三島里山倶楽部

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上の絵図は源頼朝が治承四年(1180年)8月17日平家に対する最初の反撃、つまり源頼朝の旗揚げと呼
ばれる挙兵、伊豆国の目代(国司の代理人)、山木兼隆の山木邸を攻撃した時の「源頼朝山木邸攻略出
図」である。

挙兵を前に、頼朝は工藤(狩野)茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一
人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行い「未だ口外せざるといえども、ひとえに汝を頼むによって話す」
と言い、彼らは自分だけが特に頼りにされていると喜び膝を乗り出す。
挙兵の前日に至り、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱ら佐々木兄弟が参陣に遅れ、頼朝は盛綱に計画を
漏らした事を悔いるも、挙兵の8月17日(新暦9月8日)、河川の増水やぬかる道に難渋し疲れ果てた体で
佐々木兄弟が参着すると、頼朝は涙を流してねぎねぎらい悦びを隠さない。

そんな中、兼隆の雑色男が頼朝の家の下女と恋仲で、その日も北条邸に来ていた。多くの武者の集まっ
ていると注進される恐れがあるので用心のため生け捕り足止めしている。
襲撃は朝駈けを図っていたが佐々木兄弟の遅参によって大幅に計画がくるってしまったが、頼朝は明朝
を待たずに直ちに山木館を襲撃すべしと命じ、「山木と雌雄を決して生涯の吉凶を図らん」と決意を述べ
る。また、山木の館を放火するよう命じ、それをもって襲撃の成否を確認したいと表明した。

時政は「今宵は三島神社の祭礼であるがゆえに牛鍬大路は人が満ちて、襲撃を気取られる恐れがある
から、間道の蛭島通を通ってはどうか」と進言するが、頼朝は「余も最初はそう思ったが、挙兵の草創で
あり、間道は用いるべきではない。また、蛭島通では騎馬が難渋する。大道を通るべし」と命じた。

深夜に入って一行は進発。源頼朝自身は守山北東に位置する北条邸にとどまり采配を振い、途中の肥
田原で北条時政は佐々木定綱に兼隆の後見役の堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を別けてこれを
討つよう命じた。佐々木兄弟は山木邸の北方約1km離れた奈古谷に屋敷を構えていた堤信遠の館に向
かい、子の刻に経高が館に矢を放った。

信遠の郎従が応戦して矢戦になり、経高は矢を捨てて太刀を取って突入。信遠も太刀を取って組み打ち
になった。経高が矢を受けて倒れるが、定綱、高綱が加勢し遂に信遠を討ち取った。また、信遠は田方
郡に勢力を築きつつあり、北条氏にとっては競合関係にある豪族でもあった。

時政らの本隊は山木館の前に到着すると館に向け矢を放つ。その夜は三島神社の祭礼で兼隆の郎従
の多くが参詣に出払い、黄瀬川の宿で酒宴を行っていた。館に残っていた兵は激しく抵抗。信遠を討った
佐々木兄弟も加わり、激戦となるが容易に勝敗は決しない。

頼朝は山木館の方角を遠望するが手筈通りの火の手は上がらない。焦った頼朝は警護に残っていた加
藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を山木館へ加勢として向かわせる。特に景廉には長刀を与え、これで兼隆
の首を取り持参せよと命じた。景廉、盛綱は山木館に乗り込み、遂に兼隆を討ち取った。館に火が放た
れ悉く燃え尽きる。襲撃隊は払暁に帰還し、頼朝は庭先で兼隆主従の首を検分した。

19日、頼朝は兼隆の親戚の史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法を停止させる命令を発給した。『吾
妻鏡』はこれを「関東御施政の始まりである」と特記している。

平氏側要人を二人血祭りにした事実は大きい。後戻り出来ないばかりか平家打倒の旗印を世に鮮明に
示さねばならない。源頼朝は300名ばかりの手勢を率いて相模に向かう。韮山、田代、軽井沢、日金山、
熱海、早川へと三浦軍との合流を目指して急いだ。


頼朝の残影を追うにつれ、三嶋大社の祭りにて例年行われている頼朝行列を見て来た私にとって、「源氏旗上げ」として勇ましく美しく堂々と天下に打って出たものでない。むしろ身の回りに押し寄せる身の危険を察知して、保身を前提とした「窮鼠猫を噛む」の一撃を振るったスタートだったとのイメージに変わった。

