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万巻上人が愛した函南桑原
 Kannamikuwahara which Mangan-shonin loved
かんちゃん
箱根神社・万巻上人が生前愛した函南桑原(小筥根)
なみちゃん

函南桑原(かんなみくわはら)=小筥根(こはこね)

左の地図は奈良平安時代に箱根三所権現の神領でした函南桑原のエリアを示しました。箱根峠を頂点として西南端は東海道本線までかかり、東南端は熱海峠までのびるほぼ三角形の広大な土地が神領とされていた。
同エリア内には全国屈指の函南原生林があり来光川が流れ、今でも自然が広範囲に残されている地域である。
小筥根山・新光寺のあったとされる函南桑原に焦点を当て、奈良〜平安時代に生きた万巻上人の足跡を辿ってみたいと思う。

子供のころ「寄り道」をしませんでしたか。寄り道をして子供らは位置空間ごとに違った事物の存在を記憶にとどめ急速に叡智が育まれて行く。いくら立派な画像を提供し詳細な解説をしたとしても位置空間と結びつかないと真の知識にはなり辛いのである。

つまり、地理的位置が明示されない限り、いつまで経っても実物を訪ねられず視認できないのである。地理的位置を明示できるのは地図である。私はWebページの地図の多様化を意識的に進めて来た。地図上に寄り道をすべき対象が分るのと分らないでは大違いである。私は「学問のすすめ」というよりは「寄り道のすすめ」を重視し、自在に動かせるGoogle Mapsの活用に踏み切った。


より大きな地図で 函南見どころマップ を表示
719年〜816年。万巻上人まんがんしょうにん。本名:万願。箱根権現を事実上興した上人。

万巻の名の由来は経巻一万巻を読破したことによる。常陸の鹿島に神宮寺を建てた後、箱根に来て東福寺を再興し、これが箱根権現を事実上興したことになる。芦ノ湖中に住み、付近の住民を恐れさせていた毒竜を祈願により鎮め、九頭龍神として改心させたのも万巻上人の功績と言われる。97才の長寿を全うするまで仏教の普及に尽くした名僧で、その遺影は箱根神社の宝物殿に祀られている。

現在の函南町桑原を含む北東部一円は小筥根と呼ばれ、平安時代に筥根権現(箱根、函根)の神領となり、天平宝字元年(757)に筥根権現を開いた萬巻上人の菩提寺・小筥根山新光寺(廃寺)があった。上人が死去した後に、弟子たちが上人の愛した桑原の地(小筥根)に七堂伽藍の大寺を建てたものである。

駒ケ岳山頂の元宮から万巻上人が芦ノ湖湖畔に現在の箱根神社の場所に箱根三所権現金剛王院東福寺を創建したとは言え、標高が高く芦ノ湖から吹きすさぶ寒気も厳しく、冬場では氷点下となり厳しい修行環境だったに違いない。万巻上人は山岳宗教を信奉する修験者団体の取りまとめ役として朝廷から箱根山へ派遣され、自らも厳しい神仏混淆の荒修行を重ねていたものの、歳を重ねるごとに弟子たちの勧めもあり、厳寒の箱根山芦ノ湖畔に比し、箱根の南の低地に位置する小筥根(函南桑原)は数段暖かい(年間平均気温16℃内外)、箱根権現の神領であった同里山へ足を運ぶことが多くなったと思われる。

緑濃い里山に囲まれ、来光川の流れ下る谷間に茅葺の農家が散在し、村々の老若男女とも顔馴染みとなった万巻上人は次第に閑静な当地へ通うことが多くなって行き、時には赤子を背負う母子の姿を観じて、上人が青年期に離別した母親を思慕したかも知れない。荒ぶる山岳修行の末の開眼、山岳霊峰には不可能な田畑を耕し、土に足が付いた暮らしの奥深さ、万巻上人が最後に見つめた小筥根の里山の平和な姿だったかも知れない。
弟子たちも上人が小筥根を深く愛されていることを熟知しており、当時としては驚異的年齢の97才で大往生した上人の心情をおもんばかり、桑原の地に七堂伽藍の大寺を建立し、その後都の一流仏師に仏像を作らせ万巻上人の弟子たちにより永く供養が続けられた。数多くの修験者達の参拝もうでも当然あった筈だ。

