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Kouzushima and ocean road


神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図である。これから論じたい黒曜石と海の道に対する私的イメージを赤の点線で描いてみた。

当時の旧石器人は道を構築するという概念は無く、土地を所有するという概念も無く、結婚という概念も無かった。ただ自然界に現存する獣や魚や植物を採取して食べて行き、本能的に親子関係を大切にし子孫を作り育てることに専念していたに違いない。

ただ彼らが初めて神津島の黒曜石を知ってからは、その島の持つ他に類例のない地理的存在観念と黒曜石採取欲を強く感じた瞬間だったかも知れない。海を渡って如何に安全確実に黒曜石を運んだらよいか明確な目的意識が湧き、比較的安全な河口や海の浅瀬で試行錯誤を重ね、当時の採取可能で加工可能の材料で海に浮き移動可能な物体を作るため、おそらく気の遠くなるほどの年月を重ねて黒曜石を手に入れる渡航術を身に付けたものと想像される。複数人の共同作業には当然言語の発達も進んでいった。

神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島近辺で黒曜石が現在確認されているのは利島(トシマ)と伊豆の河津(カワヅ)(段間ダンマ遺跡)と伊豆大島の三か所である。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いない。

また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察される。 (かなり後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来た)
一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは250kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の集積地だったと推定されている。

神津島から河津まで直線距離約60kmだが、立ち寄ったかどうかは別にして現在では神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなる。つまり、島伝いを通過することにより安心が得られ、万が一の備えとして危険が生じたら島に避難したと考えられる。また、殆どの地図に載せられていないが、釣りが好きな人には知られるこの海域に海上に顔を出す岩礁も多く、海退の生じた太古ではもっと多くの岩礁があったかも知れない。

なお、伊豆大島の縄文時代中期の遺跡から神津島の黒曜石が確認されているので、旧石器人の子孫は渡航船体の構造進化に相俟って渡航技術を磨きつつ、相模湾横断も達成した可能性も高く赤の点線にて推定航路を記入した。その後、彼らの子孫は日本各地・世界に輪(倭・和)を広げて行ったと思われる。

縄文時代の舟を考える

海上保安庁水路部による神津島周辺の海底調査

上図を参考に示したのは、旧石器時代は寒冷期にあり現在の海面より当時の海面の高さは約100m〜120m低かったとされ旧石器時代の神津島周辺の地形がどうなっていたのか、幾つもの小さい島が海上に顔を出していたのではないか、それとも現在独立して分散している島々が一つに繋がっていた可能性はないのか、海の渡航に関して神津島から伊豆の河津まで現在より数段渡海条件の緩和があったのではと色々空想している。

残念ながら、今から3万年以上前の伊豆半島南東の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていないが、原始宗教神話の源流の地でもあり海彦の生活の場でもある。当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの海洋考古調査解明が切望される。

神津島から利島までの島々の周辺が広範に浅くなっていることから、当時の島の面積はもっと大きかったか繋がっていたことも十分推測され、そこに旧石器時代の人々が小さな定期的採掘キャンプを築いていたか、ないしは伊豆河津付近に女と子供を守り得る洞窟住居を設け神津島へ定期的に黒曜石を採取しに行ったのではないか、なんらかしらの旧石器人の足跡は海面下に在る筈であり、今後の海面下調査が期待される。

ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木・竹・草・皮などの遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと憂慮される。ただし、磨製石斧をはじめとする石器など間接証拠が見つかればと期待している。


伊豆半島の火山と旧石器人
伊豆半島周辺の火山位置と火山が終息したであろう年代を記した図面である。どうやら20万年前頃には伊豆半島内陸部での噴火が終わり、現在の骨格となる山脈が形成され、河川も形成されて行き植物が繁茂し動物も活動し始めた。赤字は約4万年以降に活動した火山噴火である。

更に詳しく約4万年以降の伊豆東部地区並びに伊豆諸島の火山噴火を記すと、
 @約3万8000年前に黒曜石が発掘された段間遺跡付近の鉢の山(河津町)が噴火する。
 A約2万5000年前に登り尾(河津町)が噴火し河津七滝(ななだる)を形成する溶岩流を噴出する。
 B約2万2000年前に伊豆市中伊豆の地蔵堂が噴火し、溶岩流が万城の滝をつくる。
 C約1万7500年前に東伊豆町の堰口が噴火し、火山礫が厚く熱川の台地を覆う。
 D約1万7000年前に天城湯ヶ島町の鉢窪山丸山が噴火し、溶岩が狩野川に流れ込み浄蓮の滝をつくる。
 E約1万4500年前と約5000年前に伊東市の大室山が噴火し、伊豆高原城ヶ崎海岸をつくる。

 F一方、伊豆諸島に目を向ければ現在でも頻繁に噴火活動の見られる伊豆大島三宅島の火山噴火が上げ  られる。約5万年前から約3.5万年前から噴煙を頻繁に上げていたものと推察される。

つまり、陸地にあっては人類に火山噴火は大きな脅威を与えたが、渡航のヨチヨチ歩きの旧石器人にとっては又とない渡航の目印になった筈であり、世界最古の渡航を可能となし得た立地条件(暖流と火山)と思われる。
間隔があいているとは言え、伊豆半島の現在の地形を造り出す一連の火山活動により、島造り神話の実舞台に生きた彼らは、自然への畏怖と同時に自然神への崇拝に繋がって行ったのかもしれない。

自然災害を避けながら旧石器人や縄文人が黒曜石採取を生業として生きる場所と選んだのは約3万8000年前に噴火し既に終息していた鉢の山付近の伊豆半島南東部だった可能性が高いのではと思う。それも漁撈と塩分が摂取しやすく、荒波を防ぎ得る入り江(津)または河口を有す伊豆南東部の海岸周辺の高台を選んだに違いない。

「刺身は包丁」と言われている位に、生肉と切れ味は切っても切れない関係とされ味覚と直結する。黒曜石のカミソリに匹敵する切れ味は寒冷期に必需品とされる毛皮服の裁断にかかせない道具ともなる。ガラス質の黒曜石は狩りの道具や草木の切断にも使われ、まさに衣食住の万能道具となり珍重された。
つまり黒曜石は火山の作った天然ガラスと称されるが、まさに3万5千年前〜1万5千年前の伊豆半島南東岸の海の民は良質の黒曜石に遭遇し、日本初のガラスルネッサンスと呼べるポテンシャルを握ったと感じられる。



私が想像するには日本列島がアジア大陸の海岸線に立地したころ、きっとアジア大陸の東岸の黒潮により暖かい海岸に面し、太陽の昇る日本半島に向かって旧石器人の多くが集まっていた可能性は高く、アジア大陸が日本列島と分離した後でも、後世の例ではあるが五弦の琵琶や神社仏閣の如く大陸・半島では容赦なく消滅せしめた文化を日本で存在を確認できるように、一見島国という辺鄙の地にこそ歴史を留める可能性は高い。今後は日本列島の南東の外れの伊豆半島南東エリアの旧石器時代の遺跡発掘調査の重要性を再認識すべきと思われる。

なぜなら、日本の旧石器時代の文化・経済・技術の萌芽中心地の一つは後世の京都奈良や大阪江戸でも無く、伊豆半島南東エリアに在ったと考えている。私達の考える旧石器時代のイメージは間違っている部分も多く、今後更なる黒曜石・翡翠等の科学的研究と研究データネットワークの構築進展が望まれるところである。
さらに旧石器時代の海退だが、どんなに進んだとは言え神津島と伊豆半島とは陸続きになることはあり得ず、渡航の事実は否定できない。なんらかしらの方法で海を渡って黒曜石を広範囲の山里へ運んだものと思われる。

