三島里山倶楽部

TOPへ
間近なイベント
清掃プロジェクト
竹林整備
小沢川下流
里山の生物
ボランティア
三島風穴
三島・富士山
三島の滝
三島七石
三島八小路
搗屋のみち
昔の鎧坂
カワセミ
間眠神社
浅間・芝岡神社
源頼朝マップ
函南マップ
ハザードマップ
駐車場マップ
編集室
資料館だより
検索順位
外部リンク
わきみず
壱町田の神
愛染院跡
「知っ得」情報
神津島と海の道
縄文時代の舟を考える
三嶋大社・神池の水源
巨樹・名木
万巻上人が愛した函南桑原
巨樹のある神社・仏閣
菰池公園と鴨の親子
三島八小路の目次
三島八小路
F金谷小路(かなやこうじ) G菅小路(すげこうじ) A問屋場小路(といやばこうじ)
三島八小路
Eight little roads in Mishima


より大きな地図で 下小路 を表示
三島八小路の地図

【参考メモ】・・・今回、三島八小路の中に「菅小路すげこうじ」を含めて掲載しましたが、考古学の一説では「菅小路の存在そのものは否定しないものの、三島宿の南見付(みなみみつけ)の門外にある間眠(まどろみ)神社付近にあったとされることから三島八小路に含まれないという説もありますが、万葉集にも詠われ全国的に名を知られる三島菅笠を作っていた部落が間眠神社周辺に存在し、菅小路が旧下田街道の脇道として存在していた事を重要視し、割愛抹消することを躊躇いたしましたことを予めお断り申し上げます。三島八小路という呼称された年代が曖昧である以上、我が国最古級の歌集・万葉集に「三嶋菅笠」と銘記されていることからも南見付の門外説も色褪せたものと感じます。

仮に見付門外説に囚われるなら、「三島七石」は、謂うまでも無く成り立たず、江戸時代の三島庶民のエリア感覚は知るところではありませんが、厳密な三島宿エリア(見付門内)に囚われず、三島宿周辺部落を含めて広く「三島」と捉えていたのではとの疑問が生じて来ます。

いずれにせよ、私見ではありますが三島八小路の起こりは、やはり三島宿を代表する三嶋大社周辺の小路が肝要とされ、現に八小路のうち三嶋大社周辺に七つの小路が確認される。少し離れた所に阿闍梨小路が列挙されているが、敢えて言えば徒歩圏内でもある。優れて健脚の人でなく健康なシルバーでも走破可能の圏内に存在している。

三島八小路に関するホームページを拝観したが、実に何処にあるかが分らない地図の無い不親切なページか゜多い。位置を理解してこそ理解の一歩が始まる。当ページでは地図を多用してシルバーや少年でも分かり易く三島八小路を知っていただきたく歩いていただきたいと思い作成いたしました。


奈良時代の国分寺(こくぶんじ)の参道を阿闍梨小路(あじゃりこうじ)と言います。阿闍梨(あじゃり)とは、弟子に仏教を伝授する先生格の僧侶のことであり、阿闍梨小路とは偉い僧侶が通う路ということです。

国分寺塔跡では塔の礎石が発掘されており、当時はかなりの敷地を有し仏閣仏塔が建ち並ぶ国家的学び舎が築かれていました。なお、三島には女性僧を対象とする国分尼寺(こくぶんにじ)も創建されていました。

阿闍梨小路には三島七石の一つである市子石(いちこいし)が置かれています。市子とは 神霊・生き霊(りょう)・死霊(しりょう)を呪文を唱えて招き寄せ、その意中を語ることを業とする女性。梓巫(あずさみこ)、巫女(みこ)ともいう。
市子石は南側の小路のほぼ中央を横切る蓮沼川の暗渠上東側に置かれています。

三島宿の東側には箱根山西麓が迫っていますが、中世の箱根山には「箱根派修験比丘尼」などが600軒余りの家に住みつき、女性宗教者が多くいたことが伝えられいる。彼女たちは死霊が集まる箱根で死者の霊を口寄せし、慰める霊能者であったと考えらている。箱根派修験比丘尼のその後の全国への広がりを記録する文献は極めて乏しいことから断定することは出来ないが、山を下った三島宿の市子が「箱根派修験比丘尼」と関係が有るのか無いのか気になるところである。