廃寺となった理由や時期は明らかでは無いが、仏像の状態が比較的良好であることから、火災や地震による本堂大倒壊では無く、老朽化や政治的変遷等により廃寺を余儀なくされたと思われる。長源寺裏手にある薬師堂(桑原地区の住民が維持管理して来た)の入口から来光川沿いに北西300mほど離れた水田の中に礎石が残されている。いずれにせよ、万巻上人が生前小筥根を愛したように地元住人も上人への尊崇と崇愛の念が強く、新光寺の廃寺後、誰とも無しに無為自然に仏像の安置維持管理と奉仕に努めて来たのである。
南東約300mにある長源寺裏手に位置する桑原薬師堂の中に仏像を安置し、戦火など万難を乗り越え仏像群(全24体)を無事に守り抜いて来た桑原地区の住人の強い信仰心に敬意を抱かざるを得ない。

そのおかげで戦後には仏像は県重要文化財などの遺産登録がなされ、2012年4月には「かんなみ仏の里美術」が落成、万巻上人没後、実に約1200年ならんとする前に新光寺の仏像は国宝として国民の委託に応えるべく保存に相応しい安置場所へお戻りになったのである。これまでの桑原の先人達の御苦労に頭を下げたい。
おそらく今後新しく創設された「かんなみ仏の里美術館」に人々の注目の的が集まると予測されるが、私は全く違った切り口により、更に函南桑原の歴史を追及したいと考えている。


私は、万巻上人と小筥根との関係をだいぶ前から着目し、筥根から小筥根まで往復する古道がどのようなルートだったのか知りたくて、函南の古道について詳しい人は居ないか探しているのだが実に見つからない。・・・万巻上人が小筥根へ通った道を是非探りたいものである。


現代から見ると「街はずれ」とされて来た函南町の東北部の桑原に、奈良平安時代から第一級の文化が萌芽していたことは事実であり、田方郡函南町民が真に誇れる歴史遺産である。
仏像もさりながら、これまで保存し得た薬師堂「仏の里」と称されるようになった風土と風紀も貴重な歴史遺産として残したいものである。薬師堂こそ函南桑原の草の根魂の真骨頂と憶えるからである。

来光川」の名前の由来は諸説あるが、私は小筥根山新光寺の「光」の一字に由来するのが自然ではないかと考えている。来光川の源流は、箱根外輪山の一つである鞍掛山の南西斜面にあり、江戸時代から禁伐林としてされて来た 函南原生林にあり「大樹立(おおきだち)」が涵養した水を水源としている。その原生林の真北に駒ケ岳と箱根神社が祀られ、来光川に沿って平安時代の修験者の歩いた古道を万巻上人がにこやかにご来光すると考えるとロマン溢れる土地柄と言えよう。
万巻上人像
箱根神社
万巻上人の残影を追う

万巻上人の奥津城(墓)
現存する奥津城
奥津城(おくつき)と称され、奥津城(おくつき)は神域成就を成し遂げた上人の最終駅、万巻上人の墓と伝承されている。大上人の墓ともなれば、あの世との結界が厳然と在らねばならない。結界は九頭竜神により今もなお守られているのだろう。

ただ、奥津城が本当の万巻上人の墓地なのか、弟子たちの手により菩提寺・新光寺に埋葬されたのか、いずれにせよ、どちらに転んでも良いことだと当の万巻上人は思われていると想う。

形を残すことは実に難しい。さすがに箱根神社は奥津城(左の写真)を守り抜き維持管理して来た。

ただし、仏像24体の再評価により万巻上人の菩提寺・新光寺そのものの位置付け評価が問われる局面になったのではないか。いずれにせよ、万巻上人と函南町桑原との因縁を更に探る必要が出て来た。
水田の中に残る新光寺跡の礎石・・・平成24年6月16日北東の細道より撮影(写真をクリックしますと拡大します)

七堂伽藍の仏像20体以上の仏像を持つ大寺は既に失われ、往時の様子を偲ぶことはもはや出来ない。ただ、
水田の中に残る一つの岩により、かろうじて新光寺跡である事を知らされるのみである。
来光川の西岸に位置し、山岳信仰の聖地に相応しく箱根権現まで深い森が続き、漂う空気が凛として清々しい。

残された新光寺の岩の形状は、礎石というよりは、なぜか禅宗の石庭に置かれる須弥山の姿に似ており、まさ
に1200年の世の移り変わりを岩肌に刻み込んだ趣きを感じさせてくれる。神仙の気配が漂う景色である。
水田を借景とする須弥山に異時空間のコントラストが強く感じられ、これも、ありのままの時の流れ・栄枯盛衰を
示すモニュメントとして貴重な存在と思われた。

