三島里山倶楽部

TOPへ
間近なイベント
清掃プロジェクト
竹林整備
小沢川下流
里山の生物
ボランティア
三島風穴
三島・富士山
三島の滝
三島七石
三島八小路
搗屋のみち
昔の鎧坂
カワセミ
間眠神社
浅間・芝岡神社
源頼朝マップ
函南マップ
ハザードマップ
駐車場マップ
編集室
資料館だより
検索順位
外部リンク
わきみず
壱町田の神
愛染院跡
「知っ得」情報
神津島と海の道
縄文時代の舟を考える
三嶋大社・神池の水源
巨樹・名木
万巻上人が愛した函南桑原
巨樹のある神社・仏閣
菰池公園と鴨の親子
三島七石の目次
鬼石
笠置石
たたり石
蛙石
耳石
市子石
蛇石
鬼石の地図
笠置石地図
たたり石地図
蛙石の地図
耳石の地図
市子石の地図
蛇石の地図
三島七石
Seven rocks in Mishima

三島七石Google Maps→目印アイコンをクリックして選択し拡大したり移動したり周囲の様子を確認ください。

より大きな地図で 三島七石 を表示
鬼石(おにいし) 下の地図をクリックしますとGoogle mapが開きます

三島七石の一つ鬼石は他の石と違って三島市街から外れた場所に在る。しかも群を抜いて他の石よりでかい。(川側の道路脇にある看板が目印となります)
山田の道を大分歩かなければならず、三島の人でも見たことが無い人が多い筈です。
途中に、昔の三嶋大社(みしまたいしゃ)の神官が水行祓いした「瀧川神社の滝」がありますので立ち寄ることをお奨めします。道中、鄙びた石垣や石仏が観察され田舎の風情が感じられます。

山田の道を北上し、東駿河環状線ガードの下をくぐると山田川の支流の小沢川の橋にさしかかります。その橋の手前を右に折れ、少し下った山田川の西岸の川面に顔面を突っ込むように鎮座しています。道らしき道はありませんので川に落ちないよう注意が必要です。写真のように下の方に突き出た口が裂け、前方を睨み付けるような顔に見えるのは私だけでしょうか?後方が背中のようにも見えます。

鬼石から東へ約300mの所に山田川自然の里があります。この渓谷をずっと奥まで歩きますと異次元の里山の原風景と感じられます。小沢川沿いの小道も感じの良い里道で汚したくないものです。街場の人は里山の原風景を好み、田舎者は近代的人工物を好む。山田川の奥は渓谷が続き、途中「観音の滝」がありますが、散策ルートは未整備ですので、散歩としてはハード過ぎ本格的装備の上、ベテラン案内人の同行が必要と思われます。

近くの見どころ
→→→馬渡橋(うまわたしはし)の湧水群
→→→山田川自然の里の湧水群
→→→小沢湧水(こざわゆうすい)
→→→滝川神社(たきがわじんじゃ)の滝


笠置石(かさおきいし) 下の地図をクリックするとGoogle mapが開きます

三嶋大社から東へ約800mの宝鏡院内に置かれている。源頼朝が笠を置いた石と伝えられる。同寺の立地条件として大場川の東岸にあり、三島宿の東見付の外であることに注意を要する。

三嶋大社の神域・三島宿に入る前に、境界とされる東見付の門外に立地する宝鏡院において参拝詣での際には、ここで下馬し笠を置き、旅の埃を落とし禊ぎして参拝に向かうのが、当時の武士の三嶋大社の神域への礼節とされていたのかも知れない。
新町橋の東側の宝鏡院には、三島七石には含まれていないが、その山門に行く道の入り口に、左右一対の石があり、神社参詣のひとがここで馬から降りたとか、源頼朝が鞍を置いたなどと伝えられる鞍掛け石がある。

同院には足利二代将軍義詮の墓と、茶々丸(北条早雲)に殺された伊豆堀越公方・足利政知の墓があることで知られる。

近くの見どころとしては、新町橋からの富士山、新町橋の西端から南に向かう大場川沿いの路地を少し行くと石地蔵が建つ。無縁法界地蔵尊という地蔵尊がある。三島宿の北西のはずれにあった小浜山の刑場で、重罪にて斬罪となったものの首を、見せしめのために新町橋際にある獄門台にのせてさらしたという場所から南へ少し移動された支道脇に祀られている。