最近の風潮として、南方の民族が黒潮ルートに乗り日本列島にやって来て日本古来の旧石器人と交わり倭人を構成したとの説をWebサイトで散見される。もともと舟の操れる民族だから神津島の黒曜石を発見し運べるのは当然の帰結であると短絡して論ずることに私は否定的立場をとりたい。なぜなら最近の遺伝子研究において日本人の遺伝子が南方系住人のそれとは異なることが証明されているからである。彼らは土器や言語の類似を主張しているようだが、3万5000年前に海で囲まれた日本列島において渡海技術を有する海洋文化が萌芽し、1万年以上に亘り渡航術を発展させ縄文時代の早い時期にロシアアムール川、壱岐、竹島、朝鮮半島、沖縄、中国沿岸部、台湾、フィリピン、東南アジア方面に足をのばして行き、私的交易や情報交換をしていた可能性が高いからだ。

以上のように倭国において土器の作られる以前より、優れた渡海術を有し海外との交易を展開していたとするならば、そのようなことはあり得ないとの先入観で考古して来た論考に落し穴が見えて来る。遺跡発掘の埋葬品を観察し、例えば戦闘時に着ける馬の鉄面の様式から類推して他国からの侵略があったと結論してしまう怖さが起こり得る。交易する者は外国にある珍しい物品に鋭く反応する。珍宝を探し出す海を渡る移動手段は持っている。あとは他言語との会話が出来るかどうかの問題だけだ。国内に持ち込まれた珍宝は当然権力者の手に収まる。そして死んだら副葬されるのである。一方海洋民も遠い外国で作られた強くて鋭利な道具を商人を通して入手し木造船の構造変化へ繋げて行った可能性もある。帆や梶や櫂なども交易相手と相互に刺激しあったのかもしれない。

NHKで放映された「白村江の戦い」で中国側の巨大船のアニメーション化に対し専門筋の誹謗が生じたが、なるほど、それより大分後年に起きた元寇に際し用いられた中国の木造船もそれほど船体は大きくは無い。海洋国家である倭国の渡海術は中国大陸側の渡海術より優れていたと考える方が自然である。弥生時代・古墳時代・飛鳥奈良平安時代に至っても、もっぱら渡海に関しては国ごとに委託され物資や役人を運んでいた専門渡海集団がいた可能性がある。年に数度の渡海のために船を作り船頭船員を雇い入れるより、専門渡航集団に委託した方が安全確実で施政的にも合理的と考えるからである。金印の「漢委奴国王」の読み方は「漢が委託する奴国(納税すべき国)の王」と読めてくる。王とは倭国の海運を専らとする集団の崇拝する海神を指すように思えてならない。
金印の発行は、頻発する海賊等と倭国の正規委託渡航人との弁別すべき漢の知恵と解釈したい。

漢の国は中国の内陸部から出た統一王国で海洋民では無い。彼らは昔から中国沿岸部へ倭国の舟が多数出入りし中国に無い珍品を持って来ることは遠く耳にしていた。臨機に応じ貴族層に対し私的に珍品貢物も献上する。倭国の国々の王から委託された奉納品も運んで来る。漢の支配者は倭国の貿易の二層構造を見抜いていた。
漢は遠い海を渡って倭国を占領し納税徴収しに行くリスクを避け、古来より従順な海運の長への委託を選んだ。
それが「倭」でなく「委」の字の本意ではなかったか。その見返りとして中国沿岸部での交易に目をつぶった。
大和国家が誕生してからも天皇が海の民の長を取り込み、朝廷の手足として徭役させている。その見返りとして租庸調を許し海洋民の祖神の位を天孫神に同列に祀り上げ、日本沿岸での交易権限を黙殺していたと考察する。

この海運の二層構造は坂上田村麻呂の北陸遠征、遣隋・遣唐使の派遣、空海の帰朝、奥州藤原清衡の貿易、平清盛の水軍、源頼朝の瀬戸内海への遠征、足利義満の勘合貿易など後々の世に垣間見られ、全国に海の神を祀る神社が権力者側からの褒賞として残されて行き、伊豆の海の民も全国に根拠地を広げて行き独立した勢力として分派していった。このことは別の機会に詳細に論究する予定である。

魏志倭人伝において問題とされる方角と距離の誤謬がある。文中に、どこが起点か正確に書かれていないが「陸行ひと月」とある。陸を歩くに1ヶ月となれば相当な距離となり、しかも方向は南東としてある。考古学の偉い先生達が、文意を真面目に読み解こうと自説を様々に出し続けたことから、議論百出の尾を未だ引いている。私は魏の国の役人の立場から考えれば遠出の費用や褒賞といった予算の前提となる距離は加算されるベクトルが働いたと理解したい。要は嘘をつかないが「水行」「陸行」を巧みに織り交ぜて遠出予算の確保に努めたに違いない。

一方、倭国の立場から謂えば大陸からの遠征は難しいと感ずる遠距離とされれば望ましい訳であり魏の渡航者が潤沢な褒賞を魏から貰え悦んで倭国に渡来してくれる方が望ましい。
さらに小国が数十乱立する倭国において、それぞれの国が魏への献納船を保有していると思えず海神を崇拝している海人族の外洋船に交易依存していた国も多かったと推察される。私は、その出港地はどの国へも順番に寄港できる一番遠くの南東の湊(港)伊豆半島ないし紀伊半島とにらんでいる。なぜなら記紀に「天皇が伊豆に船の建造を命じた」とあるからである。造船所は外洋船の基地(出航地)の在処の証左である。

魏の使節が倭国を訪問する手段は倭国のベテラン海運に委ねた公算が高く、伊豆国へ行く手段は「水行」の方が数段楽で早いので「陸行」は選択しなかった筈である。
それを何故「陸行ひと月」と記したかである。それは野暮でなければピンと来る。魏の使節への「海人族こぞっての熱烈歓迎の接待漬け」であったと読んでいる。伊豆国(紀伊国)の海人族にとっては魏と倭国の国々を結び付ける交易権確保と、加えて魏を初めとする中国大陸沿岸部との私的交易確保は二重の意味で大事な取引だったに違いない。つまり、魏志倭人伝は魏の役人と倭人相互の利得を醸成する「大人の書」だったと見られる。
魏ばかりでなく呉や蜀とも敵対する必要は何ら無い。海運を委託される海の民は磊落蓬莱なのである。

平成17年に発掘調査が開始された河津の見高・宮林遺跡から3万数千万年前と見られる黒曜石が発掘された。同時に2万8千年前の狩り用落し穴の土坑が見つかり、東伊豆の旧石器人が短期長期に亘り河津見高周辺で生活していたことが裏付けられた。先に記述した段間遺跡は縄文時代であり、縄文人が違う場所で大量の黒曜石を見付けて見高へ運んだのではという疑問が消え、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万5千年前頃)から神津島の黒曜石が発掘されていることと年代も符合することから旧石器人が河津見高周囲を生活圏として遊動していたことが明らかとなりつつある。伊豆半島沿岸で初の旧石器時代の遺跡として今後益々注目されよう。

【旧石器人の生活は侮れない】

私たちは歴史を遡れば遡るほど文明や技術力は未発達であると考え勝ちだが、そうで無い場合が歴史の中に多々見受けられる。
例えば、紀元前3世紀の中国の秦時代(始皇帝)の兵馬庸遺跡から発掘された青銅の剣は錆びておらず光輝いており人々を驚愕させた。ところが、それ以降の時代の銅剣は朽ちて原形をとどめていない。
現代の科学者の調査ではクロムメッキされていたという。
この銅剣の凄さはメッキされていない茎(なかご)剣を握る部分の形状も崩れが無く素材そのものも後世の青銅器とは数段上質の鋳込みがされていたことを意味し、刃部の形状も日本刀に似て狭い刃幅である。後世の青竜刀は強度不足を補うため刃部を広めに取らざるを得なかったことと比較するに次元が違う技術といえる。
なぜか、その古い時代の高い技術が断絶して後世に繋がらなかった。クロムメッキは90年前に発明されたばかりの新しい技術であるのに、紀元前に存在していたのである。