源氏の御曹司として何不自由なく育ち朝廷内でもトントン拍子の昇進を歩んで来た頼朝にとって父の戦死によって人生が一転、14歳で伊豆での孤独な流人生活に落ちる。余りにも生活環境の落差と己が置かれた立場に思春期を迎えた頼朝は劣等感に苛まれる一方、心寂しきゆえの人恋しさの情念と父譲りの種馬的性欲をたぎらして行く。八重姫とのロマンス、亀の前との交際などの遍歴が雄弁に物語っている。

一方、自分を包み込み強い力でリードしてくれる政子のような女性も嫌いではなかった。田舎育ちの純朴な飾り気の無い単刀直入な言い回しに頼朝は都では出あったことが無い頼り甲斐のある女性として新鮮な印象を持った。当時としては珍しい相思相愛の仲となり、やがて頼朝は政子を正妻としている。

穿った見方をするならば、対外的に手も足も出ない流人の身から脱出する方途として、先ず伊豆の大豪族・伊東祐親の京都での大番役での留守に娘をかどわかし「出来ちゃった結婚」にて伊東祐親と血縁を結びたかったのではないかと勘繰りたくなる。これは頼朝の甘い思惑は見事に外れ、伊東祐親の激昂を買い頼朝の命まで狙われる羽目となる。

次に、北条時政の長女・政子に近づく。これも時政に反対されるが、これは政子が親の命令をも振り切って、なりふり構わず走湯権現に居た頼朝のもとに駆け込み結ばれている。時政も政子の嘆願により結婚を許し、最終的に源頼朝軍への加勢を決意している。頼朝の政略結婚紛いだった行為と断言できないが、監視役の娘達との交際には何か頼朝の試行錯誤の青春の心の格闘があったのではと勘繰りたくなるのである。

これまで、世の情勢を静観しつつ目だった言動を控えていた頼朝が旗上げを決意した理由は、文覚の叱咤激励でもなく、以仁王の令旨が叔父の源行家によって頼朝に伝えられたことでもなかった。それはそれで大切な動機付になりはしたものの、頼朝には力と成り得る援軍のもっと具体的な感触が欲しかった。源行家より令旨が届けられてから二か月間も頼朝は、安達盛長をして相模の武士に挙兵の参加をもとめる使者として走らせていない。

そこにタイミングよく、三浦義澄(よしずみ)と千葉胤頼(たねより)が内裏大番役(京の内裏・院御所諸門の警備)を終えて帰国する途中に北条館の頼朝の許を訪れたのだ。これまで接する事の無かった三浦半島の豪族の嫡男と下総国の豪族・千葉常胤の倅との生の対面に旗上げ援軍に繋がる確かな手ごたえを感じたのである。頼朝は三浦・千葉との密談によって頼朝の挙兵の意志を直に伝えている。私は三浦義澄と千葉胤頼の二人の力が頼朝挙兵後一年間に豹変させた原動力となったと考えるようになっている。

伊豆北条邸での三人の密談内容は、残念ながら吾妻鏡その他古文書に残されていない。類推の域を脱し得ないものの、三浦義澄と東六郎胤頼の治承4年(1180年)9月14日までの二人の行動を追跡すれば明らかになる。相模・武蔵・安房にあって平家勢に攻めかかり明確に源氏勢であることを内外に示し、決して後戻り出来ない姿勢を頼朝や周辺豪族達に知らしめた武将は、この二人しかいない。

三浦義澄は源頼朝軍の合流を目指し石橋山に向かうが、丸子河(酒匂川)の濁流に阻まれ、撤退を余儀なくされ、帰路途中・小坪の浜において畠山重忠軍と遭遇し合戦に及んでいる。その後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長の三軍が衣笠城に押し寄せ、義澄の父・三浦義明が命を落としている。三浦軍は安房に渡り源頼朝と合流している。安房(一戦場)において、平家に味方する安房国・長狭常伴が頼朝の宿泊の隙を狙って夜襲をかけようと兵を挙げたが、事前に事態を察知した三浦義澄が先回りし機先を制し長狭一族は敗北している。

一方、東(千葉)胤頼は、源頼朝の使者・藤九郎盛長を父・千葉常胤とともに丁重に出迎え、この上ない返事を盛長に持ち帰らせ頼朝を喜ばせている。さらに、東胤頼が父に進言した。「下総国の軍勢のほとんどは平家に従う者達。私達一族全員が国境を出て頼朝様の居る安房国へ行ってしまえば、その隙を衝いて必ずや攻め込んでくるに違いない。まず足下の敵を攻め殺しておく必要があるのでは」との意見を述べた。