たたり石(たたりいし) 下の地図をクリックしますとGoogle mapが開きます
↓たたり石が本来置かれていた交差点 ↓たたり(絡[土朶])は本来糸のもつれを防ぐ道具

三嶋大社の入り口の石の鳥居を抜けると右手直ぐに置かれているたたり石
【三嶋大社の立札】
元々この石は大社前旧東海道の中央にあり、行き交う人の流れを整理する役目を果たしていた。たたりは本来糸のもつれを防ぐ具であり整理を意味する語である
右上掲のイラストのように三本の支柱に糸を巻きつけ糸を整える道具を「たたり」と呼んでいたもので、旧東海道と旧下田街道の三叉路交差点の中央に置かれ交通整理に使われていた石を「たたり石」と呼んでいました。

のちに往来頻繁になりこれを取り除こうとする度に災いがあったと言われたたりが崇りに
置き換えて考えられる様になっと言われている
大正三年内務省の道路工事によって掘出され神社に於て此処に据えられました。
今日では交通安全の霊石として祀られています。

三叉路
蛙石(かえるいし) 下の地図をクリックするとGoogle mapが開きます

蛙石は楊原神社鳥居を入って右前方に置かれている。立札があるので、そちらの方に歩いて行くと同じくらいの大きさの石が置かれている。どちらが蛙石なのか迷うくらい蛙の姿に見えません。立札を見ると鳥居の位置から見ると蛙の後ろ姿に見えるとある。
鳥居に戻って眺めると石が霞んで見えない。そうだ近眼で乱視だったんだー。残念・・・・・・

けれど、遠くから見ると蛙の後ろ姿に見えるとは、近くで見るものでは無いというユーモアが感じられる微妙な表現ではある。

楊原神社に向かって左手に樹齢400年のケヤキの大木が立
っていた。三島に古い樹木が良く似合う。大切に残したいも
のである。蛙石見に来て良かった・・・・・・


耳石(みみいし) 下の地図をクリックしますとGoogle mapが開きます

旧佐野街道沿い幸原の耳石神社の境内に耳石が置かれています。
耳石神社の神殿前の左右に耳石がそれぞれ置かれています。

右手(東側)には、穴の開けられた手のひら大の楕円の石が沢山ぶら下がる棚があります。耳石を拝むと耳が治るとの言い伝えがあり、回復祈願のご利益があった人々が、お礼参りする際、小石に穴を開けて棚にぶら下げて帰るのが習わしとして残る物です。

大きく枝を横に広げるスダジイの大樹は見ごたえがあります。

さて、『日本書紀』における天地開闢(てんちかいびゃく)は渾沌(こんとん)が陰陽(いんよう)に分離して天地と成ったという古代の世界観が語られている。太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神々が生まれるのである。

天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが三つの神となる。
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)

これらの神々には性別がなかった。太古の昔は奈良時代初頭に芽生える山岳宗教と似て、日本では山や岩、大地や河川などの自然そのものを崇拝し神とした永い歴史があったことがうかがえる。

国狭槌尊(くにさつちのみこと)は、主に『日本書紀』の天地開闢の段に登場する神である。別名国狭立尊(くにのさたちのみこと)。神代七代のうちの一柱である。
神名「サツチ」の「サ」は神稲、「ツチ」は土、即ち神稲を植える土の意か

耳石神社の祭神は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)。農業の支え大地の神である。昔から耳の病を治す霊験(れいけん)あらたかな神社として伝えられている。この神社も天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めで焼失し、社の由緒など知ることができません。再建は元和元年(1615)。


市子石(いちこいし) 下の地図をクリックするとGoogle mapが開きます

三嶋宿の外れ三島広小路付近にある国分寺の参道だった阿闍梨小路(あじゃりこうじ)南側に蓮沼川が流れていますが、その暗渠の上の東側三角地に市子石は置かれている。

市子とは 神霊・生き霊(りょう)・死霊(しりょう)を呪文を唱えて招き寄せ、その意中を語ることを業とする女性。梓巫(あずさみこ)・巫女(みこ)・口寄(くちよせ)とも呼ばれます。
この石に霊験を感じ手で撫でて霊を招き寄せて、霊の意中を語り占いを生業にしていた三嶋宿阿闍梨小路付近に生活していたのだろうか?
市子石を触ると蝋燭のようにつるんとした感触だった。