御殿川が流れる赤橋から旧称・浦島さん(三嶋大社西門内の祓所神社)までの桜小路(さくらこうじ)です。推定鎌倉古道とも呼ばれ南側に並行してある旧東海道にあることから古くから北側の裏道的小路であり、様々な職業の民家が建ち並ぶ生活道路としての機能を果たして来た古道です。両側の建物がセットバック(新築する際、敷地を後退させて道幅を広くする)して広くなっていますが、色の少し変わっている中央部分が当時の道幅だったと眺めれば当時の生活風土や風情が感じられそうです。

「桜小路」の北側には八小路の内、「上小路」と「下小路」もあり南には「問屋小路」と「竹林寺小路」があることから、三島八小路を手っ取り早く5箇所も見られる訳です。ついでに三嶋大社(みしまたいしゃ)の東側を訪ねれば、「金谷小路」と「細小路」の二つも増え、一気に7箇所確認できますので「桜小路」は三島八小路の中心的位置に在ると言えます。

右下の写真に赤いポスト前がT字路となり右(南)に曲がると問屋小路(といやこうじ・とんやこうじ)となります。
また、赤橋西の北上して右に曲がり桜川(さくらがわ)を渡ると下小路(しものこうじ)となります。この下小路の一本北側には上小路(うえのこうじ)があります。

現在、桜小路は東から西への一方通行になっています。この小路をまっすぐ西に進むと赤橋を渡ると間もなく右手に三島女郎衆の墓があり、樋口本陣の正門を山門とする圓明寺があります。
少し歩いても構わないという人は、圓明寺から西へ源平川を渡って510m余り進むと右手の国分寺塔跡に辿り着きます。国分寺塔跡山門の真ん前を左(南)に三嶋八小路の一つ阿闍梨小路(あじゃりこうじ)となります。
これで、三島八小路は「菅小路」を除外することを前提にした場合(三島宿内の八つの小路)、全ての三島八小路を踏破したことになります。



旧東海道から現在市役所のある場所への通路を竹林寺小路(ちくりんじこうじ)といいます。昔、竹林寺が在ったことから竹林寺小路と呼ばれています。竹林寺小路は北から南に向かうに左側に桜川が流れ普通自動車一台がやっと通れる程度の細い道でしたが、現在は桜川は暗渠化され当時の通路と供に大通り西側の歩道となっていて小路の面影は全く残されていません。

当時の竹林寺小路の東沿いには桜川が顔を覗かせて流れており、民家や商店が建ち並びには橋がかけられていましたが、桜川に少し突き出たような建物も散見され、「厳密に言えば違法建築だよ」と話す先生もいました。

市役所前には再び桜川が顔を覗かせ、そこには農兵調練場跡の石碑があります。
市役所西側には三島七石の一つ蛙石(かえるいし)の在る楊原神社(やなぎはらじんじゃ)があります。



桜川と旧佐野街道(甲州街道)を結ぶ上小路(うえのこうじ)です。北へ向かって弓なりに曲がった通路で、左写真の少し先を右に折れて暫く北に歩むと桜川源流の菰池(こもいけ)に辿り着きます。

現在は東から西への一方通行となっています。この小路のほぼ中央には写真右下の心経寺(鎌倉時代は紳鏡寺)があります。一段下には下小路(したのこうじ)があります。これら小路の呼び名から当時の三島宿の人々は、地理的解釈として標高が高くなって行く北側(富士山方向)を上と感じていたことが分ります。

この一帯は白滝公園(昔は水泉園と呼んでいました)や桜川源流の菰池といった低地より一段高い地勢で浸水被害が少ない地域であり、古来より閑静な住宅街を形成しています。この小路は、昔ベーゴマのメッカだった所で、取った取られたの真剣勝負の子供の遊び場でした。



桜川から旧佐野街道(甲州街道)を結ぶ下小路(したのこうじ)です。現在は西から東への一方通行となっています。
北側の上小路(うえのこうじ)と違って古い寺院など無く一般民家が建ち並ぶ小路ですが三嶋大社の本殿西側面に向かう通路でもあり落ち着いた雰囲気のする古道です。弓なりに道が曲がっているところが面白いのですが理由が分りません。桜川の中に三嶋大社の「米のとぎ石」が現存しています。


道標なく小路も未整備のままの生活道路です。
願成寺のクスノキの巨木(幹囲7.2m樹高28m)