常胤もこの意見に同意し「では、直ぐに攻め込んで撃ち滅ぼせ」と下知したため、東胤頼とその甥に当る千葉成胤は部下を連れて千葉の代官屋敷へ攻めかかった。千葉の平家の代官(紀季經)は元からの大豪族なので数十人の兵隊で防戦した。丁度北風が強く吹くので、千葉成胤は下郎達を館(市川市国府台)の後ろに回らせて、建物に火を付けて燃やさせたので、代官は火事に逃げ惑い、防戦のすべも無いままに、東胤頼が代官の首を獲っている。

治承4年(1180年)9月14日、総国の「千田の庄」の領家である千田判官代親政は刑部卿平忠盛の聟である。平清盛に従う意志があるので、代官が殺されたのを聞いて、兵隊を連れて、常胤に反撃しようとした。そこで常胤の孫の千葉成胤はこれと戦ってついに千田判官代親政を捕虜にしている。

相手が平家の代表格で、しかも位が高かっただけに下総周辺にかけて千葉一族の武功に対し評判を得ただけでは無く、それまで様子見を決め込んでいた周辺豪族達に源氏旗上げという新たな時代の潮流として映り、瞬く間に大きな波紋として広がって行く。

このことは、伊豆北条邸での密談が、かなり濃密であり頼朝の源氏再興の決意を強く示したことを意味している。私が以前指摘した頼朝旗揚げ決意の最終要因は、頼朝・義澄・胤頼の三者会談にあったと述べたが、実際、義澄と胤頼の武功と決断が治承4年(1180年)に、源頼朝を武蔵国において大きく化けさせた起爆剤だったとも読み取れて来るのである。

源頼朝の爆発的求心力は、源頼朝自身の采配からも生じた。武家の棟梁であった父・義朝の背中を見て育ったのか知れないが、武功を挙げた者には間髪入れず、その者の元々所有していた土地の安堵と新たな土地を与えている。その土地は源氏の連合軍が守り抜く。これほどまでの軍勢が参集するとなれば、これまで平家により理不尽にも土地を略奪されて来た恐れも無くなるに違いないと、周囲の豪族達は確信を得たに違いない。

加えて、これまで敵方に味方していた武士団の取り込みも、配下にあった三浦氏等を説得しつつ積極的に行っている。源頼朝は武将の早い決断と行動を何より好んだ。武蔵国の周辺の武士団は、我先にと集まり始め、鎌倉へ戻る頃には大軍勢の行列となっている。軍資金の乏しい源頼朝は、それこそ無尽蔵にあった平家側を削り取り源氏に付いた武将に土地を配分しつつ鎌倉武家社会の構築に邁進して行った。

千葉常胤の六男・東胤頼(とう たねより)は、源頼朝の特段の計らいにより下総国を掌握した常胤より東荘を相続され、以降胤頼の子孫は東氏を名乗る事になる。一方、源頼朝は、父・三浦義明の籠城死に至らしめた敵将(畠山重忠・河越重頼・江戸重長)を味方に付けることを父の無念を乗り越えて承諾してくれた、三浦義澄や三浦一族に対しての配慮もあって、1194年(建久5年)、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うために鎌倉材木座の来迎寺を建立し、源頼朝自ら参拝している。三浦一族の源頼朝への感謝の念と歓びは計り知れない。本堂横には義明の五輪塔が、本堂裏には三浦一族の墓がある。 本尊阿弥陀三尊は運慶作と伝えられ、義明の守り本尊だったと伝承されている。

さて時間を戻すが、伊豆の田舎侍300騎ばかりを引き連れての行軍は、頼朝にとって三浦軍との合流までは薄氷を踏む心地の心細い行軍だった筈で、仮に地元豪族の伊東祐親軍と対峙した場合でも、どちらが勝つか分らない兵力であることは頼朝も弁えていた。折からの豪雨に見舞われ酒匂川の濁流に遮られ、後退して石橋山付近で仮設の陣を張る。