この阿闍梨小路に現存する市子石に関し、関西方面あるいは関東方面からの流れ巫女の下げ降ろされた残影と見る向きも有りながら、一方で箱根派修験比丘尼の存在を指摘する少数意見もある。当該市子石に関しては古資料が逸脱して明言できないものの、お産という重大な家々にとって、子孫繁栄・無事安産は何よりも望むところ、先祖を口寄せしてもらい市子の霊験に仰ぐしか方途の無い俗世への市子の生業の成立を主張する向きもある。

現在でも、医者から癌告知された場合、真っ先に祖先の墓へ行き父母の加護を求め祈る人が多くいる。祖先の声に耳を澄ます。生老病死・愛別離苦などを背負う人生を歩む庶民にとって祖先の声を語り伝える市子(巫女)に頼る心情は痛いほど分る。

市子石をもう一度見てみよう。手前の中央にでっぱりが見て取れる。このでっぱりが臍の緒で親石と繋がっているのだ。祖先の御霊を市子石が引き寄せ市子が祖霊の声を語る。病院も無い薬も無い時代、神仏に頼るしか無かった時代に市子の霊力が頼りとなったのである。いくばくかの銭を貰って市子石の傍に座って祖霊の言霊を語っていたのである。

三島七石の中で一番小さい石の市子石、巫女五〜六人で持ち運べる大きさだ。商家・庄屋など中流以上の隠居に口寄せを頼まれた場合、市子石を大勢の市子達が家々に運び込みご先祖様の言霊を大勢の異形の巫女達を後ろにして慇懃無礼に隠居に語り祖先降ろしの儀式に昇華せしめる。お礼として市子全員、少女付き人まで礼銭が配られる。人の集まる旧東海道と阿闍梨小路の三叉路付近に普段置かれていることが多かったということだけで、もともと市子石の厳密な定位置は無かったと見るのが自然である。

三島広小路周辺の道路の変遷の激しさ「市子石」の移動は一度や二度では無かったと類推できる。三島広小路駅周辺は、三島バイパスが完成・開通するまでの国道1号(当時「一級国道1号」、1952年に指定)であった。年代によっては、軌道線が通る旧道を「電車道」、迂回路として作られた道を「新国道」と呼ぶ者もある(ちなみに、新道・旧道を迂回する形で作られた三島バイパスは、1962年に完成)。以後、新道は、市道(三島市道川原ヶ谷八幡線)等に格下げとなる。

既に明治39年に「三島・沼津間の路面電車(チンチン電車)」を開通させた駿豆電気鉄道が開通され1963 昭和38年三島・沼津間の路面電車(ちんちん電車)廃止されるまで走っていた。この間、「市子石」は常にジャマな存在だった。阿闍梨小路の入り口の旧東海道路側帯南側に置かれていたと伝承される「市子石」は近代化の推進者にとって障害物の何物でもなかった。ただ、三島七石という由緒により廃棄は、さすが免れている。

まず路面電車の軌道確保のための道路幅拡張工事、建物新設時のセットバックなど道路事情の変遷に伴い「市子石」は工事業者預かり、市役所関係当局預かりとなり、都度移動を余儀なくされたと見るのが自然である。
ユニー(現在敷地内は15階マンション+キミサワ広小路店)の店舗前にあったとされるが、それも元の位置から移動されている可能性は高い筈だ。

市役所建設部をはじめとする関係者は「市子石」の安住設置場所を考えた。その条件としては@阿闍梨小路の路線内にあること A民間の動がし難い河川上にあることB通行に邪魔にならない場所などを条件に現在の場所に移動させられた経緯が考えられる。


現在姿を消して見られませんが三島七石が揃った年代を特定する重要な石です。
蛇石(へびいし) 下の地図をクリックしますとGoogle mapが開きます
蛇石は確認されませんでしたが、樹齢約250年のムクの巨木を撮影出来ました。
三島市の保存木となっています。
やっぱり蛇石が無いと分っていても、ここまで足を運んで良かったと思いました。
この近くには北側に清水町に水を送った千貫樋があり、南側には境川・清住緑地あり、水の苑緑地と併せれば見どころは多い所です。

