが頼朝は許容せず、まず蒲冠者(範頼)を推挙したため特に悦ばれた。
 
元暦1年(1184年) 7月3日
頼朝は宗盛の率いる平家を追討するため九郎義経を山陽道に派遣する旨を院の御所に報告した。

元暦1年(1184年) 7月5日
大内惟義の飛脚が到着し、去る7日に伊賀国で平家一党の襲撃があり家人多数が殺された、との報告があった。このため鎌倉中が騒がしくなった。
 
元暦1年(1184年) 7月8日
伊賀国と伊勢国で謀反の情報あり。伊賀は大内惟義の知行国で郎従の多くが居住しており、昨日の辰の刻(朝8時前後)に家継法師(平家郎従平田入道と称す)を大将軍として大内の郎従を悉く討ち取った。伊勢国では和泉守信兼が鈴鹿山を封鎖して同じく反乱を起した。このため院は大騒ぎになった。
 
元暦1年(1184年) 8月2日
大内惟義の飛脚第2便が到着。去る19日酉の刻(18時前後)に平家残党と合戦し討ち破った。討ち取った者は90余人で、そのうち首謀者は富田進士家助・前兵衛尉家能・家清入道・平田太郎家継入道らである。前出羽守信兼の息子らと忠清法師らは山に逃げ込んだ。佐々木源三秀能と五郎義清もともに戦ったが秀能は平家の為討ち取られた。これで惟義は前回敗れた恥辱を雪いだ、恩賞に値するのではないか、と主張した。

元暦1年(1184年) 8月3日
大内惟義の使者を呼び詳細の手紙を与えた。その内容は、逆徒を討ったのは褒められるが恩賞の求めは慮外である。守護に任じた者は反乱を鎮圧するのが仕事なのに先日は逆徒に家人を殺された。これは然るべき準備がなかった落ち度に起因する。賞罰に関して口を出す筋合いではない、と。また使者の安達新三郎を京の九郎義経に送り、今回の兵乱は信兼親子が首魁だから早く探し出して殺せと命じた。
 
元暦1年(1184年) 8月6日
頼朝は源範頼・足利義兼・武田有義・千葉常胤ら主だった御家人を呼び集めた。平家討伐のため西国に向う出陣の宴である。終了に際して各自に駿馬を一頭ずつ与えた。中でも範頼が受け取ったのは秘蔵の名馬で、甲冑一領も副えられた。
 
元暦1年(1184年) 8月8日
牛の刻(正午前後)に三河守範頼が平家追討使として西国に出発した。旗持ちと弓袋持ちが先頭に並び続いて範頼(小具足を着け栗毛に乗馬)、これに続く千騎は北條義時・足利義兼・武田有義・千葉常胤・境平次常秀・三浦義澄と息子の義村・八田朝家と息子の朝重・葛西郎清重・長沼宗政・結城朝光・藤原朝宗・比企能員・阿曽沼廣綱・和田義盛と息子の義成と義胤・大和田義成・安西景益と息子の明景・大河戸廣行と息子の三郎・中條家長・工藤祐経と三郎祐茂(宇佐美)・天野遠景・小野寺道綱・一品房昌寛・土佐房昌俊。頼朝は稲瀬河近くに造った桟敷でこれを見物した。

元暦2年(1185年) 2月19日
廷尉(義経)は昨夜遅くに阿波と讃岐の国境中山を越え、屋島近くの民家を焼き払った。敵将の宗盛は一族を率いて軍船で漕ぎ出し、義経は田代信綱・金子家忠らを伴って浜辺に攻め寄せて矢合戦となった。この間に佐藤継信と忠信・後藤實義らが平家の宿営を焼き払った。平家家人の越中盛継・上総忠光らが下船して戦い、佐藤継信が射殺された。大いに悲しんだ義経は僧侶を呼んで松原に葬り、後白河法皇より拝領の愛馬「太夫黒」を(供養の糧として)僧に与えた。

頼朝は文治1年(1185年)義経が討たれ奥州藤原氏が滅んだ43歳に正二位に叙された。

文治2年(1186年) 9月22日
糟屋有季が京都に隠れ住んでいた義経の家臣堀景光を生け捕りにし、また中御門東洞院で佐藤忠信を殺した。忠信は奮戦したが衆寡敵せず、郎党2人とともに自殺した。彼は以前から義経に同行していたが宇治の辺りで別れて都に戻り、かねて通じていた人妻に送った手紙が夫から有季に渡ったためである。鎮守府将軍秀衡の近親で、治承4年に義経が関東に合流する際に選ばれ同行していた。