豪雨により酒匂川に遮られたことが、むしろ頼朝の命を助けたかも知れない。酒匂川を越すと身の隠しようの無い平野部となるからだ。平野は大軍に有利となる。仮に三浦軍の合流が叶ったとしても1000騎に満たない頼朝軍は大庭景親軍3000騎に対抗する術は無かった。誰が考えても頼朝軍の大惨敗と成った筈である。

ところが、石橋山の戦いにて生き残った武将は調べて見ると案外多い。側近従者はむろん主たる武将は生き残っている。十倍以上の軍勢が発揮し得ない地理的条件が幸いした。ずっと後世に「石橋山の合戦」と名付けられたががっぷり四つの正面衝突では無かった。狭い土地柄が幸いし騎馬の使えぬ逃げのゲリラ戦を意味する。きっと、頼朝軍が逃げた方向が山地であったことと土肥実平の勢力下の土地で、実平が地理的案内に最も長じていたことが幸いした。つまり、大庭景親軍3000騎の前に頼朝軍は山の中にバラバラに逃げ失せたのである。

土肥実平の進言した、常套手段の主君逃亡の際のしんがりの戦いは配備を最小限にとどめ、各将バラバラに自由解散逃亡して安房での再会を約束し雨中の山中に逃げたことが結果的に最小限度の死傷者にとどめた一因では無かったかと思われる。源頼朝が脆弱な立場であることを再認識する最初の実体験ではあった。

孫子の兵法に曰く、「小敵の堅きは大敵のとりこ也」(小さな軍隊の強い闘争団結は、それこそ大国の思う壷となる)の如く頼朝軍が意地を張り続け、まともに大庭軍と立ち向かったならば、源頼朝は討たれ総崩れになっていた筈であり、もし酒匂川氾濫が無く三浦軍との合流が叶っていたとすれば、大庭軍3000騎と後発の畠山重忠をはじめ河越重頼、江戸重長ら秩父平氏一族に挟み撃ちにされ再起不能の大惨敗となったであろう。

↓源頼朝の旗上げから富士川の戦いまでの足跡
↓源頼朝の関東遠征図
治承4年(1180年)
@挙兵・山木館襲撃 8月17日
A石橋山の戦い 8月23日
B衣笠城の戦い 8月26日
C真鶴岬出航  8月28日
D安房国着 8月29日
E千葉常胤参陣 9月17日
F上総広常参陣 9月19日
G鎌倉着 10月06日
H甲斐源氏鉢田山の戦い 10月14日
I頼朝軍鎌倉出立 10月16日
J黄瀬川の陣揃う 10月18日
K富士川の戦い 10月20日
L常陸国府・金砂城の戦い 11月04日
【石橋山の戦いを考える】

8月23日、暴風豪雨に見舞われ応援隊として駆けつけた三浦軍は酒匂川の洪水に阻まれ頼朝軍との合流は叶わなかった。孤立無援に陥った頼朝軍は石橋山にて急場の陣を張ったが、大庭景親の率いる3000余名の軍と伊東祐親の300騎の軍に挟み撃ちにされ、頼朝軍は頼朝と数名の護衛兵が戦場を抜け出た以外は戦場にバラバラに消えた。

私が不思議に思うのは、三浦軍が豪雨の酒匂川を越えられなかったのを大庭軍が何故に越えられたかである。仮に上流部を越えたとしても本隊は酒匂川を越えなかった可能性は高い。つまり、大庭軍の前進部隊と頼朝軍の衝突はあったものの、軍勢10倍の大庭軍との全面激突は無く、早々の頼朝軍のバラバラ解散により激突死者を最小限度に止めたとの見方も否定できない。

将棋は大将が詰まされなければ負けにはならない。頼朝も九死に一生を得ていることから石橋山の戦は当時の人から言わせれば、後世の人が軽々に言う「負け戦」とは捉えていない。一旦、被害を最小限度にとどめるため軍を分散撤退することを決意し、安房での再会を約し解散している。
頼朝と最小限度の護衛兵数名は、忠臣・土肥実平が実権を握る土肥椙山へと北上し身を隠し丸4日夜露に身を晒している。なぜ、これほどの日数を待機したかである。急拵えで出立したであろう大庭景親軍3000余名の兵糧は2〜3日間で底をつき撤退は4日後と読んだと思われる。