三嶋宿の旧東海道の西端・境川の東(加屋町)に祀られている火伏の神様・秋葉神社にあったという蛇石、残念ながら唯一行方の分からなくなった石です。秋葉神社は魔除の神様でもあり蛇石がカラス天狗に恐れをなし退散してしまったのかも知れません。




「三島七石」は民間伝承であり、多くの三島民衆が語り伝えて来たものであり、平安・鎌倉・室町・江戸時代など
様々な石の名前が混濁融合し口伝として七つの石に収束されて来たもので、むしろ年月日が記されている古文が
あるとすると、それは眉唾物とされるに違いない。
ただし、七つの石が選択確定された時期は概ね推定できる今は姿の亡くなった「蛇石」の存在が光ってく
。蛇石は三嶋宿の西境に火伏の神として勧請された秋葉(あきは)神社に在ったものと伝承されている。

三島市に秋葉神社を祀るようになったのは、慶安元年(1648)から宝歴2年(1752)の間に、町が数度の大火に見
舞われたからである。三島は、冬になると季節風が強く吹き寄せるため、この時期に火災が起こると、いつも大火
災となってしまった。そこで、三島の一番西の村(現在、清水町との境の加屋町)に、火防(ひぶせ)の神として信仰
を集めている遠州の秋葉山本宮、秋葉神社の御分霊を祀る神社を創建したと伝えられている。

つまり、秋葉(あきは)神社は宝歴2年(1752)以降の創建となり、蛇石が取り入れられ三島七石が揃うのは江戸
時代ということになる。一番古くから存在したのは人力により動かし難い山田川沿いの「鬼石」だったに違いない。
推定平安鎌倉古道(修験道の古道)が開かれ山田村の古道も繋がり、「鬼石」の名が村民に古くから知られて行


三島の北東の「鬼石」、三島の東外れの「笠置石」、北の外れの「耳石」、西の外れの「蛇石」、中心地に「蛙
石」、大社の「たたり石」、国分寺の阿闍梨小路に「市子石」を配し、宿場町にバランス良く三島七石を配置し、自
然石を置くだけだから元手がかからず、しかも三島七石などを憶えておけば箱根の関所も通してくれるとのオマ
ケもまことしやかに喧伝し、わざと七つに石を絞り込み「一度は見ておきたい」と興味を抱かせる手法は現代でも
通用する高等テクニックである。三島七石は初期投資の全くかからない立派なモニュメントなのだ。

わざわざ全国的著名な頼朝公と北条政子の「腰掛石」を外すところが憎らしい。腰掛石を入れないところが昔の
民の粋なところで、庶民感覚として三島七石の存在が光ってくる。『おらぁ地元に古くからある市子石、蛙石、蛇
石の方が馴染みがあって自慢なんだぁ、なんでもねぇ石が気に入って何がわるいんだぁ、あんたぁ本当に無粋な
人だねえ』と声が聞こえそうである。自慢できる物の何も無い幼少期から育った父母の家の近くにある名前の付い
た石こそ、木こそ、道こそ、水こそ、景色こそが、その人の心底から唯一自慢の種だったに違いなく、大切に伝承
されて行く。

加えて三島八小路三島七木三島七原三島八景などで旅人の耳目を惹きつけ、三嶋暦、三嶋菅笠、三島
など三島オリジナルの地域独占土産物も用意するなど現在の商工会議所青年部が先人の知恵に学んで貰い
たいところである。三島女郎衆は三島の湧水で清められ、三嶋大社が歴史文化全体を引き締めて来たのであ
る。
そして旅人が必ず三島で買って帰る多くの土産物は農閑期の手内職として農家の副収入として貢献したのであ
る。
「三島七石」は単に見物対象としてもよく、歴史の奥行を読み取ってもよい庶民の石なのである。


・・・・・・・・・・・・・・以下の石は三島七石ではありませんが著名な石ですので+αとして掲載しました・・・・・・・・・・

腰掛石(こしかけいし)・・・「三島七石」に含まれていませんが参考までに掲載しておきます。

腰掛石は総門を通り過ぎ、神門右手前の紳馬建物南に置かれている。
【三嶋大社の立札】
源頼朝・北條政子の腰掛石
知承四年五月源頼朝が平家追討の心願を込めて百日の日参した折腰を掛けて休息したと伝えられる。
右側は北條政子が腰掛けた石である。


