搗屋(つきや)のみちとは |
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御殿川上流部左岸方面がが搗屋のみち
左岸に数多くの水車が並んでいました。
最近ここで「大うなぎ」が捕まり新聞報道されました。
南側橋上から御殿川上流を撮影↓ |
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搗屋(つきや)のみち→北側より入口部下り坂を撮影↓ |
搗屋(つきや)のみち→南側より富士山方向を撮影↓ |
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1920年代の水車小屋(イメージのための古写真)↓ |
粉ひき小屋内部(石臼・杵のイメージ写真)↓ |
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御殿川は桜川の分流のようになっていますが、御殿川は最古級の湧水川であり桜川の方が後で造られた用水路と記録され、川の名前が江戸時代の三代将軍・徳川家光のため築造された御殿にちなんで「御殿川」と命名され江戸時代の新しい用水路と思われている方もあるかもしれませんが、元々菰池や白滝公園を水源とする古い湧水川なのです。
白滝公園から少し下ったところに取水口(おっと、こちらが旧本流なのだ)があり、水量が多かった昔は、轟々と音を立てて勢いよく流れ下っていました。ここら辺から眺める富士山は三島八景の一つ「水上の富士」として知られています。
今や、搗屋(つきや)のみちを知る三島市内の小中学生は少ないと思います。搗屋(つきや)とは今の精米所とほぼ同じですが、籾殻付きの米粒を杵で搗いて白米にする搗屋(精米所)が10軒内外建ち並んでいた通りを搗屋(つきや)のみちと呼んでいたのです。
現代の精米所は電気を使い機械で精米していますが、搗屋(つきや)は三島の湧水をエネルギーとして利用していました。つまり、エネルギー代はかからず桜川からの取水口弁調整で流量流速をコントロールし数多くの水車を回転させ、回転力を回転カムを介して杵を上下動させ石臼の中の籾殻付きの米を搗く集団が存在していたのです。水車のカラクリを修繕した大工や金物の職人も居たに違いない。
三嶋宿の湧水量は、夏季の増水期・約40万トン、冬季の減水期・約20万トン、水温は年間を通して15℃前後、「水の都・三島」と呼ばれる豊富な湧水という立地条件を見事に利用し、工賃収入を創出した昔の人の知恵に脱帽する次第です。まさに、省エネ無公害の見本、専門職人集団の先駆け、水量を減らす訳でもなく水質を汚す訳では無く、下流部落の水確保に影響を与えず、自然エネルギーを利用していた人々の足跡を忘れてはなりません。その先駆的知恵に学ばねばなりません。
白米にすると持ちが悪く、籾の付いたままの米を保存するのが当たり前で今も同じ方法がとられています。江戸時代の納税は米で、大量の米俵が江戸に運ばれましたが、米俵の中身は白米としなければなりません。問屋小路に田方方面より運ばれて来た米の精米や、三嶋大社や旅籠や一般三島宿に暮らす人々から精米を頼まれ、次第に御殿川上流域に水車小屋が増えて行き、つまり搗屋(つきや)が軒を並べるようになりました。
時代が浅いため三島八小路に含まれていませんが、昔は水車が10台以上も並んで稼働する様子と石臼を打つ音などを頭に浮かべ歩けば趣のある散歩になるかも知れません。残念ながら、時代の趨勢によりこの小路に水車小屋は一軒も残されていません。(掲載の写真は参考までのイメージ画)
三島生まれの児童文学者・小出正吾氏の自筆原稿「ジンタと三島」に次のように記されている。
せせらぎの音は子守唄のようなものだった。川のホタルは家の中まで飛んできた。水上の岸べは男女の子ども河童で賑わっていた。その付近には十個ばかりの水車があって、朝から晩までコットン、コットン・・・米をついていた。 (中略) |
三島市を訪れる人々は、桜川沿いの道を大社に向かってしまい「搗屋のみち」を散策する人は殆ど見かけませんが、三島の湧水・御殿川を利用し農業と一線を引く工賃収入を生業とする集団が形成されていた古道ということに思いを巡らせ、この変哲も無い細い路地を歩む人は「本当の三島通」かも知れません。なお、この小路の終点「赤橋」に至り、右に曲がり西に少し向かうと右手奥に、孝行犬の昔話と三島女郎衆の墓と移築された樋口本陣の門がある三島の圓明寺があります。
搗屋のみちを川沿いに南下すると「赤橋」に辿り着き、左に曲がり赤橋から桜小路(鎌倉古道)を東進し、祓戸神社(はらいど・浦島さん)に詣で、大社へ至るコースもバリエーションがあって面白いと思います。
大社の神池に着きましたなら、是非、神池の東池の北側にある宮川用水の取水口をご確認下さい。
→→源頼朝公が造った三嶋大社の神池の水源
→→赤橋から三島大社に向かう桜小路
→→三島女郎衆の墓がある三島の圓明寺
→→知っておきたい三島七石
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