三嶋暦師の館から西へ約50mの位置から北へ上る細小路(ほそこうじ)です。最近まで大きな樹木がありましたが残念ながら切り倒され現在ありません。昔の人は現在大場川と呼んでいる川を「かんがわ(神川)」と呼んでいました。三嶋暦師の館から東に向かう下り坂を在住の人から神川坂と呼ばれています。この神川坂から約300mほど北東に進むと樹齢300年(同寺の庭師談では樹齢700年)を数えるクスノキの巨木がある願成寺があります。

細小路は、推定鎌倉古道と称される主道に接し三嶋大社の入り口に位置する古道であり、三嶋大社に従事した人々が暮らしていた地域です。三嶋大社境内の北側の道に接し、その北側の古道を東から北へ進むと祇園山(ぎょんさん)に辿り着きます。幕末の三嶋大社神主、矢田部盛治が作った祇園原(ぎおんばら)用水の隧道口が今も残されています。この祇園山には三嶋大社の守護神・賀茂川神社が祀られていますが、祇園山自体は新幹線工事で山の大半を削られ往時の山頂広場や山頂までの長い坂道は残念ながら今はありません。昔の祇園山の古写真を捜していますが残念ながら見つかりません。

この付近から現在のJR東海道線までの広大な一帯が当時「社家村」と呼ばれており三嶋大社の様々な仕事の従事者が暮らしていました。幕末の三嶋宿には矢田部盛治江川太郎左衛門英龍という歴史に残る英雄二人が活躍していた場所でもあった訳です。


金谷小路の道標は無く三嶋暦師の館↑という名盤のみ敷設

三嶋暦師の館・河合家の近辺は、昔は「社家村」と称され三嶋大社に従事する人々が暮らす地域でした。金谷小路(かなやこうじ)は赤い点線で示した三嶋大社の東側側道の天神社から北に向かう通路とする説と、赤線で示しました三嶋大社の総門から東に向かう説があり、どちらの説が正しいのか分りません。

今回、三島市役所が行いました小路整備事業の一環として施工されましたのは赤の実線で示した通路で道標には「三嶋暦館の道」と記され「かなやこうじ」と記された道標は確認されませんでした。

いずれにせよ、金谷小路と名付けられたのは、この界隈に金物師が多く住んでいたからと伝えられています。武具師・鋳物師・三嶋大社建物の板金工など金物加工業者が多く暮らしていたとされます。本来は金屋小路と命名されるところ昔の粋な計らいで、水の寄るところ=同じ類の寄るところ=谷として金谷小路と転化されたのかも知れません。


三島宿に在った古い道を探ることが好きな私は、同時に古い地図を眺めて古い時代へタイムトリップすることも大好きです。金谷小路については、専門家の間でも意見が分かれ、同小路のルートが未だに確定されていません。路地のような細い道だったと指摘し、上掲しました赤の実線ルートの三嶋大社(みしまたいしゃ)から三嶋暦師の館までのクランク状の曲がった小路だったと主張する学者もあれば、旧東海道に直角に接した南北の直線道だったと主張する学者さんもいます。

ここで、私は下に古絵図を載せてみました。昔の絵図の特長として、現代で言えばゼンリン地図のように丹念に民家が描かれる絵図が多い。これは年貢徴収のための報告書に多用された慣行の影響と考えられますが、一軒一軒の描き様は単一的記号風ですが、道筋にびっしり書き込まれています。
金谷小路を探すため、色々な江戸時代の絵図をみましたが、赤の点線で現代地図に記しました三嶋大社から三嶋暦師の館に向かう東西に並ぶ家並みが記された古絵図に接しられませんでした。

反して旧東海道に直角に接し南北に伸びる直線小路の両脇にびっしり民家の建ち並ぶ古絵図は複数確認されました。加えて、「金谷町」と筆で記された地図が確認されました。私の感想としましては南北の道路が金谷小路であるという主張に軍配を上げたいような気がしておりますが、皆さんはどう思われますでしょうか?
ただし、金谷小路と推察される南北道路は、現在では既にセットバック拡幅され味気のないものとなっており、かつての道幅や民家が軒を並べる風情を少しでも感じたい方は「三嶋暦師の路」を歩かれることをお奨めしたい。

丸く囲った赤の点線圏内が菅小路のルート???
間眠(まどろみ)神社

菅小路(すげこうじ)は位置が特定されない八小路の一つである。小路とは旧東海道・旧下田街道・旧佐野街道・鎌倉古道のような大路に対する呼称とされ、金谷小路を除いては殆ど大路に直角に接しています。