この岩は意外と大きく、ちょっとやそっとでは動かし難い。問題は元々ここにあった自然の岩なのか、それともど
こかの岩を人力で運んだのか興味が尽きない。元々ここにあった岩ならば、生前万巻上人の眼力で、この岩を
弟子たちの前で愛でていたことも考えられ、新光寺は、この岩を根本として建てられた可能性も考えられる。
一方、他所から運ばれて来た岩ならば、如何なる理由で如何なる方法で運ばれたものか知りたいところである。

この岩を蓬莱山に例えれば岩の形状は、北方向に垂直に近い絶壁となり、東西に低い盆地が見られ、時計回り
に水平に近い二段の丘が連らなり、更に登り詰めると神仙のみ達し得る高き山頂に至る。つまり、神仙思想を
凝縮した蓬莱山の姿が映じて来る。実に神仏習合を見事に表す造形が、田の中にどっかり座っていた。

この小筥根山・新光寺の主石がかろうじて残されたのは、まさに万巻上人の神通力と思われざるを得ず、雨の
中、田んぼの中の宇宙・時空間を超越した奇石から目を離されずにいた。この新光寺跡の南側には春日神社
のクスノキの大木、天地神社のクスノキの大木、柏谷穴群など歴史的見どころが散在している。

農民が自主的に禁伐の掟をつくり、保護してきた『函南原生林』を持つ函南町では、現在もその精神は引継がれ
ている。お上からの命令では無く自分達の将来を見据えた自らに課した掟だった。その英断に至るのに万巻上
人の影響は無かった筈は無いと思う。豊かな水によって育てられた稲穂が黄金の波をうつ頃、函南の名木(巨
樹)と秋の山野草を訪ねるのも精神の垢を落とすルートとして奨めたい。北条宗時神社のハリギリとコナラ(町)、
大竹春日神社のクスノキ(県)、万巻上人墓のヤブツバキ(町)、白山神社のカゴノキ(町)、長源寺のイチイガシ
(町)も是非忘れないで欲しい。どれもこれも第一級の函南町の自然文化遺産なのである。

北西から撮影(写真をクリックしますと拡大します) 東から望遠にて撮影(写真をクリックしますと拡大します)
桑原薬師堂に向き座る万巻上人の背中像に見えて来る。
背中と見るならば、奇しくも目の方向は桑原薬師堂に向く。
前方に函を抱える万巻上人像に見えて来る。
小筥根新光寺跡に唯一残された不動の道標である。

万巻上人

万巻上人が生きた奈良時代は、仏教文化が「咲く花の、におうがごとき」奈良の都であったが、地方に起こった新宗教-神仏習合が逆にその都(中央)に持ち込まれた。

そしてその神仏習合の魁となったのが万巻上人であり、神宮寺の建立や権現信仰(思想)の確立に主役を果たされたのである。まさに当代の宗教的天才と謳われた真言宗の空海や、天台宗の最澄と並び稱せられる程の偉大な宗教家であったことが窺える。

万巻上人は京都の生まれで、父は智仁といい、「沙弥」と呼ばれる修行僧であった。
上人は、子供の頃から利発で物覚えがよく書もよくする勤勉家であった。しかも生臭いものを食べず華奢を嫌い、争いを好まぬ清僧のような地味な人柄だった。父の智仁は、子供にしては珍しく賢いので、誠に「奇なり」として仏門に入れることにした。
 
『筥根山縁起』によると元正天皇養老年中、洛邑に沙弥智仁あり。其氏を知らず。一男子を生ず。襁褓葡匐の際、口に葷腥を嫌い、膚に錦繍を辞す。父母大に之を奇とする。季歳をわきまえて釈門に入り、二十歳になり、受具剃髪して、日課、方広経を看閲すること一万巻。故に萬巻と称す。諸州の霊峰を巡歴した。
 
仏門に入ってからは、日課として仏典を読誦し、遂に万巻の経を読破したので人読んで「萬巻」と称するようになった。そして更に仏教の奥義を究めようと、修行僧となって諸国遍歴の旅に出るのであるが、奈良の都に出て高僧碩学に学び、比叡山に登ったのもこの頃のことであった。この頃の比叡山は専らこうした修行僧の修練の霊場であったのだが、空海や最澄が入峰修練したのは、それからまだずっと後年のことだった。

天平勝宝元年(749年)鹿島郡大領中臣連千徳、元宮司中臣鹿島連大宗とともに鹿島神宮寺の建立をした。
天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山し、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得した。これが箱根三所権現の由来である。また、芦ノ湖に住む9つの頭を持つ毒龍(九頭龍)が荒れ狂って村民を苦しめていたのを法力で調伏した。調伏された九頭龍は懺悔して宝珠・錫杖・水瓶を持って万巻上人に帰依したので、湖の主・水神(九頭龍権現)として祀った。
また、天平宝字7年(763年)多度権現の神託で多度神宮寺を建立した。