世界で最古の法隆寺の木造建築は、なぜ腐りにくいのか?
木の専門家によれば、釿(ちょうな)による木の表面仕上げにあるという。後世に造った鉄で作った釿(ちょうな)では仕上げがうまくいかず、法隆寺に残されていた古釘から作った釿(ちょうな)でなければ永年保持し得る柱や板は作れないと明言している。古代の匠は既に凄い術を有していたのだ。1千数百年前に作られた鉄の品質が後世の鉄を凌駕しているのだ。江戸・明治・大正・昭和と進むにしたがい木造建築の朽ちる期間が短くなり、人々は住宅ローン苦に喘いでいる。


中国紀元前3世紀・・・秦の始皇帝・兵馬俑の銅剣

法隆寺

日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、名実共に「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種である。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものである。 

日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3〜4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。
黒潮圏の考古学より抜粋(小田静夫著)

ハルシュタット塩坑から発掘された皮袋

【まさかの技術の出現】

人間が本当に必要とし一事に没頭するならば、時代を超えて、まさかの技術が出現する。

旧石器時代は狩猟に命がかかっていた。こと獣に関する知識は縄文時代や弥生時代を凌ぐものだったに違いない。
捕った獲物は毛皮・肉・骨・内臓など解体し全部利用した筈であり、その知識や経験は漸年蓄積されていった。

当時氷河期で今のシベリア並みの気候とされているので裸での生活は不能視され毛皮の防寒着が作られたと推察される。特に乳幼児の防寒対策は不可欠とされ、幼児が歩行可能となるまで女と子の移動は制限され、女と子を守るため男まで遊動が制限されたかも知れない。お産定住はあったのではと考える。

つまり、毛皮の服や寝具が必要不可欠だったということは、皮の裁断と縫う技術が発達していったと見るのが自然であり、服を作れる能力があるなら、紐(植物の皮、獣の腱)、物入袋、水袋、空気袋、靴、手袋、帽子、敷物、テント、毛皮の寝具など何万年もの歳月をかけて生活用具を考案して行き作っていた可能性が高いと思われる。

現代人は裁縫と聞くと、すぐに針と糸とハサミを連想するが、竹や小枝や骨の先端を黒曜石で尖らし、後部に作った割れ目に紐を引っ掛け縫い上げれば可能なこと、骨の針に小さな穴を穿孔する必要は無い。切断は黒曜石を使った。
また、胃や腸も袋として利用し、獣の皮袋の中に水と食料を入れ焼石を投げ入れ調理した可能性も否定できない。
植物への知識も深まり、獣の皮を人のつばきか植物のタンニンでなめす技術も有していたかも知れないが、全て腐ってしまい物的証拠は残っていないだけだ。


神津島の黒曜石が海を越えて古くは3万5千年前の遺跡から発見された。黒曜石の産地が特定できる現在の科学技術があってこその証明であり縄文時代を遥かに飛び越えて旧石器時代に何らかの渡海技術を有していたことを裏付けるものであり世界四大文明:メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明より遥か昔に日本の地で航海していた事が明らかになったのである。

この四大文明の原初的舟としては、丸木舟では無かった。、エジプト・インダスは葦舟、メソポタミア・黄河は皮袋の筏であり、いずれも丸木舟と違って浮力が分散する複数の浮力体を有していることで危険分散という観点からいえば安全性が確保されている点である。

葦は1本の浮力は小さくとも大量に用いれば絶対に沈まない舟となる。獣皮の浮き袋も大量に用いれば万が一どれかが破裂しても問題はない。むしろ丸木舟より安全性は高い。竹か木を組み合わせた筏に浮き袋に装填するだけで良く、労力もかからず軽いので運搬もし易い。

これなら、太い幹を切り倒す事も無く、重い幹を運ぶことも無く、それを二つ割にする必要も無く、中をくり抜く磨製石斧も必要が無く、細い竹や細い木片を獣の腱か丈夫な植物の皮で結べば事足りる。

いずれにせよ、彼らの指導者は万が一の備えとして水袋と救命浮き袋を乗せ、複数台の筏を一斉出航させたかも知れない。

黄河流域の羊皮筏
縄文時代の舟を考える
チグリス・ユーフラテス川の原始的ヨシの筏
●川なので波が小さく多くの物資を四角い筏で運んいる。図の右下には首の無い豚のような生き物が描かれ獣の浮き袋を使用していたことを暗示している。
●左下には大きな舵のようなものが描かれているが、装着方法などの知見は無いが、舵の発生を示唆している。
●上の図面上部奥には長細く数珠繋ぎの浮遊体が描かれているが、どのような物体なのか知見は無い。
●上の図面の手前にオールが二本描かれているが、右手前の筏は突き竿のようなものが描かれている。
現在でも活躍するチチカカ湖の葦舟

左の絵は獣の皮を数人で膨らましている様子が分る。既に獣の頭が落とされ、足の先端は紐で縛られているものと思われる。

毛のある外皮は内側にひっくり返され、植物のタンニンで皮がなめされているかどうかは分らないが、背後の椰子みたいな木々がなんらかしら暗示しているかも知れない。

旧石器時代と一口に言っても4万年前と1万5千年前と技術的進歩や生活環境など大分違っていたと思うので、帆(皮製)や梶(木製)や櫂(木製)の有無や発生時期などは謎のままに終わりそうだが、レリーフには帆が描かれていない。

左の図で面白いのは一人が浮き袋に乗っているか体側の棒に浮き袋を引っ掛けドルフィンキックかバタ足で浮き袋筏を推し進めている様子が描かれている。

海中に居る人物が仲間なのか奴隷なのか分らない。筏に乗っているのは押している人と対面しているので、長いオールを漕いでいると思う。先端が輪っか状のオールみたいなものが二本描かれているので前に二人いるものと思われる。
先端が板状で無く輪っか状の方が板を削る必要が無く、細い樹木の先端を火に炙って丸め網状(膜状)の物を輪っかに被せたかも知れない。筏下部側面の模様は皮製浮き袋と見られる。

石板に彫刻し得る能力があったから、後世の人々が紀元前の筏の存在や構造概略が把握されたのであり、それ以前に遡っては筏や渡海術が無かったと断言は出来ない。原初的な海への第一歩は、浮き袋を携えた浅瀬の遊泳だったことを左の絵から感じられる。
【伊豆諸島の海流と渡航の立地条件を考える】

縄文時代さえ考古するのに闇の中、旧石器を探るのは闇の闇の中、空想するしかない。

次に、伊豆半島の南東部に位置する伊豆諸島の海流を調べてみた。言うまでも無く旧石器時代の潮流を知りたいところだが、世界中の誰でもデータは持っていない。

したがって、現在の潮流をたたき台として渡海の難易度を探りたいと考えた。
右図は平成23年8月某日Web公示された海洋短波レーダー局により観測された海流図である。もちろん海流は日々刻々と変化し潮汐により変化するので参考にとどめたい。

ここで、指摘したかったのは西から東へ時速約7kmで流れる黒潮本流は北から南へ蛇行し年々ルートを変えるが、大体相模湾沖の黒潮ルートは八丈島と御蔵島や三宅島間を通ることが多く、例外はあっても神津島以北の島々には黒潮本流が流れることは滅多に無いことが現在では知られている。

黒潮の支流や逆流が神津島から利島に至る海域は、例えば右図のように海流は北上するか逆流潮により西進・西南進する場合があり、海流は複雑に変化するものの、八丈島から伊豆半島へ黒潮本流を横断して渡海する場合とくらべ、伊豆半島から神津島への渡海の難易度は低いものと推察される。さらに利島以北の海流の速度は低減するものと思われる。