ですので私が類推するには妻塚(さいづか)前の古道に近く下田街道に接し点線の赤丸内にある小路で伊豆箱根鉄道が踏切を設けた通路としたいところであるが車両の対面通行が可能な道幅になっていて小路という風情は失われています。ただ笠縫橋(かさぬいばし)が残されていて、南北に流れる桜川には最近蛍が舞うようになったようで笠縫橋から蛍をみたいものです。

やはり、そうであるならば分らないとした方が謎めいて後の人の宿題としてとっていた方が良いかもしれない。
源頼朝が木の下で昼寝していたという間眠神社(まどろみじんじゃ)の付近では菅が生い茂り、周辺の部落では農閑期の副業として菅笠を作り市場に出していました。

万葉集に歌われているように古くから三島菅笠の名は全国的に知りわたり農作業や旅人の日用必需品として人気があり戦前ごろまで内職が続けられいたと伝えられます。
三島の土産品としての三嶋菅笠の復活を望みたいところであるが、菅の群生地も宅地化され菅笠を作れる後継者もいるかいないか分らなくなってしまいましたが、高齢者の手内職にぴったりと思われます。

万葉集
三嶋菅  未苗在  時待者  不著也将成  三嶋菅笠

三島菅いまだ苗なり 時待たば着ずやなりなむ 三島菅笠

三嶋の菅は未だ青々とした苗で菅笠にするには早すぎる。
だからといって漫然と苗が育って行くのを待っていたら三嶋菅笠をかぶることができないかもしれない。

三嶋の愛しいあの子はまだ若過ぎる。だがあの子が成長するのを待っていたら、引く手あまたなあの子は誰かに横取りされ、会えなくなってしまうかも知れない。

万葉集に歌われている三島菅笠は全国的に知られており、その菅笠の生産地にあった小路を八小路から絶対に外すことはできません。


問屋小路は「といやこうじ」または「とんやこうじ」と呼ばれます。左上の写真の道標には「とんやこうじ」と記されていますが三島市や三島観光協会のホームページには「といやこうじ」と記されています。

問屋小路は厳密に言えば、現在の中央町郵便局と三島市役所中央町別館のある場所が問屋場だったのですから赤の実線を問屋小路と言うとする説と、赤の点線で示す田町まで続く小路までを問屋小路と言う説があります。
荷車などの往来の必要性から、他の小路より当時としては道幅が広かったと思われます。

左下の写真左の白い建物の敷地が元問屋場、右下写真は田町駅付近交差点から撮影した問屋小路です。
現在、狭いながらも交互交通可能の道路となっています。

問屋場は、現在で言えば「物資流通センター」とされ、当然、江戸幕府への年貢米も扱われた。その年貢米の倉庫群が、今の伊豆箱根鉄道駿豆線の田町駅南方に位置する日本キリスト教団三島教会付近に在ったと伝えられている。問屋場から年貢米倉庫群を結ぶ南北の問屋小路は古くから延長されていた。

この年貢米倉庫から南に下る古道を馬で米俵が田方江間を経由して運ばれ、江の浦から船で江戸まで運搬されている。三島宿から江の浦までの年貢米ルートは現在調査中であり確認されたら公開する予定であるが、米を水車で精米していた問屋小路の北隣に接続する「搗屋のみち」も広い意味で年貢米ルートに含まれるかも知れない。時代の変遷により運搬方法や年貢米ルートが変わって行ったかも分らないが、この古道に関する古文書は少なく更に研究する必要を感じている。


TOPへ
間近なイベント
清掃プロジェクト
竹林整備
小沢川下流
里山の生物
ボランティア
三島風穴
三島・富士山
三島の滝
三島七石
三島八小路
搗屋のみち
昔の鎧坂
カワセミ
間眠神社
浅間・芝岡神社
源頼朝マップ
函南マップ
ハザードマップ
駐車場マップ
編集室
資料館だより
検索順位
外部リンク
わきみず
壱町田の神
愛染院跡
「知っ得」情報
神津島と海の道
縄文時代の舟を考える
三嶋大社・神池の水源
巨樹・名木
万巻上人が愛した函南桑原
巨樹のある神社・仏閣
菰池公園と鴨の親子
三島八小路の目次
三島八小路
F金谷小路(かなやこうじ) G菅小路(すげこうじ) A問屋場小路(といやばこうじ)


三島里山倶楽部
阿闍梨小路(あじゃりこうじ)
阿闍梨小路(あじゃりこうじ)
inserted by FC2 system