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三島・昔の鎧坂
An old Yoroizaka of Mishima


・・・やっぱり、昔の鎧坂は道幅狭く左右にうねっていた。その残影を追いながら一人歩いてみた。 2012/05/29
↓左側上り坂が現在の鎧坂、右の支道が旧鎧坂 ↓現在の鎧坂より大分勾配が緩い
↓入口から約46m進むと右斜めに折れる道を進む
↓前方に道幅が更に狭くなっている道となる
↓道幅が約1.2m前後の道が続く、三島溶岩が顔を出す
↓左前方に桜の老木が見えて来る
↓佐野街道と沢地の龍澤寺(りゅうたくじ)へ向かう道標(みちしるべ)が桜の老木の下に立てられている。
↓人差し指が右に向けられ「龍澤禅寺」と彫られている。
↓右に向けられた右人差し指・大正五年
↓沢地・龍澤寺に向かう分かれ道
↓人差し指が左に向けられ「佐野街道」と彫られている。
↓左に向けられた左人差し指 ↓佐野街道の分かれ道。ビルの北側にある北中のグラウンドへ昔は繋がり、幸原・裾野方面へ向かう。
↓上掲標識の後方奥に見られる庚申塔(こうしんとう) ↓桜の木の下に立つ庚申塔・・・東から撮影

昔の鎧坂を三島市文教町の現在地図に落とし込みました。
赤の実線は古道の残る部分、赤の点線は古道が無くなった部分。

昔の鎧坂は現在の急こう配で直進道の鎧坂と違って、予想していた以上に緩い勾配であり右左に折れ曲がっている。昔の鎧坂は現在の文教町2丁目に位置し、地形的に見て北西方向に三島溶岩流で形成された丘陵があり、その丘陵の裾周りにある緩傾斜を道としたものと思われる。

三嶋宿最北の三叉路に道標が立てられ、龍澤寺(りゅうたくじ)に向かうと神川橋(かんがわばし)を渡り、壱町田を通り抜け、龍澤寺のある沢地(昔は箱根神社の神領だった)へ至る。龍澤寺の山門の前道を北へ少し足を延ばすと大樹が茂る駒形(こまがた)神社が鎮座する。昭和30年頃までは沢山のホタルが乱舞していた。

佐野街道を北上すると三島北中学校と日本大学の敷地内を通っていたことから、その痕跡は全く残されていないが、耳石(みみいし)神社の前道を通過し、青橋を渡り裾野市佐野へ抜け、更に須山街道を北へ向かったと考えられている。

幸原町の古老の話しでは、もともと幸原は七軒の民家があっただけの寒村で、旧佐野街道は現在の銀杏並木(通称・日大通り)より東へ離れた北中の東側を登り北上して日大の裏(東側)に抜け、宮川用水の通る裏道を北上し幸原山橋(幸原堰)辺りを左に曲がり更に細道を右に折れ北上し現在のJA北上支所辺りを抜け耳石(みみいし)神社付近に至るルートだったと聴取された。私はこの話に傾きつつあるのだが、今一つ確証が無く現在追調中である。

つまり、赤い点線は先入観念により、どうしても銀杏並木(通称・日大通り)方面に寄ってしまう描き方となってしまい上図の如く西寄りのルートを想定してしまったが、現在の北中校舎の東側付近まで緩い上り坂勾配の鎧坂が続き、更に日大裏側の裏道に繋がっていたと見なければならない局面になる可能性も出て来た。

昔の鎧坂は、大正8年(1919年)野戦重砲兵2連隊(やせんじゅうほうへいにれんたい)が、大正9年(1920年)野戦重砲兵3連隊が三島に移転されたことから、同敷地造成により鎧坂を含む佐野街道の一部は埋設され痕跡は残されていないが、大正8年以前に作成された三島市北部(現在の文教町から幸原町に至るエリア)の古地図が残されているのなら昔の鎧坂と佐野街道を現在の地図に落とし込むことは可能と思われ現在追調中である。

鎧坂の名前の由来

鎧坂という地名の由来について三島市関連の資料では・・・

@ 昭和39年(1964)完成の東海道新幹線の建設で消滅してしまいましたが、現在の三島グランドホテルの北側に、溶岩で芝や小松におお覆われた形のいい方円塚(ほうえんづか)(法院塚(ほういんづか))があり、そこに『鎧がけの松』といわれた太く大きな2本の松がそびえていました。
 その昔、源頼朝が挙兵(きょへい)の折、三嶋大社に大願成就(たいがんじょうじゅ)を祈念(きねん)しての帰り道、方円塚に至り鎧を松にかけて休息したとの言い伝えがあります。この『鎧がけの松』と、だらだらした坂の組み合わせが、鎧坂の地名になったという説があります。
 他に富士山の溶岩が流れてきて、その形が鎧の形になったという説、甲斐(かい)の武田軍が大水で鎧を流したという説などがあります。