ただし、駿河湾と相模湾の沖合の黒潮本流は鞭のように蛇行変化が大きく、それにともなう時々刻々黒潮支流の向き変化や速さは、当時の経験則での海流予測は不能視されよう。

仮に河津から出発して利島に向かうとし、北へ海流が1〜2ノットで流れていたと仮定するならば、南東方向45°斜めに横断したことが予測されるが漕ぐ労力を要する。昼間の渡航が原則だった筈で、採掘採集作業もあるので1日で往復できない場合は、採掘現場で泊まった可能性は高い。

帰りは、同じ条件の海流とすれば、西に向けて出港したと思われるが、風向きや海流の加減で寄港地変更もあった可能性も高い。利島を出港地とするならば、真西0°〜北西80°位まで航海誤差が許される立地条件と謂える。

いずれにせよ、海流が北上している場合はかなり潮流が速くとも相模湾岸方向に流される訳だから、南方へ流され黒潮本流に流される事にくらべて命にかかわる心配は少なかったと類推するところである。


【渡海のスピードを考える】

海における浮き袋筏は、縄文時代の丸木舟より波に対する安定性は良いが、海水の抵抗が高く、風の抵抗も大きく受け易いことから人力により、どの位スピードが出せれば、空が明るい内に島に辿りつけるのだろうか考えてみた。
水抵抗の小さいシーカヤックの平均速度が時速5km内外と考えれば河津見高から利島まで海退を考慮して約30kmとして約6時間で到着する。海流変化や風向き変化を考慮しても10時間かかると見た方が無難かも知れない。
概ね6時間から10時間で利島に到着可能を可とするならば、浮き袋筏は時速5km〜時速7kmのスピードを出さなければならない。当然ながら、シーカヤック1人に対し筏1人では海水抵抗だけでも勝ち目が無い。どんな櫂を使い何人で漕いたら実測として時速5km出せるのだろうか?計算が出来る筈がない。筏の構造が闇の中であり、抵抗値が出せないからだ。
ただ、言えることは向い合う潮の流れを1〜2ノットと仮定するならば少なくとも最低時速7km出さなくてはならない。
そのためには、当該筏の構造は幅広では抵抗損失が大きくなり幅は狭く、漕ぐ人数を増やさなければならない場合は縦長の構造にしなければならない。
筏は極力軽くし、船首船尾は水の抵抗を減らす三角や流線形にしたい。そのため、船首と船尾には竹や葦などで造作する。壊れても良い。なぜなら本体は沈まないからだ。

伊豆半島と利島から神津島までの位置関係図

【渡海ルートを考える】

左の図はGoogle earthを切り取り字と絵を挿入した。Google earthのとても便利なところは、画面をクリックすると海抜や海深の値を示してくれることであり利島から新島から神津島までの島間の海深数値を見て行くと-100mより浅い部分が多いことが分る。
繋がっていたかどうかは別にして、利島から神津島までの距離は約40kmある。また、伊豆半島の伊東市南部から下田まで、当時は海退により神子元島(みこもとじま)は陸続きと見られ同じく約40kmある。
つまり、一片を約40kmの並行四辺形内が渡海ルートと推定される訳で、この間の黒潮支流の向きやスピードや風向きにより出発地や到着地を変えていた可能性がある。

例えば、出航日が矢印のように相模湾に流れ込む北上する海流と読んだ場合、河津見高方面からの出航では、まともに海流とぶつかり合う形となり、進むに労力を要し、場合によったら大島の方へ流されてしまう恐れもある。

したがって、海流が北上と観た場合は、神子元島(みこもとじま)辺りから出航したことも考えられる。当初の操船技術は相当アバウトだったと想像されるので横に約40kmの誤差が許され北上する海流を横切る形で前進した方が無理が無い白の三角形の渡海ルートを選んだと推測する。流されても利島に辿り着けば良い。

また、帰りは神津島から島を右に見ながら北上する海流に乗り利島に一旦行き、そこから真西から北北西まで横に約40kmの誤差が許される赤の三角形内の渡航ルートをとったのではないかと思われる。

彼らが恐れていたのは絶対に南へ流されない事の一点であった筈で太陽の方向に流されないことだけを守った。
そして、目的地に近づき浅瀬の移動は突き竿を使用し、岩礁にぶつかりそうになったら竿で突いて避けたと考える。

陸揚げ後は、伊豆半島の南北の移動は海退によって生じた水平な海岸線が続き、現在の途切れ途切れの海岸線と違い南北の移動は容易(筏を引っ張って徒歩)だったと思われ渡河や海岸線が没した場合は筏に乗ったかも知れない。

梶の有無については分らないが、潮流の速さが増し方向が変わるなど不測の事態を配慮して、仮に二隻の筏が同じ方向に流され操縦不能となった場合、一隻の筏を放棄してメインの筏を補助メンバーが泳いで押し、方向を補正するなど緊急手段もあったかも知れない。黒潮の水温は温かい。

この地域の海の民は同じ目的を共有し従来の単独行動から協同行動に脱皮して行ったに違いない。そして、意思疎通し合える複雑多岐にわたる古代言語を獲得して行った。

高台へ登れば双方の島影は良く見通せるものの、海上に出れば見通しが利かなくなる。島へ渡る時の目標は太陽と三宅島(大島)の噴煙だったのではないか?もちろん毎年噴火している訳は無かったろうが、かなりの頻度で噴火し、一度噴火すると長期間噴煙を上げ続けていたに違いない。

伊豆半島に向かう時は太陽を背にして大島ないしは富士山・箱根が噴火した際は噴煙が目印に方角を判断したのではと思われる。

黒潮本流から離れ出発点から到達点まで約30kmの行程で横に約40kmの誤差が許される環境だったことは彼らにとり幸運だったに違いない。そして定期的渡航が舟の改造につながり渡航技術の進歩になって行く。

仮に利島から神津島まで複数の島々が繋がっていたとするならば、海流の流れに応じて東周りするか西回りにするか判断し利島に行き、利島から伊豆半島に向け出航したと思われる。

熱海伊豆山の走り湯は昔勢いがあり遠い海上から湯煙が確認されたと伝えられ、当時河津町の湯煙はどの程度だったか知りたいところである。


縄文時代の舟を考える

神津島(こうづしま)の周辺環境を探る

黒曜石の採れる神津島の西直近に恩馳島(おんばせじま)があり東隣に式根島(しきねじま)がある。

恩馳島は別名・アシカ島とも呼び、絶滅危惧種とされているニホンアシカの生息地(繁殖地)と知られている。同島は神津島と同じく黒曜石も採れることが確認されている。
加えて、式根島もニホンアシカの繁殖地だったことが専門家(伊藤1995) により確認されている。

そのニホンアシカの日本での繁殖地とはっきり確認されているのは、礼文島、久六島、竹島、式根島、恩馳島の五島であり、その内二島が神津島の両隣りに存在していたことになる。
今の海面より100m〜120m低かったことを勘案すれば、島続きだっことも考えられ、神々が集ったとされる神津島はニホンアシカの集う場所でもあったことになる。

ニホンアシカは、日本沿岸で繁殖する唯一のアシカ科動物で、アザラシやトド、オットセイのように冬に回遊してくるのではなく、周年生息していた。大きな回遊は行わず、生息環境として岩礁や海蝕洞があり、繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった。一雄多雌型で、オスは十数頭のメスとハレムを形成し、交尾期は5-6月で、出産は通常1回に1頭であった。

アシカの生息地だったということは、主要食材のイカやタコが豊富に生息していた海域だった筈で、天敵のシャチやサメの出没の比較的少ない安全な海域だったに違いない。
昭和初期頃までアシカ猟が行われていた模様で、今ではアシカの姿を見られなくなってしまった。

旧石器人がアシカを先に発見したのか黒曜石が先だったかは闇の中だが、アシカの油や皮などを採取していた可能性は高いと思われる。
筏の浮き袋として、油を皮の表面に塗布し、摩擦抵抗を減らす工夫もしたのかも知れない。
ニホンアシカ
恩馳島(おんばせじま)