南見付(みなみみつけ)の橋石(はしいし)・・・「三島七石」に含まれていませんが参考までに掲載しておきます。
三島宿の東西南北には見付(みつけ)と呼ばれる門番が置かれていました。
南見付(みなみみつけ)は、旧下田街道を南にくだり、言い成り地蔵尊近くに設けられ、その近くの桜川に右の写真の平たく細長い(幅60cm×長さ2m)の橋石(はしいし)が架けられていました。

現在、言い成り地蔵尊の御堂前右手に置かれています。言い成り地蔵尊の由緒書の裏側に橋石に関する由緒が次のように記されています。

「この橋は元和(げんな)8年(1622)徳川二代将軍秀忠の時代に町役人鈴木権衛門が南見付(現在地の当時の呼称)、桜川の橋石として使用したものです。その後文政5年(1822)十一代将軍家斉(いえなり)の時代に見付橋の架けかえが行われ、昭和年代まで存続していました」

大興寺(だいこうじ)の西の塔心礎(とうしんそ)・・・「三島七石」に含まれていませんが参考までに掲載しておきます。
白鳳時代(はくほうじだい)に建てられた薬師寺式伽藍配置を持った大きなお寺だったようで、格式規模に優れ国分尼寺(国立の女僧学校)に代用された時代もありました。

祐泉寺(ゆうせんじ)は、大興寺境内の一部を臨済宗大徳寺派(りんざいしゅうだいとくじは)の寺で梅隠宗香禅師(ばいいんそうこうぜんじ)により、永禄11年(1568)に開山されました。

祐泉寺(ゆうせんじ)の本堂正面右側に直径2mにも及ぶ大きな石が、大切に保管されています。
調査発掘した結果、この石が塔心礎(塔の中心柱の礎石)であることが分かりました。この塔心礎はこの時代の典型的なものであり、大興寺の西の塔心礎と推定され、当時の建築様式を知る上で大変貴重なものです。現在、三島市の指定文化財考古資料となっています。


伊豆国分寺(いずこくぶんじ)塔跡の礎石・・・「三島七石」に含まれていませんが参考までに掲載しておきます。
伊豆国分寺は、天平13年(741年)、聖武天皇が下した詔により、全国に建てられた国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つです。

当初の伽藍は焼失しており、その後真言宗の寺として再建されたが、これも北条氏と武田氏の戦火に焼かれ、江戸時代初期に日蓮宗の寺院として再建されたが、これも安政の大地震で被災しました。

大正12年(1923年)に日蓮宗「称蓮寺」を建立、昭和29年(1954年)に「伊豆国分寺」と改称したものが今の伊豆国分寺です。

昭和31年(1956年)軽部慈恩によって現在の伊豆国分寺境内の本堂裏などが発掘調査され、建立当初に存在していた塔跡と基壇、8個の礎石などが発見され、さらに伊豆国分寺の寺域と伽藍が推定されました。塔跡は国の史跡に指定されています。

TOPへ
間近なイベント
清掃プロジェクト
竹林整備
小沢川下流
里山の生物
ボランティア
三島風穴
三島・富士山
三島の滝
三島七石
三島八小路
搗屋のみち
昔の鎧坂
カワセミ
間眠神社
浅間・芝岡神社
源頼朝マップ
函南マップ
ハザードマップ
駐車場マップ
編集室
資料館だより
検索順位
外部リンク
わきみず
壱町田の神
愛染院跡
「知っ得」情報
神津島と海の道
縄文時代の舟を考える
三嶋大社・神池の水源
巨樹・名木
万巻上人が愛した函南桑原
巨樹のある神社・仏閣
菰池公園と鴨の親子
三島七石の目次
鬼石
笠置石
たたり石
蛙石
耳石
市子石
蛇石
鬼石の地図
笠置石地図
たたり石地図
蛙石の地図
耳石の地図
市子石の地図
蛇石の地図


三島里山倶楽部
鬼石(おにいし)
鬼石(おにいし)
inserted by FC2 system