それにしても解せないのは、北条時政の足取りである。吾妻鏡によれば北条時政親子は甲斐に逃げたとされている。だが、頼朝が安房に生還する以前に北条政時親子は既に安房の海岸にて頼朝を出迎えているのである。石橋山から甲斐へ行き、甲斐から戻って安房へ行く時間は、どう考えても解せない。三浦軍との海上合流と伝えられるが、吾妻鏡の改竄と思われる側面が窺える。

一方、旗上げ当初より万が一の落ち合う場所として安房を指定しており、仮に三浦軍との合流が叶った場合でもかつては武蔵国と下総国の間は広大な低湿地帯で河川も多く通行に適さなかったため日本書紀、古事記でヤマトタケルが、また律令時代の東海道が相模国三浦半島より湾を渡って上総国房総半島へ至っていることからも攻撃の危険が予想される武蔵を通過し通行に適さない陸路を選択することは絶対に採らなかった筈である。
つまり、当初の計画では三浦軍と合流して三浦半島から船で安房に向かう予定だった筈だ。
待機したもう一つの理由は天候不順による相模湾の凪ぐのを待っていたことが考えられ、真鶴岬出航は臨機応変の海路選択肢だった。

頼朝の放った第二矢が速かった。
土肥実平が地元の漁師に頼んで熟練した船頭と小舟を借り受け、追っ手の船が出せないように全ての漁船を沖に出させ、真鶴岬から頼朝以下七騎の武者一行は西から東に向かう潮の流れに乗って安房へ向かい、待っていた三浦軍と北条政時と合流している。

また、土肥実平の息子・遠平が北条政子への頼朝安否の知らせに走らしているが、政子の逃亡先を知るや否かは、走湯権現との事前の確信的交渉がなければ出来ない話だ。走湯権現と頼朝との密談は歴史の表に出ていないが、石橋山の戦い前後の動向から走湯権現から境内外への僧兵出兵は断られたものの消極的協力(境内での僧兵備えと家族郎党の隠れ家提供など)を旗上げ前に取り付けていたと見えて来るのである。

頼朝の優れている点は、事前の視察や臣下縁者からの情報により地勢状況を知り、事前の準備を周到に行い、常に万が一の場合を想定して二段・三段の変化を準備(上記の場合は陸路と海路の選択)、どんな身分の低い臣下でも人物像を憶え、「いざ鎌倉」の速さを評価し、戦い振りを客観的に評価し応分の褒賞を与えたため、雪だるま式に頼朝軍は膨らんでいった。

旗上げ時の頼朝には軍資金も直属の軍隊も無い。傘下に入った御家人達の騎兵を寄せ集め御家人達のライバルや平家方の敵を攻めて、敵方の領地を没収し御家人に手柄に応じて分配して行く。富士川の合戦が終わって頼朝が京都に攻め入ることを主張したが、下総・上総・安房の御家人が主力だったことから兵站線の長い京都遠征は嫌われ、常陸方面の背後の敵を平らげることが先決との意見を取り入れ、下総・上総の御家人などに領土を配分したことから関東一円の武将達に嘱望される存在となるが、直属の軍隊は擁立していない。

大小の御家人の支配地を安堵させ、鎌倉街道を整備して兵站線を整備して御家人達の鎌倉への参集環境を改良している。また、遠隔地の御家人達にとって頗る評判の悪かった3年間の京都を守る大番役も1年に短縮させるなど御家人の身に立った諸施策が好評を博したようだ。

【頼朝と平野仁右衛門との関係を探る】

源頼朝が1180年8月28日早朝、真鶴岬から安房へ向け七人の武者とともに小舟にて出航したことは世に知られている。頼朝の最大の危機から脱出せしめ無事に安房へ送り届けた功績は大きい。真鶴半島一帯を治めていた土肥実平の配下・土肥の住人貞恒に命じて平舟を用意させ、船頭三名がかわるがわる漕ぎ手を努め三浦半島先端を掠めて安房へ向かうことを目標に漕ぎ進んだ。

だが、安房の海岸線は長い。安房のどの浜に上陸するかによって命を落とす危険もある。とにかく真夜中には三浦半島先端付近の海上に辿りついている。三名の漕ぎ手でも一丁艪の小舟ではやっとの速度である。この先、慣れない海域での真っ暗闇の航行は非常に危険である。
そこえ、真っ暗な海上に小さな光が見えた。その光は疾風の如き速さでみるみる近づいて来る。敵か味方か分らない。船上のかがり火が確認される位置に近づくと「わたしは三浦義澄様の使いで馳せ参じました仁右衛門という者、頼朝様の舟とお見受けしました」と大きな声がした。