河津段間(だんま)遺跡付近の環境を考える

河津(かわづ)は暖流の影響で現在の年平均気温が16〜17度と温かい。旧石器時代は今より7度内外寒いとされるので年平均10度内外と寒いが内陸部の気温に比べると温かさが数段違う。

黒潮の魚影は濃く、伊勢海老・カニなど甲殻類も磯近くに生息し、サザエ・アワビ・二枚貝・海藻・イカ・タコも豊富に採れたに違いない。
山菜や木の実も自生し山野には小動物の餌場になっていた筈で、最近2万8000年前ごろの土坑跡(落し穴)が発見されて動物の生息が裏付けされている。

もう一つ河津付近には、今井浜温泉・稲取温泉・熱川温泉の源泉がある。今でも源泉の温度は高いところで100℃内外の所もあり白い噴煙を上げている。
土器の無い時代は煮炊きは出来ないというのが定説であるが、私は温泉熱を利用して彼らは煮炊きしていたのではと考えている。

例えば、獣皮の袋か簡単な竹籠の中にエビや二枚貝を入れ温泉に投げ入れ、エビの色が変わったり貝が開いたら取り出せば良いからだ。土器は不要だ。
そして、葉っぱや貝の皿の上に料理を置いて食べていたと思えてならないのだ。
彼らは栽培せず原生するものを採取し、現存する大地自然を利用していた。

女達や子供達は間食として、山野に自生する小動物や小鳥の食する山菜や木の実を親兄弟からの伝承か自らの体験から熟知して採取し、食していた可能性もある。
アク抜きを要する山菜や木の実を食していた可能性は低いが、もしかすると炭酸泉の源泉を探し出していたならばアク抜きをして食していたかも知れない。
サザエの壺焼き、河津川の小魚の串刺し焼きも・・・etc

日本ザルが温泉に入浴することが知られている。河津町付近の源泉の温度は40℃〜100℃まで幅広く河津の旧石器人も自噴温泉に入浴していた可能性は高いと思われる。

私は当時の赤ちゃんのオムツを考えているのだが、今のところ良いアイディアが浮かばない。出産時の産湯は温泉の可能性も出て来た。入浴場は石を積み上げたりして簡単に作れる。いくら隙間から湯がこぼれ出ても構わない。なにせ天然のかけ流しの湯量は、それこそ無尽蔵だからである。

いずれにせよ、河津の旧石器人の食事は肉食一辺倒ではなく、縄文時代草創期程度の食事内容は摂っていたと推察され、生活程度も温泉の恩恵から思うほど不潔な生活では無かったのではと類推する。

考古学ばかりでなく理工系研究室に籠って研究していると、外部接触が少なくなり専門的分野に傾注することから近視眼的思考に陥り易く、他分野の指摘により新たな見方ができ壁を乗り越えることが多々あると聞く。土器が無くとも煮炊きはできるのである。丸木舟が無くとも渡海できるのである。

土器が無かった旧石器時代は粗末な石器でナウマンゾウやオオツノシカを採取し獣肉を食し、定住せず土器を作らず煮炊きは縄文時代から始まったと学生時代学んだものだ。煮炊きの無い時代と疑わないという説を頭に置くのも良いが、もう一方で現代の我々と知能指数が余り変わりないホモサピエンスの知恵や技能を見直し、より複眼的姿勢で考古することも必要だと思われる。

神津島の黒曜石は、旧石器時代研究に波紋を投げかけた。伊豆半島における旧石器時代遺跡発掘が今後活発になることを祈る。同時に神津島と伊豆半島東部一帯の市町村が日本最古とも言える旧石器時代遺跡発掘者達への応援とともに温泉・巨樹・山草・木の実・魚介類・筏・黒曜石・遺跡・神社と歴史探訪を融合させた、より深みのあるロマン溢れる観光の再構築が加速することを祈る。


【オムツを考える】
先に縄文人の赤ん坊のオムツはどうしたのであろうかと提言し、私なりの回答を出せず仕舞いになっていた。旧石器時代後期ごろまでは、きっと両親が着古し柔らかくなった毛皮を適当な大きさに裁断し綺麗に洗濯し、赤ん坊のオムツにしたのではと推量していた。
たぶん、布を編むか布を織ることが出来なかった時代は、毛皮以外の平らな布状物品は無かった筈であり、それ以外の回答を見付け出せ無いでいた。

ところが、縄文時代前期(約8000年前)の南九州の宮崎市の椎屋形(しいやがた)第二遺跡から布痕が見つかっているが、専門家の一部の人は、おそらく縄文時代早期あるいは草創期に布が編まれていた可能性は高いと指摘している。北海道恵庭市のカリンバ3遺跡で縄文時代後期末(約3千年前)の絹の可能性が極めて高い繊維の痕跡も見つかっており、これまでの定説を塗り替える新たな発見が相次いでいるからだ。

前期(約6000年前)には、福井県三方町の鳥浜(とりはま)貝塚、山形県高畠町の押出(おんだし)、青森市の三内丸山(さんないまるやま)等、と北日本の遺跡にまで広がって行く。そういった編物と木槌などが一緒に出土している遺跡もあり、これらは木槌で叩いて赤ん坊のデリケートな肌に対し布地を柔らかく馴染ませたのではないかと思わせるものである。

縄文人の平均寿命は30歳前後と見られ、女子は15歳前後で懐妊出産しなければ人口維持は不能とされ、つまり10代後半には子育てに入り、死ぬ直前の母親が孫の生育を見守るという図式を重ねて行く。そして子供を宿す10か月間、必死になって出産後の準備にとりかかる。オムツを筆頭に乳児服など母と娘が協力して手作りして行く。この間、重要なのは母親から娘へ祖先から引き継がれる文化の伝授、平たく言えば布の編み方・織り方、土器など生活用具の作り方など女子の主な仕事の完全マスターである。

この繰り返し使う布オムツ生活習慣は、昭和40年代ごろまで材質や形状の多少の変遷は見られるものの日本国において連綿と引き継がれて来たものである。後世、綿布の購入が出来るようになるまで、繊維の原料採取からサラシなどの中間処理、糸を紡いた後に編む・織るなどして布を作らねばならなかった縄文時代の女性達の逞しさには頭が下がる。

つまり、子供を宿す10か月間では準備が間に合わない。事前に糸を紡いでおかねばならない。この辺を取り計らったのが死ぬ直前の母親の役目だったに違いない。乳児の死亡率の高かった当時の子育てに対し母親は必死の覚悟を要した。編む・織るに情念を注ぎ必死に学び、出産までに入念に準備する。私は繊維の発案者は、子供のオムツを欲する強い母性愛だったと思えるのである。

旧石器時代の海の民の子孫の足跡を考える

約3万5000年前に神津島と伊豆半島間における渡航の事実を色々考察して来たが、その後の子孫の足跡を考えてみたい。日本が漢字を取り入れた以降の書物には全く記録には残されていない長期に亘る縄文時代のことではあるが、神津島の黒曜石は海の民の子孫の足跡を雄弁に語ってくれる。

縄文時代草創期には、長野県産の黒曜石と箱根産黒曜石が半々に遺跡から発掘され、神津島の黒曜石は微少にとどまっていたが、約2万2000年前ごろの神奈川県相模原市橋本遺跡から約30%が神津島の黒曜石が発掘されており、縄文前期後半から神津島の黒曜石は漸増して行き、縄文中期の伊豆大島の瀧ノ口遺跡から神津島の黒曜石が発掘されるなど伊豆大島への渡航が確認され、伊豆大島から房総半島あるいは三浦半島など相模湾横断も果たしていた可能性もある。その後縄文海進の北関東内陸部エリアに至るまで範囲を広めているなど、海の民の子孫の活躍を伝えている。