文治3年(1187年) 8月4日
今年は鶴岡八幡宮で初めて放生会を行うため奉納する流鏑馬の射手と的を立てる役目を割り当てた。上手の的を立てる役目を熊谷次郎直實に命じたところ直實は怒って「御家人は皆同輩なのに射手が騎馬で的立て役が徒歩なのは優劣を付けているものだ、命令であっても私は従えない。」と拒んだ。頼朝は重ねて「優劣ではなく分に応じているのだ。そもそも新日吉社祭礼には領主の家臣が的を立てるのだから低い役目ではない、指示に従え。」と説得したにも関わらず直實が命令に従わなかったため、罪科として所領の一部を没収した。

直實は出奔した翌・建久4年ごろに深く帰依した法然上人の弟子となって出家した。法力房蓮生と名乗って各地に多くの寺院を建立し、建久6年(1195年)には鎌倉を訪れて頼朝と面談している。老齢になって本領の熊谷郷に戻り建永2年(1207年)9月に66歳で死没、最後の数年を過ごした庵の跡が熊谷寺として現在に伝わっている。

文治4年(1188年) 3月15日
鶴岡八幡宮で梶原景時宿願の大般若経供養が行われ、頼朝も仏縁を結ぶため出席した。退出に際して武田有義を呼び剣役(太刀持ち)に命じた際に有義が渋る態度を見せたため頼朝は機嫌を損ね、「かつて平重盛の剣役を務めて都の評判になったのは源氏の恥ではないのか。重盛は平家で私は源氏の棟梁、釣り合いが取れないのか」と面罵した。直ちに小山朝光を呼んで剣役を務めさせたため、有義は供もできずに退去した。

文治5年(1189年 ) 6月6日
北條時政は奥州征伐の成功を祈願するため伊豆の国北條に寺の造営を計画した。願成就院と名付け、日取りが良いこの日に柱を建て上棟式を行った。本尊は阿弥陀三尊であり、不動明王と多聞天の像は既に造り終えている。時政は北條に出向いて周到に準備の指示を済ませた。北條は田方郡内にあり、南條と北條と上條と中條が境を接している。先祖の事跡を尊んで寺の姿を整えたものである。

文治5年(1189年) 8月8日
(奥州藤原氏側の)金剛別当秀綱は数千騎で阿津賀志山の前に布陣した。早朝に頼朝はまず畠山重忠・小山朝光・加藤景廉・工藤行光と祐光らに開戦を命じた。秀綱らは防戦したが大軍の波状攻撃を支え切れず、昼前に大将・国衡の本陣に撤退した。

また泰衡(藤原当主)郎従の佐藤庄司(別名を湯庄司、継信・忠信らの父)は叔父の河辺高綱・伊賀良目高重らと石那坂に布陣して防御線を築き鎌倉勢と戦ったが、結局庄司以下18人は討ち取られ阿津賀志山に首を晒した。

文治5年(1189年)10月2日
捕虜になっていた佐藤庄司・名取郡司・熊野別当らは赦免され、それぞれ本領に帰った。

文治5年(1189年)10月23日
相模国府に到着し、最初の論功行賞を行った。北條時政・武田信義・安田義定・千葉常胤・三浦義澄・上総廣常・和田義盛・土肥實平・安達盛長・土屋宗遠・岡崎義實・工藤親光・佐々木兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)・宇佐美祐茂・市河行房・加藤景員・大見實政・大見家秀・飯田家義らが従来の領地を安堵され、あるいは新領を得た。三浦義澄は三浦介(守の次の官位)に、下河邊行平は従来の所領をそのまま安堵されて下河邊の庄司に再任した。

建久3年(1192年) 11月26日
所領の境界について、熊谷次郎直實と久下直光が頼朝の前で決裁を仰いだ。直實は歴戦の猛者だが弁舌の才に乏しく主張が曖昧なので頼朝から再三質問を受けた。直實は「これは梶原景時が久下直光を贔屓して事前に打ち合わせたため私だけが質問を受けるのだろう。どうせ直光に有利な裁決が出るのだから証拠書類も何も無駄だ。」と怒鳴って文書を投げ捨て、西の侍所に退去して髷を切り落とし南門から走り出て自宅にも帰らず行方不明になった。

