戦後生まれの日本人は、進んだ文化や技術は大陸・半島から輸入され、日本文化の基盤が構築されたものと思い込み、航海術も南方から西方から移入され、稲も朝鮮半島から持ち込まれ、中国人や朝鮮人が日本国に逃げ込んで来たなどの通説・定説を疑うことなく信じて来た。
日本列島は周囲を海に囲まれ、これが自然の擁壁となり外からの異民族の侵入を許さず、黒潮や対馬海流の影響で気候も良好で針葉樹林・落葉樹林・照葉樹林からの恵みによって3万年以上の長きに亘り戦争の無い歴史を刻んで来た世界に類例のない国なのである。
近年、急速に発展した黒曜石分析により、間接的にせよ日本の島々より産出される黒曜石が本州や琉球・朝鮮・ロシアへ海を渡っていたことが確認され、産地の特定される翡翠・琥珀・丹生・アスファルトなども広範に亘る列島の遺跡から発掘されていることが知られるようになった。
時代は下がるが中国の「魏志倭人伝」その他の書に大陸沿岸や半島南部に倭人が古来より姿を見せていたことを記されている。倭が書物に載った最古のものとしてBC600年頃とされているが、それよりも、かなり前から倭人の海外交易が続けられていたことは、日本の黒曜石が中国大陸や朝鮮半島から出土されていることからも可能性は非常に高いと思われる。
考えてみれば、大陸や半島の大部分の住人は、小舟で海を渡り何が起こるか全く分らない島に命がけで渡ることに対し非常に恐怖を抱いたに違いなく、せいぜい内湾や河川用小舟の段階にとどまり、荷物の移送は河川や陸上の道に頼った流通網の構築に目が向いていたものと推察される。
縄文時代の丸木舟は、かなりの数を遺跡から発掘されている。しかし、旧石器時代の丸木舟は一艘も発掘されていない。著者は上記に獣皮袋製の筏を原初的渡航の道具として提案したが、その後日本の海神族の後裔は、全国に湊や邑(村)を広げつつ色々試行錯誤を重ねたものと考えている。
記紀に何かヒントは無いかと渡海に関する項目を網羅してみた。スサノウが土舟に乗って東征したという。土舟(埴輪舟)とは何かを改めて考えてみた。当時の人々は大地から採取された粘土状の物体を全て土と理解していたと思う。日本書紀の「天智天皇に燃える土(アスファルト)と燃える水(石油)を献上した」という記述がある。燃土と燃水に人々は驚愕したが、土舟とは単に泥で作った壊れ易い泥船では無く、当時各地に自生する箱根笹で作った緻密に編み上げた籠を浮き袋の上に装填し、籠面全体に自然アスファルトを塗布した防水筏(土舟)だった可能性もある。
海幸彦・山幸彦の物語に、「无間勝間(まなしかたま)の小船」というのが出て来る。无間勝間とは「編んだ竹と竹との間の堅くしまって,目のなきをいう」という事になっている。竹は後世に中国からもたらされたものとされていたが縄文時代の遺跡から竹ひごの編み物が出土が確認され、これまでの定説が覆り始めている。
无間勝間(まなしかたま)の舟は竹籠船のような小舟を示唆しているのではないか。編み目を塗りつぶしたとしたら,アスファルト塗り・漆塗りなどが候補として上げられる。縄文時代の遺跡から漆塗りの籠が発掘されて単に装飾品とされているが、中には舟材の一部の可能性もあり、今後考古精査が望まれるところである。
海の神エビス様が米俵三俵の上に跨り、鯛を抱えて釣竿を持ち海上から現れる古い絵が広く知られているが、著者とすれば浮袋を詰めた双胴船がイメージされてならない。ついでに瓢箪は後世に移入されたとするが、獣の浮き袋から後世瓢箪を浮袋としたことを暗示しているかも知れない。
いうまでもなく、大型の丸木舟による航海も否定できる存在では無いが、縄文中期以前は製造できる道具が無く航海操縦の安定性など鑑みるに、丸木舟は内湾や河川にて多用されていたと見たい。
古代の日本人は、天と海を同音のアマと語っていた。ソラとウミとを判別できなかったとは極論する気は全くないが、朝日は東の海の果てに在る谷底から毎朝新たに生まれ毎日登り、夕日は山の向うに沈んで消えて行くと考えていた嫌いがある。海については海の底・海の中・海の浅の三種類が記され、龍宮城は海の底にあるとされているが、言わずもがな人間は海の底では確実に死んでしまう。現代人は海の底と見れば素直に海の垂直位置と理解し、専門家も同様の解説をしている。
著者は垂直位置をとらず、あくまで海上の平面位置と理解したい。つまり浅い海とは近い津、中の海とは中間地にある津、海底とは太陽が生まれる海の谷に近い遠くにある津を表現していると考えるのだ。例えば九州の日向を出港地と仮定すれば浅い海は歴史の浅い近隣の湊を指し、中の海とは伊勢湾辺りの湊で中位の歴史を有すエリアを指し、海の底とは遠く離れた湊を指し初原的航海が始まった伊豆半島東南部の湊を海神の宮としていたのでは無いかと考えが纏まり始めている。
縄文時代の舟を考える
ここからは著者の仮定の話となるが、天孫族が日本に着岸した時、日本の海神文化の早熟さと文化財政力に驚いたと想像している。海神族の技術力・機動力・財力・連携力などに一目を置かざるを得なかった。航海を生業とする海神族は農業の基盤とする土地に拘泥する必要は無かった。一方、天孫族は新たな稲作文化を持ち大掛かりな灌漑施設技術を生かし得る広い農耕地を求めていた。
違った価値観を有し求めるものが相違するも、ともに太陽神を崇拝する二つの民族が急接近しはじめる。海神を崇拝する海人の子孫の娘達と天孫族の王子が結び付き、その子や孫やひ孫と次第に天孫族の王子の血に海神族の血が濃くなって行き、海神族の長は天皇の外祖父として地位を築いて行き、天孫族の強く望む各地の土地獲得に海神族は積極的に協力し大和政権の底支えを担って行く。
著者は国粋主義者とは全く無縁な者であるが、近年解き明かされつつある日本人のDNA鑑定分析により血統の多様性を含みつつも、旧石器時代から連綿と引き継がれる日本人独自の血統が厳然と引き継がれているという分析結果に何故か安堵の情を覚える者である。それは他国民族の制服による大和政権の成立という、戦後の自虐的定説により我が国に連綿と続く旧石器人・縄文人と弥生人との差別に対する嫌悪感を一掃する快事と感じている。
稲のDNA鑑定においても、旧来の朝鮮半島からの移入の定説は覆され、長江南岸からの直接輸入が証明されつつある。逆に最近では、日本から朝鮮への輸出説が浮上しつつある。
真偽は別にして、古代よりの海神族の存在や文化貢献度を軽視することは考古学的に許せなくなった新局面を迎えつつあることは否めぬ事実である。
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