縄文社会全体が衰退期に入る縄文晩期になると遺跡数は減って行くが、この間、海の民の渡航術や地理的知識の発展や資力の蓄積に相俟って造船技術の発達や造船に関する専門集団の発生などが考えられるところであり、黒潮本流を乗り越えたはるか南に位置する八丈島と青ヶ島の存在も知り得る存在となり神話の中に八丈島と青ヶ島の名を残している。見目(みるめ)神社が残る地域は彼ら子孫の足跡と推察され、現在検索中である。

伊豆諸島は十の島だったことを神話は語っている。・・・三嶋大明神が作った順番は一番目の島は「はじめの島」(初島)、二番目の島は神が集まり詮議した島なので「神あつめ島」(神津島)、三番目は大きいので「大島」、四番目は潮の泡で焼き白いので「あたら島」(新島)、五番目は家が三つ並ぶ姿に似ているので「三宅島」、六番目は神の倉にするために「御倉島」(御蔵島)、七番目は遥か燠にあるので「おきの島」(八丈島)、八番目は「小島」、九番目は島の形が「王の鼻」に似ているので「おうこ島」(青ヶ島)、十番目の島は「としま」(利島)とある。

作った方法は、島の上に大に穴を掘り、さきのごとく龍神の海の底より大なる石どもを巻き上げて、水火の雷これを焼き給へば、石も焼かれて湯になり、地の底をむくりて汀(なぎさ)へさっと落ちければ、汀の石にも火付きて燃ゆれば、潮沸き返り、燠の波うちかけうちかけしければ、即ち岩となり、土となる。さるほどに本の島三分の二ばかり焼き出しぬとある。つまり、海上火山により島が次々に形成され10個の孤立した島々が連なり、神々の海上の道があったことを暗示した物語となっている。

島の出来た順番の信ぴょう性は敢えて問わないものの、新島と利島が独立した島としていることから、縄文海進以後の口伝が混ざり合い、漢字伝来以降に口伝を筆記したと思えるので、縄文時代・弥生時代・古墳時代の人々が伝承して行く中で私見や誤謬が混ざり合ったことは否定しえないものの、島々の名前からも伊豆諸島の島々の神話であることは間違い無い所である。

問題は、太平洋の黒瀬川と呼称される黒潮海流は、だいぶ後世の江戸時代の帆船でも、渡るには難所中の難所とされ遭難の多い場所である。伊豆半島から約270km離れた点のような青ヶ島への渡航は羅針盤も無い時代にどのように渡海し得たか疑問である。黒潮をどのように横切り、渡航距離があればあるほど操船誤差は許されなくなる訳で神津島への渡航とは雲泥の差と断言できる。いつごろ黒潮横断が可能になったか知りたいところである。

ただ言えることは、黒瀬川を遡って東方向からの横断や北から直角に横切ることは不能視されるところであり、西方向から例えば静岡清水方面の羽衣伝説を有する津(港)や紀伊半島南東部の津(港)から黒瀬川に東へ流されつつ斜めに時間をかけ横断し南の潮目の変わり目に出たら、ゆっくり東進してゆき三宅島などの煙や房総半島の島影などを目印に位置を確認しつつ方向を定め、目視圏内に青ヶ島を視認し着岸に漕ぎつけたのではと思われる。なお、八丈島には縄文時代以前の遺跡が残り、古くから亀卜の風習が残されている島であり、見目(みるめ)神の残影が残されているかも知れない。

神話の島造りのリーダーは三嶋大明神の臣下の見目(みるめ)とある。見目(みるめ)は龍神の化身(娘)とされ現在、三島市佐野に見目(みるめ)神社が存在し樹齢約550年のスダジイがあるが、かつては高台に建てられていたものの秀吉の小田原城攻めの折り戦火で焼失し現在の場所に遷宮されたと伝えられる。見目(みるめ)神は三嶋大明神の元遷宮先だった伊豆の白濱神社に今も見目(みるめ)弁財天として祀られている神である。その神が全国各地に祀られている事実を軽視してはならない。
(参照)→三宅記抜粋

名前が見目(みるめ)とあるからには、相当遠目が利いたと解したいが、半島から青ヶ島を肉眼で確認することは不能視される。話しは飛ぶが、伊豆は亀卜で古来から有名な地とされ、平安初期の『延喜式』「臨時祭式」には、「卜部は三国の卜術優長なる者を取る」として、「伊豆五人、壱岐五人、対馬十人」をあげている。占事の優長(優秀)な者として三国の卜部が、いかに重用せられていたかが知られよう。
注目に値するのは、三国と表現されているが、いずれも本州から離れた島々であり海人と称される人々が選ばれている点である。もう一つ着目すべきは平安期の書物であり、当時は何よりも位を重視し筆頭に位の高い順に記したと推察される。私は亀卜の文化は伊豆→壱岐→対馬の順に伝播したと見ている。

古代における卜部は祭りの最重要な位置とされ、それらの卜術優長な者として伊豆・壱岐・対馬の海人が選ばれていたということは、背景に優れた渡航術を有し諸外国との通商を介し、歴史知識と地理的知識に優れ、諸外国の最新情報の把握に優れ、気象自然現象分析に優れ、独自の暦と季節ごとの時系列的事象変化と前兆を把握し得た海人の先進的文化が重用されたとみられ、その祖を見目(みるめ)神ではと私は考えている。国と呼ばれるには、それ相応の国力(渡海力)と独自の文化を有していたと考えられ、伊豆・壱岐・対馬は互いの渡航を通して、かなり緊密な文化交流があったことを延喜式や神話は暗示しているのかも知れない。そして、天皇の崇拝する神々と系統の異なる龍神の化身の見目(みるめ)神は延喜式神名帳において位が上がらず歴史の表舞台から外され知名度は低いが、全国広範囲に亘り祀られている神でもある。

三嶋神社の歴史と伊豆半島

神津島の黒曜石は3万5000年前の旧石器人が渡海技術を有していたことを私達に伝えてくれた。
この渡海技術は縄文時代・弥生時代・古墳時代へと連綿と伝承され進化して行き、奈良平安時代には、南伊豆や伊豆諸島は東西・南北の交通の要衝で津(港)のある場所として古くから都人(みやこびと)に認識されていた。
地理的条件に相俟って、永年の渡海技術と知識の蓄積があればこその成り立ちと言えよう。

当時は文字が無かった。何万年も口伝により祖先の事が語られ続け、やがて祖先が神に昇格し海上交通にかかわる氏族の守護神として崇拝されて行く。
天皇の御世に他国から唐突に渡って来た神では無く、そんな浅い歴史では無く何万年もの日本太平洋沿岸の歴史背景があると考える方が自然である。
天皇の御世に、国家的要請により海上交通の要衝だった伊豆から和多志(わたし=渡し)大神(おおかみ)を崇拝する海の民の子孫代表が召請され大陸航海の任務に就いたと理解したい。

静岡大学教授の原秀三郎氏も【三島木綿も三島神とともに朝鮮半島に渡る】に、三嶋神は、伊豆国から海を越えて朝鮮半島に渡り、大任を終えて再び戻ってきた時の話が伝承化され『伊予国風土記』逸文につながり、また、『韓風の神招ぎをしよう』という<からをぎ>につながるものと考えられる。これならば、奈良・平安京の宮中神楽<からをぎ>では、何故にわざわざ遠く伊豆国の三島木綿(みしまゆふ)を使かわなければならなかったのかよく判る。と記している。

『伊予国風土記』に御島(みしま)に坐す神の御名は大山積神、一名(またのな)は和多志(わたし)大神なり。
とある。
神津島と海の道のページを綴って来た私にとって、御島(みしま)とは神々が集う神津島をはじめとする伊豆諸島と伊豆半島南東部を指し、和多志(わたし)大神とは渡しの大神を指し、具体的には3万5000年前から渡海して黒曜石を運んだ旧石器人の先駆的祖先の崇拝神、海の神として和多志大神の御名がピタリと符合する。