A 三嶋大社西側の県道を北に行くと東海道線のガード近くで二またに分かれる坂道があります。この東側の坂道は古くから「鎧坂」と呼ばれてきました。
 永禄12年(1569)6月、武田信玄は北条氏攻略のため伊豆を侵略しました。『 北 條 盛 衰 記 』ほう じょう せい すい きによれば信玄は「甲斐国のいかなる社にも本尊があるが三島は海道名だたる大社にも関わらず本尊も神もない。そんな社を壊して何の罪になろうか」と三嶋大社の 社 壇しゃ だん や 宝 蔵ほう ぞう を打ち壊しました。ところが数日後、三嶋明神の 咎とが めの大雨で鎧が流されてしまいました。このことに由来し、鎧坂という名が付いたと言われています。その後、 野 戦 重 砲 兵や せん じゅう ほう へい 旅団司令部および第二連隊が設置され、鎧坂の一部がその敷地となったため、現在では西側の道が主に鎧坂と呼ばれるようになったようです。

など諸説が記され、いずれも断定されていない。源頼朝や武田信玄など歴史的有名武将と絡めて鎧坂の地名を説明していますが、源頼朝が三嶋大社で大願成就を祈念しての帰り道、なんで韮山とは反対方向の三島の北側へ向かうのか不自然で説明がつかない。一方、武田信玄の鎧が流されたという鎧坂付近に全く川の存在はなく、後世に有名人を取ってつけた作り話のたぐいと思われる。

私としては「鎧坂」一帯の地勢的観点からして、鎧坂を挟むように凹凸のある三島溶岩流の岩肌が鎧の小札(こざね)に似て堅く覆われている独特の景観から「鎧坂」と呼ばれるようになったのではとの見方を強めている。地表には雑草灌木も繁っていただろうが、縄状溶岩露出部も多かったに違いない。所々に方円の形の良い兜に似た溶岩塚も新幹線工事が行われる前まで存在していたと伝えられている。今でも文教町一帯は土木掘削工事にて地表直下から岩盤層になっていることが知られている。


昔の鎧坂の分かれ道付近に移された「鬼鹿毛馬頭尊」碑(おにかげ・ばとうそん)と「愛馬忠霊」碑
↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑と「愛馬忠霊」碑 ↓「愛馬忠霊」碑
↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑 ↓「鬼鹿毛馬頭尊」碑の上部の「富士と日月」画像
↓左建物手前が「鬼鹿毛馬頭尊」碑
右の狭い路地が昔の鎧坂
「鬼鹿毛(おにかげ)」は、脚力の優れた名馬のことで全国各地に伝承され、「鬼鹿毛馬頭観音」は各地に祀られている。旧佐野街道鎧坂に祀られた同碑は、工事の関係で数回位置が移されているが、旧佐野街道と沢地道との分かれ道の道標(みちしるべ)と直近の位置となり、落ち着くべき所に落ち着いたと思われる。

明治16年の「鬼鹿毛」碑と昭和14年の「愛馬忠霊」碑は、鎧坂直近北側に野戦重砲兵第2連隊と同第3連隊が存在し軍馬多数を配していたため、いずれも死んだ軍馬を供養した碑だと思われます。

この碑が一般の馬頭観音と異なる点は、駿東郡小山町の新柴観音を分霊したもの伝えられていることです。それにしても馬力車がやっと通れる幅の狭い古道は、なんとなく気持ちが安らぎます。

高射砲や兵隊を運ぶには軍馬が必要不可欠だった時代、沢山の軍馬が連隊の中で飼われ調教されていた訳で、その飼料需要により箱根西麓一帯の農家が経済的に潤いました。

三島旧市街地にも家を借りて大勢の兵隊が居住するようになり商店や娯楽場も繁盛し、また軍需物資を生産する工場も三島周辺に進出し、一種の軍需景気が市民の台所の底支えとなりました。

また、医療関係でも後年「国立東静病院」の先駆けとなる軍隊の病院が現在の市民体育館の場所に作られ、戦後の医療の柱として活躍しています。

何故に、国立病院が清水町に移されたか?その政治秘話については余りにも情けなく、ここでは語らない。
第3連隊の正門・・・三島市立北小学校に現存します。

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