鹿島から箱根に向かう途中、海に炎が上がり魚が死んで漁民が苦悩しているのを目撃したので読経をすると、薬師如来が顕われて法力で温泉を海から山に移すように教導したので、37日間の断食祈祷で実現した。これが熱海温泉の由来とも伝承されている。→万巻上人と薬師の化現と逢図


養老三年(719年)生、弘仁七年(816年)没、享年97歳、弘仁八年(817年)菩提寺・小筥根山新光寺建立。

残された仏像全てから新光寺の歴史を読み解く

万巻上人が亡くなられた翌年・弘仁八年(817年)に上人の菩提寺として小筥根山・新光寺(七堂伽藍)が創建された。建築様式は、奈良時代の後期に奈良の都において建設された七堂伽藍の様式に倣ったものと推察される。たぶん、奈良の都から腕の立つ大工棟梁以下職人が呼ばれたに違いない。

創建当初には仏像は安置されていない。当時は全国的に仏像等の偶像崇拝は必ずしも浸透しておらず、神仏混淆の山岳宗教にあっては、偶像崇拝よりは山・湖・木・岩そのものに神霊が宿るとの自然崇拝の念が強く、神仏混淆思想の大先達・万巻上人の直属の弟子達にとって仏像安置の必然性は頭の隅にも無かったと思われる。つまり、薬師如来座像が安置されるまでの長い期間仏像は新光寺に無かったことになる。

さて、新光寺の本尊とされる薬師如来坐像(静岡県指定有形文化財)の製作年代は専門家の推測するところでは、平安時代中期(11世紀半ば)頃とされ、一木彫りの仏像が全国的に広まる時代に入って仏像崇拝を尊しとし、仏教の寺に仏像を安置するのは当たり前とする平安期の住職が手配したものと推察される。

次に十二神将立像の製作年代は、平安時代3体・鎌倉時代・南北朝時代末〜室町時代初期・江戸時代に分かれ作られている。本尊の薬師如来を守る十二神将は十二体揃ってこその名称であるからにして平安時代造られた十二神将立像が残されていることから、平安時代既に十二体全てが揃っていた筈である。 

しかし、歳月を重ねる中にあって何らかの災禍にあって損壊する神将像が現れ、鎌倉時代より平安時代の神将を忠実に模した神将像が造られ、南北朝・室町時代も同様な作り直しがなされ、江戸時代に至るまで歴代の住職の計らいで十二体の神将像が全てが維持されて来たことを物語っている。

江戸時代の何時頃まで新光寺が存続したかは、一番新しい仏像の製作年代が特定される必要がある。
加えて、桑原薬師堂の着工時期の特定も必要だろう。新光寺の廃寺時期と桑原薬師堂の創建時期が重なるとは限らないが、新光寺に関する資料が見つからない限り、残された仏像群や建造物等を読み解くしか方途が無いのが現状である。礎石の遺跡発掘も必要となるかも知れない。

いずれにせよ、残された24体の仏像が新光寺に安置されていたものということを前提に置くならば、新光寺は817年に創建され、爾来、平安、鎌倉、南北朝、室町、江戸時代まで存続していたことが仏像から読み取れる訳であり、新光寺は長期間に亘り函南桑原(小筥根)に存続していたことになる。

また、新光寺の建設仕様に関しては、新光寺が創建された817年以前に作られた七堂伽藍形式の寺院様式をたたき台として新光寺跡の地勢や来光川との位置関係を精査の上、コンピュータ上で三次元モデルを作成することから始めるのも新光寺概要の現実経済的な模索方法と思われる。



万巻上人の残影を追う

【参考資料】函南町の指定文化財マップ(含む保存施設)
【石造物】双体道祖神
伊豆地方の道祖神は単体が一般的ですが、函南町には猿田彦神と天宇受売命が男女一対の形で習合した双体道祖神
が5基も残っています。双体道祖神は信州などでよく見られますが、それらと異なり、函南町の神様たちはお行儀よく直立
不動です。
丹那 新山の双体道祖神
(双体・立像・浮彫・右像は笏持ち)
桑原 八巻橋の双体道祖神
(双体・立像・浮彫)
田代の双体道祖神
(双体・立像・浮彫)
軽井沢の双体道祖神
(双体・立像・浮彫)
丹那 伝・大日如来 
(単体・浮彫、目と口に朱)
桑原入谷 観音堂 萬年杉の不動王


桑原薬師堂の沿革
かんなみ仏の里美術館の所蔵品

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