三嶋大社の由緒が三宅島→下田白浜→伊豆国田京→三島へと遷宮された軌跡とも純粋に符合する。
多くの現代人は伊豆諸島は伊豆半島の南東の小さな島々で農耕地も狭く過疎の村と認識している筈だが、古代において広大な海を支配する海人の基地(津・港)だった訳で、農業中心の経済に変わっても土地に拘泥する必要は無く、出雲の国の国譲り神話につながり、出雲大社と三嶋大社は神位と海運権の獲得に成功している。
戦を忌み嫌い、多くの人々に福を与えて来たのである。

御祭神は大山祇命[おおやまつみのみこと]、積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。(三嶋大社HPより抜粋)

大山積神と大山祇命は発音は同じで同神と理解され、山林農産の守護神とありますが、本来海の神(渡しの神)でもありましたが農業主体の変遷に応じて事代主神に海事を継承せしめたものと思われる。
大山積神は山積み出来る神であり、積羽八重事代主神は積荷を早く運べる神と解され、ともに海の神である。

これまで伊豆半島の歴史は軽視され、津の国は摂津の国と誤訳され、御島は伊予三島と誤訳され、三嶋神は韓国の神などとする見方がされて来ましたが、三嶋神の由緒は太古の歴史に遡る。
神津島の黒曜石は旧石器時代を読み解く端緒になったばかりではなく、魏志倭人伝、風土記、古事記、日本書紀など机上学問解釈による定説をも覆す転機と考えられる。

これまで謎とされて来た三宅島をはじめとする伊豆諸島に残された古代から中世にかけて150枚以上の和鏡も朝廷と和多志(わたし)大神との急接近の証しと理解され、けっして地方の鏡信仰では無く、古代において既に海上交易・海外交渉の重要な役割を担っていたことを示す残影と理解したい。

神楽舞には三島木綿(みしまゆふ)
三嶋大社(みしまたいしゃ)本殿
三宅島・利島の和鏡
三島市佐野の見目(みるめ)神社

何時頃から伊豆半島南東部に旧石器人が住みつくようになったか見当がつかないが、3万5000年前には活動していたことが間接的に証明された。伊豆大島の噴火が3万年前からとされるので、少なくとも彼らの子孫は島が誕生するのを目撃している。神話の中で島が生まれる順番が伝承されているということは、殆どの伊豆諸島は火山が終息している筈だから相当前から祖先が住んでいた可能性もある。しかし
利島と神津島などが別々の島としていることから縄文海進以降の口伝伝承が混ざり合っていることも垣間見られ、神話とは口伝ゆえに縄文・弥生・古墳時代の事象が混濁して伝わっていることが理解できる。
そして大分後世になってから由緒が文章化され仏教色が行間に垣間見られるようになり、旧石器時代・縄文時代・古墳時代・飛鳥時代と連綿と続いて来た本来の口伝・伝承は、朝廷の国生み神話以前と見られる伝承は有り得ぬことと歴史書に記されず闇の中に葬り去られて行った。

さて、黒曜石が広範囲に本土で発掘されるということは、海彦側と山彦側相互に何らかのコミュニケーションが必要だと思われる。3万年前以前に渡航技能を有していたとは誰でも考えた人はいなかった筈である。そんなことを記している歴史書にも接したことも無い。兄弟間だったら話は通ずるかも知れないが、日本のあちこちから神津島の黒曜石が出て来るとなると、相当言語形態が確立していなければ物資の遣り取りなど成立する筈がないと私は思う。旧石器人は北京原人やジャワ原人ではないのだ。

私が今回考えた原初的渡海方法として葦船ないしは浮き袋筏を提示したが、丸木舟ないしは伝馬船に近い舟だったかも知れないものの余りにも旧石器時代の遺物が少なく少し控えめに提案したものである。
いずれにせよ、原初的渡航技術と原初的交易を持つ旧石器人は、他言語を跳ね返す位の言語の確立が国土に広域的に定着していた可能性も高い。
渡航技術も100年〜1000年単位で進んで行き、帆や梶の考案や巨樹を利用した長距離航行可能段階となれば、かなり以前より朝鮮半島、カムチャッカ半島、中国大陸、フィリピン、インドネシア方面などへの渡航していたことも考えられ、他言語学習にともない交易などを通して情報交流していた可能性もある。「電流は電圧の高い方から低い方に流れる」の如く文明も同様に低い方に流れて行く。

ギリシャに日本神話に酷似した神話が存在するとされるが、ひょっとすると日本神話が通商相手を介してギリシャに伝わったとする考え方もあり得る。なぜならギリシャ文明はずっと後世に出現するからだ。
ただ、ギリシャは日本に存在しない文字という文化を持ち、後々の人々に歴史を伝えられた違いがある。
新羅・百済・高句麗は日本に進出していないが、日本は朝鮮半島に任那を作っている。背景に海運力が無ければ出来ない話である。百済との歩調が合わず敗戦につながった白村港の海戦も、4万人を超える兵力を運ぶ船数が日本になければ、朝廷も参戦しようとの決断もできなかった筈である。
国内においては相模湾、房総半島、伊勢湾、瀬戸内海、九州、山陰などへ和多志(わたし)大神を崇拝する海の民の子孫が勢力を広げて行き、地方の豪族としての地歩を固めていったと推察される。

中国に隋・唐などの新興帝国などへの警戒が軋轢となってくる時代に突入すると、日本の朝廷は外交交渉が喫緊の課題となり、必然的に海運力を有する地方豪族の協力が必要不可欠のものとされ、地方海運豪族が崇拝する和多志(わたし)大神と朝廷との急接近の流れに繋がって行く。
記紀には欠落しているが、宮中神楽<からをぎ>に残されている。その中に「三島木綿(みしまゆふ)」が唄われ、爾来、伊豆国三嶋において古代より三島木綿が織られ、宮廷をはじめ全国の神社へ奉納されている。機が織られた地名も残る。現在の八反畑(はったばた)は元々三島木綿が織られた場所と伝承され機端(はったばた=機を織る場所)が転訛して八反畑(はったばた)になったと伝えられる。けっして韓国からの輸入ではないのだ。外交の大任を終え帰ってきた三嶋神を讃え宮中神楽の衣装は韓風にしようと唄い、三島木綿(みしまゆふ)を舞の正装としようと唄い続けられて来たもので大山積神またの名は和多志(わたし)大神は朝鮮半島からの渡来神では無く、悠久の歴史を刻んできた日本の海の民が崇拝する和国の神である。そうでなければ外国への渡海命令に対し海の民(豪族)は断じて動かない。

静岡県三島市は箱根西麓に旧石器時代から縄文時代まで数多くの遺跡を有し、文化的に三島木綿(みしまゆふ)の他にも全国的に知られるものとして三嶋暦(みしまごよみ)や三嶋菅笠(みしますげがさ)など数多くの独自の文化民芸を有している。軽々に新町名に変えるべき地域ではないと私は思う。
さらに三島風穴(みしまふうけつ)など富士山の三島溶岩流(みしまようがんりゅう)からできた1万4000年前からの歴史を読み取れる可能性の高い自然遺産(鍾乳石)を埋没してしまう愚を犯してはならない。
→→三島風穴

更に平安中後期を顧みれば、三島への遷宮により三嶋大明神と朝廷勅使の万巻上人が里宮を築いた箱根権現の地理的急接近により山岳宗教・修験道+宮廷神道との接触による異文化の融合を生み、古い地方文化と新しい朝廷文化との日本文化独特の重層的文化を生む土壌を醸し出し、両エリアを結ぶ推定平安鎌倉古道と称せられる修験の道を通して密接な情報ルートが築かれて行き、これに加えて箱根の東側の伊豆山神社が台頭するなど神仏混淆が急速に発展して行く。
このような状況下、熱田神宮宮司の娘を母とし宗教界と公家社会を熟知するする源頼朝が三嶋大社で旗揚げし、箱根神社・伊豆山神社を参拝し武士社会の石杖を築いて行く訳であるが、ともすれば信仰心にのみ目が奪われ勝ちだが、極めて政治的配慮と周到な目配りがあったことも忘れてはならない。
→→三島大社の神池の水源