建久4年(1193年) 8月20日  
故・曽我十郎祐成の同腹の兄・京の小次郎が討ち取られた。三河守範頼の謀反容疑の連座である。

建久4年(1193年) 11月28日
夕刻に越後守義資を女事が原因で加藤景廉により斬首された。父の遠江守義定もその件に関連して頼朝の機嫌を損ねた。これは昨日永福寺法要の際に義資が御所の女官に艶書を送り、当人は黙していたが梶原景季の妾がこれを夫景季に語り、父の景時を経て頼朝に報告が届いた。事件の真偽を糾明したところ関係者の言葉が符合したため、この措置となった。

建久4年(1193年) 12月5日
遠江守義定の所領・浅羽庄(現在の静岡県袋井市)を没収し、地頭職は加藤景廉を後任とする旨の下文を発行した。

建久5年(1194年) 8月19日
安田義定を梟首。嫡子の義資が斬首となり所領を没収されて以降しきりに世を嘆き親しい者と図って反逆を企てたのが発覚したためである。
源朝臣義定(61歳)、安田冠者義清の4男。寿永2年(1183年)8月10日に遠江守従5位上に叙す。文治6年(1190年)1月26日下総守、建久2年(1191年)3月6日遠江守に還任、同年従5位上に叙す。

建久5年(1194年) 8月20日
前の瀧口榎下重兼・前右馬允宮道遠式・麻生平太胤国・柴籐三郎・武籐五郎ら安田義定の臣5人を名越で斬首。和田義盛がこれを差配した。

建久5年(1194年) 9月29日
頼朝は義明の菩提を弔う寺の建立を考え、中原仲業に命じて三浦矢部郷を巡検した。
寺伝によれば、頼朝は義明17回忌の建久8年(1197年)8月27日に満昌寺の廟所を訪れて法要を営み、「89歳で没した義明は今も心の中で生きている」と語った。これが転じて89+17=106歳、地元に伝わる「鶴は千年 亀は万年、三浦大介百六つ」の囃(はやし)言葉になったらしい。満昌寺本尊は華厳釈迦像(室町時代)、廟所の五輪塔・宝篋印塔・板碑などは鎌倉時代末期から南北朝時代の作。

建久7年〜9年は吾妻鏡の記載が脱落している空白期間となる。したがって満昌寺に関わる記述はないが、当初は天台宗で鎌倉時代末期に仏乗禅師が臨済宗に改め建長寺派に属した。宝永2年(1705年)に焼失して寛延2年(1749年)に再建、同時に雲龍山を義明山に改めている。

衣笠城は三浦半島先端部の中央に位置する山城で、数に勝る敵の包囲を突破して5km離れた海岸から船で脱出したと考えるのは合理性が乏しい。義明死没の経緯は判らないが、三浦の本隊は包囲される前に城を捨てて出航したと考えるべきだろう義景と大多和義久らが固めた。朝、河越重頼・中山重實・金子・村山ら数千騎が押し寄せ、義澄軍は善戦したが連戦の疲労に加え矢が尽きたため城を捨て逃げ去った。

 当主の義明は「源氏累代の臣として再興の機会に巡り合ったのは幸いだが、既に80歳を過ぎて久しい。私は余命を頼朝に捧げ、子孫の栄誉に貢献しよう。皆は急ぎ退去して頼朝を捜し合流せよ、私は城に残って多勢が籠もっていると重頼に思わせよう」と言った。義澄らは泣きながら命令にしたがい落ち延びた。

建久6年(1195年) 8月10日
熊谷次郎直實法師が京都から参向した。かつての武士を辞してからは一心に仏の道を歩んでいる。建久3年の頼朝上洛には思う処があって参向せず、今回は涙で再会を喜び、御前で仏の教えとともに兵法や合戦の故実などを説いた。姿は僧体ではあるが心は宗教心と世俗が同居していると語って周囲の者を感嘆させた。この日のうちに熊谷郷へ下向すると言うので頼朝は引き止めたが後日また参向すると称して退出した。

