神池の歴史を語る江戸時代の絵図 絵をクリックしますと拡大します |
1604年・徳川家康三嶋大社造営図 |
1634年・徳川家光三嶋大社造営図 |
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1654年・徳川家綱三嶋大社造営図 |
1654年境内絵図の解説 |
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右下の境内解説図にて神池への宮川用水の流れが分ります。同時に江戸時代の排水路も分ります。
神池の排水路は東側神池の南東端から旧東海道の北側沿道を西進し旧祓戸川(桜川)に接し、農業用水として使われていたことが分ります。上掲3枚の古絵図により少なくとも江戸時代を通して「三島宮川用水」は三嶋大社の神池の水源として使われていたことは間違いないところです。
昔は神池に耳のある「うなぎ」が沢山いたと伝承されていますが、桜川を遡上して来たうなぎが、きっと三嶋大社の大鳥居の前の神池排水路を伝って神池に到達したものと思われます。
境内西側・北側・北東側の薄灰色状の直線は今も残る石垣であり、祓戸神社(浦島さん)より1〜2mほど高い地勢上に三嶋大社(みしまたいしゃ)が建てられ、この台地を古より三島七原(みしまななはら)の一つである「高天原(たかまがはら)」と呼称されています。
徳川家光の時は五重塔が設けられていたが、徳川家綱造営の時、神池中央に鳥居が見られ、総門右奥には三重の塔があり、総門と神門の間にも鳥居が設けられています。本殿の東西には其々神門が設けられ、西側神門は三島八小路の一つとされる下小路に繋がる通路があります。東側神門からは三嶋暦師の館前に繋がる平安鎌倉古道(箱根神社に縁ある修験道の道)への通路が描かれています。
1604年当時の北門は、現在の北門位置より西側にあったことから、宮川用水は元あった北門位置から境内に流れ込む形態になった訳で、北東にあった社を迂回して現在流鏑馬が行われる本殿東側の南北神道の東側を南下して神池に流れ込みます。
江戸時代の神池に架かる神橋は南北二つあったことが分り、現在の一つの神橋よりも水の流動性は良かったものと推察され、亀やうなぎも数多くいたという伝承も頷けられます。
西側の神池の中島には北条政子の勧請した厳島神社が祀られており、東側神池と繋がっているものの東側のみ水の取入口と排水口を有すことから厳島神社の下座と見て造成されたと思われます。
なお、神池の大掃除は毎年5月10日ごろから5月17日ごろまで神池の水を抜いて行われます。中々お目にかかれない風景ですので、まだ見たことの無い人は一見すべきとお勧めします。
→→→神池の大掃除
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三島宮川用水のルート詳細が描かれている。東側の細小路には斜めに通る小道が見える。
西側の大きな小浜池(現楽寿園)周辺には建造物が存在しない。
小浜池(現楽寿園)の北東には愛染院(あいぜんいん)が存在し、同院南東隅には現在の白滝公園があり、同園からは桜川と御殿川が流れ下っている。
注目されるのは北に向かう佐野街道であるが、真っ直ぐ北に延びておらず愛染院(あいぜんいん)跡から東に延びる道(大宮町付近)と三叉路上に分かれ東に弓状に膨らむ形で北上していることが描かれ、現在不明となっている北の見付は、この辺りにあったことが推察される。
さて、現在、東西か南北か両説有り位置が特定されない金谷小路(図の右下付近)であるが当該図を見る限り、クランク状の東西道付近に民家が全く描かれておらず、南北道路沿いにのみ民家が描かれていることから、金谷小路は南北に通る道ではないかと思われる。
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