神津島の黒曜石は、東北の三大丸山遺跡より遥かに遡る旧石器時代に高度文化を有する海の民が居たことを示し歴史の常識を覆すチャンスを与えてくれた。これまで、島国の日本に外から文明が入って来たという先入観に囚われた史観から脱却し、我々の祖先は3万5000年前から、かなり高度な言語と石器や土器が無くとも渡海可能な高度の技術を有していたことを踏まえ再出発しなければならない。
神話も大和地方が文化の先進地区という先入観念から、伊豆の国生み神話は大和地方の模倣とされて来たが、どっこい飛鳥時代より3万年以上前に伊豆の辺鄙な地域に海洋文化が芽生えていたのだ。
縄文時代の舟を考える
日本に世界最古の航海術が存在した。人・稲のDNAと言語体系から考える。

日本と大陸・半島との航海の歴史と交易の変遷


戦後生まれの日本人は、進んだ文化や技術は大陸・半島から輸入され、日本文化の基盤が構築されたものと思い込み、航海術も南方から西方から移入され、稲も朝鮮半島から持ち込まれ、中国人や朝鮮人が日本国に逃げ込んで来たなどの通説・定説を疑うことなく信じて来た。

日本列島は周囲を海に囲まれ、これが自然の擁壁となり外からの異民族の侵入を許さず、黒潮や対馬海流の影響で気候も良好で針葉樹林・落葉樹林・照葉樹林からの恵みによって3万年以上の長きに亘り戦争の無い歴史を刻んで来た世界に類例のない国なのである。

近年、急速に発展した黒曜石分析により、間接的にせよ日本の島々より産出される黒曜石が本州や琉球・朝鮮・ロシアへ海を渡っていたことが確認され、産地の特定される翡翠・琥珀・丹生・アスファルトなども広範に亘る列島の遺跡から発掘されていることが知られるようになった。

時代は下がるが中国の「魏志倭人伝」その他の書に大陸沿岸や半島南部に倭人が古来より姿を見せていたことを記されている。倭が書物に載った最古のものとしてBC600年頃とされているが、それよりも、かなり前から倭人の海外交易が続けられていたことは、日本の黒曜石が中国大陸や朝鮮半島から出土されていることからも可能性は非常に高いと思われる。

考えてみれば、大陸や半島の大部分の住人は、小舟で海を渡り何が起こるか全く分らない島に命がけで渡ることに対し非常に恐怖を抱いたに違いなく、せいぜい内湾や河川用小舟の段階にとどまり、荷物の移送は河川や陸上の道に頼った流通網の構築に目が向いていたものと推察される。

縄文時代の丸木舟は、かなりの数を遺跡から発掘されている。しかし、旧石器時代の丸木舟は一艘も発掘されていない。著者は上記に獣皮袋製の筏を原初的渡航の道具として提案したが、その後日本の海神族の後裔は、全国に湊や邑(村)を広げつつ色々試行錯誤を重ねたものと考えている。

記紀に何かヒントは無いかと渡海に関する項目を網羅してみた。スサノウが土舟に乗って東征したという。土舟(埴輪舟)とは何かを改めて考えてみた。当時の人々は大地から採取された粘土状の物体を全て土と理解していたと思う。日本書紀の「天智天皇に燃える土(アスファルト)と燃える水(石油)を献上した」という記述がある。燃土と燃水に人々は驚愕したが、土舟とは単に泥で作った壊れ易い泥船では無く、当時各地に自生する箱根笹で作った緻密に編み上げた籠を浮き袋の上に装填し、籠面全体に自然アスファルトを塗布した防水筏(土舟)だった可能性もある。

海幸彦・山幸彦の物語に、「无間勝間(まなしかたま)の小船」というのが出て来る。无間勝間とは「編んだ竹と竹との間の堅くしまって,目のなきをいう」という事になっている。竹は後世に中国からもたらされたものとされていたが縄文時代の遺跡から竹ひごの編み物が出土が確認され、これまでの定説が覆り始めている。

无間勝間(まなしかたま)の舟は竹籠船のような小舟を示唆しているのではないか。編み目を塗りつぶしたとしたら,アスファルト塗り・漆塗りなどが候補として上げられる。縄文時代の遺跡から漆塗りの籠が発掘されて単に装飾品とされているが、中には舟材の一部の可能性もあり、今後考古精査が望まれるところである。

海の神エビス様が米俵三俵の上に跨り、鯛を抱えて釣竿を持ち海上から現れる古い絵が広く知られているが、著者とすれば浮袋を詰めた双胴船がイメージされてならない。ついでに瓢箪は後世に移入されたとするが、獣の浮き袋から後世瓢箪を浮袋としたことを暗示しているかも知れない。
いうまでもなく、大型の丸木舟による航海も否定できる存在では無いが、縄文中期以前は製造できる道具が無く航海操縦の安定性など鑑みるに、丸木舟は内湾や河川にて多用されていたと見たい。

古代の日本人は、天と海を同音のアマと語っていた。ソラとウミとを判別できなかったとは極論する気は全くないが、朝日は東の海の果てに在る谷底から毎朝新たに生まれ毎日登り、夕日は山の向うに沈んで消えて行くと考えていた嫌いがある。海については海の底・海の中・海の浅の三種類が記され、龍宮城は海の底にあるとされているが、言わずもがな人間は海の底では確実に死んでしまう。現代人は海の底と見れば素直に海の垂直位置と理解し、専門家も同様の解説をしている。

著者は垂直位置をとらず、あくまで海上の平面位置と理解したい。つまり浅い海とは近い津、中の海とは中間地にある津、海底とは太陽が生まれる海の谷に近い遠くにある津を表現していると考えるのだ。例えば九州の日向を出港地と仮定すれば浅い海は歴史の浅い近隣の湊を指し、中の海とは伊勢湾辺りの湊で中位の歴史を有すエリアを指し、海の底とは遠く離れた湊を指し初原的航海が始まった伊豆半島東南部の湊を海神の宮としていたのでは無いかと考えが纏まり始めている。

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ここからは著者の仮定の話となるが、天孫族が日本に着岸した時、日本の海神文化の早熟さと文化財政力に驚いたと想像している。海神族の技術力・機動力・財力・連携力などに一目を置かざるを得なかった。航海を生業とする海神族は農業の基盤とする土地に拘泥する必要は無かった。一方、天孫族は新たな稲作文化を持ち大掛かりな灌漑施設技術を生かし得る広い農耕地を求めていた。

違った価値観を有し求めるものが相違するも、ともに太陽神を崇拝する二つの民族が急接近しはじめる。海神を崇拝する海人の子孫の娘達と天孫族の王子が結び付き、その子や孫やひ孫と次第に天孫族の王子の血に海神族の血が濃くなって行き、海神族の長は天皇の外祖父として地位を築いて行き、天孫族の強く望む各地の土地獲得に海神族は積極的に協力し大和政権の底支えを担って行く。

著者は国粋主義者とは全く無縁な者であるが、近年解き明かされつつある日本人のDNA鑑定分析により血統の多様性を含みつつも、旧石器時代から連綿と引き継がれる日本人独自の血統が厳然と引き継がれているという分析結果に何故か安堵の情を覚える者である。それは他国民族の制服による大和政権の成立という、戦後の自虐的定説により我が国に連綿と続く旧石器人・縄文人と弥生人との差別に対する嫌悪感を一掃する快事と感じている。

稲のDNA鑑定においても、旧来の朝鮮半島からの移入の定説は覆され、長江南岸からの直接輸入が証明されつつある。逆に最近では、日本から朝鮮への輸出説が浮上しつつある。
真偽は別にして、古代よりの海神族の存在や文化貢献度を軽視することは考古学的に許せなくなった新局面を迎えつつあることは否めぬ事実である。


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