須磨の東側では範頼の率いる源氏の主力(公称5万6千騎)が生田口で知盛・重衡軍と激戦を繰り広げた。梶原景時親子と畠山重忠らが先陣をつとめ、生田川に構築した壕と逆茂木で固めた防衛線に対して押し気味に推移した。夢野口では甲斐源氏の安田義定軍が一進一退の戦闘を続けていた。

正治2年(1200年) 1月28日
夜になって石和信光が甲斐国から参上して報告。「武田有義は梶原景時と打ち合わせて京へ向うという噂を聞いたので、詳細を聞くために館に行ったら逃げた後で行方が判らない。

一通の封書があったので開いてみたら景時からの書状だった、彼らが打ち合わせて行動しているのは明白である。景時は2代の将軍に重用されて傍若無人の振る舞いがあった。長年の悪行が自分に降り懸り諸人が背反したため反逆を思い立ち、まず朝廷に奏上し鎮西(9州)の武士を引き込むため上洛しようとした。兼ねて親しかった有義を大将軍に立てるために送る手紙を有義の館に落としたのだろう。」と。

秋山光朝は加賀美遠光の長男で、弟には小笠原氏の祖となった長清、南部氏の祖となった長行、加賀美氏を継いだ光経、於曽氏の祖となった経行らがいる。治承4年(1180年)の光朝は弟の小笠原長清とともに京で平知盛に仕えていたが、頼朝挙兵の情報を知り母の病気を口実にして甲斐に戻った。

正治2年(1200年) 3月14日  
頼朝が没した翌年の寒い日。義實は同年の6月21日に没するのだが、今日、岡崎四郎義實が杖にすがって尼御台所の邸に参上した。「80歳を越えて余命も少ないのに病と貧しさに悩み頼る者もない、多少の所領は亡き義忠の菩提を弔うため布施しようと思っても、子孫に遺す物さえ無くなってしまう」と泣いて訴えた。哀れんだ政子は「石橋山で功績を挙げたのだから年老いても報われるべき」として所領の配慮をと、二階堂行光を介して頼家に伝えた。

承元1年(1207年) 6月2 日
天野民部入道蓮景(俗名遠景)が義時宛に願状を提出。治承4年の山木合戦以来の功績を11ヶ条挙げ恩賞を望む内容で、大江廣元が受理した。

承元3年(1209年) 5月23日
西浜(飯嶋と呼ぶ)付近で騒動があった。梶原家茂(景時の孫)が小坪浦に遊覧した帰路の和賀江島近くで兼ねてから遺恨を受けていた土屋宗遠に出会って殺害された。宗遠は御所に出頭し和田常盛(義盛嫡男)に太刀を預けた。身柄は侍所別当の義盛に預けられた。
 
承元3年(1209年) 6月13日
土屋宗遠が直訴状を提出。曰く、自分は頼朝の時代から忠節を重ねたが家茂は謀叛人梶原景時の孫である。奉公と不忠が対等に扱われているのは我慢できない、と。これを読んだ将軍実朝は「理屈に合わないから処分すべきだが、頼朝の月忌に免じて赦免する」、と言い渡した。

建保3年(1215年 ) 1月8日 
伊豆国の飛脚が、去る6日戌の刻(20時ごろ)に入道遠江守従5位下平朝臣(時政)が北條郡で没したと報告。享年78、日ごろ腫物を患ったとのこと。

建保7年(1219年) 1月27日  
三浦義村は、実朝を殺し、首を持ったまま後見の備中阿闍梨宅(雪の下北谷)に入った公暁を討つため、躊躇する長尾新六定景を向わせた。定景は屈強な雑賀次郎以下5人を率いて備中阿闍梨宅に向った。

公暁は義村に送った使者の帰りが遅いため八幡宮裏の丘を登り義村邸に入ろうとした所で定景と出会った。雑賀次郎が組み付き、定景が太刀を抜いて公暁の首を落とした。定景は首を持ち帰り、義村は北條義時邸に持参した。


弘長3年(1263年) 8月14日
南風が強く、昼ごろには樹が倒れ屋根が飛ぶ状態だった。由比ガ浜に着岸していた数10艘が破損し漂流沈没した。
 
弘長3年(1263年) 8月27日
由比ガ浜の船舶が沈没した際の死人が無数に打ち寄せられた。また鎮西(九州方面)の輸送船61艘が伊豆の海を漂流している。



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