頼朝一行は「おおっ」と歓声を上げた。二丁艪の達人で安房近海を知り尽くしている仁右衛門は「ご無事でなにより。この吉報を安房でお待ちしている殿方に伝えに戻ります。また、お待ちする場所を後ほど案内しますので、この辺りでお待ちください」と声を掛け終えると安房に向かって引返した。
二丁艪の息が合った桁外れの速度に頼朝一行は度肝を抜かれたが、真っ暗な海上で不安感が募っていた矢先の出来事に安堵感を抱く雰囲気に一変した。海の知識に乏しい頼朝にとって強く感じられたのは「これは使える」だったに違いない。二丁艪の特長は横揺れが少なく船足が極めて早いことである。



安房の国には三浦軍・和田軍の親戚縁者も多く三浦半島との海運は盛んで現在の東京湾方面との交易も行われ、仁右衛門などの安房の漁師達との繋がりも深く、三浦軍の戦ともなれば海戦に褒賞目当てに一役買う漁師も多かったと伝えられている。

史実として三浦義澄と平家方の長狭常伴とが戦った「一戦場の戦い」の際、頼朝が逃げ込み隠れたとされる仁右衛門島がまことしやかに語られる場合が多いが、一戦場の戦いは長狭常伴が頼朝の宿舎を夜討しようとの企みを嗅ぎつけた三浦軍の間者から三浦義澄の耳に入り、出陣した長狭常伴軍を一戦場で待ち伏せしていた三浦義澄軍が奇襲を掛け勝利したというもので、頼朝は奇襲戦に参列しておらず宿泊所に居たのである。つまり、頼朝は仁右衛門島には一度も行っていないのである。
ちなみに吾妻鏡には翌日の9月4日には宿舎にて安西三郎景益と面会し、翌5日には須崎神社に詣でている。

さて、真っ暗な海上で待機していた頼朝一行は、踵を返し戻って来た仁右衛門の舟の案内にて北条時政・三浦義澄が待つ安全な浜へ直行し8月29日早朝に安房郡鋸南町竜島に辿り着き、味方軍の歓びの出迎えを受けている。その後、頼朝は武蔵・相模・甲斐などへの勅使乗船と手紙送付については陸路より安全で且つ早い海路を活用しており、仁右衛門の果たした役割に対し「平野」という姓を与えるとともに仁右衛門島付近の漁業権と仁右衛門島を安堵している。頼朝が漁師に苗字(武士)を与えた誠に稀有な褒賞であり、看過できない裏事情を感じる。

そもそも源頼朝の安房入りには疑問が残る。将棋で王将を守らなければ、どんなに飛車・角・金・銀の駒が残っていても敗北となる。しかし、三浦義澄や北条親子は王将(頼朝)より先に安房に王将(頼朝)を置き去りにして逃げている。海運に明るい三浦や和田の武将達ともあろう者が誰も王将(頼朝)の安否捜査と救援に船をださなかったのか不思議でならない。場合によっては切腹ものである。筆者は当初、浦賀水道を熟知した仁右衛門に命じ真鶴岬に二丁艪の船にて頼朝一行を迎えに行かせ安房の安全な場所に案内したのではと推測していた。

ところが、真鶴岬からの船出に関する資料を追跡調査するに土肥定平の配下・土肥の住人貞恒に命じて平舟を用意させ、漕ぎ手三名が乗船したとの記事に接したため上掲のストーリーを描き、仁右衛門舟による途中出迎えの図式としたものであるが、もう少し深堀するならば、まず、土肥の住人貞恒に命じて平舟を用意させ、漕ぎ手三名を乗船させ、まず「頼朝様ご無事」の伝令として安房に向かわせ、仁右衛門が頼朝一行を迎える形で大役を果たしたと見る方が自然かも知れない。仮に途中にて敵舟に追いかけられても二丁艪の速さでは追い付けない。浦賀水道を夜間航行するには相当な技量と知識がなければ安全の確保と正確な着岸は不能視されるからである。
それが、仁右衛門に対する頼朝の唐突な褒賞の真相だったのではないか。

ここからは、作戦上秘密裏のことで史実として表面に上がっていない事柄について私見を述べてみたい。大軍勢を有する上総介広常からの煮え切らない返答に対し頼朝は広常が敵方に付くかも知れないと猜疑心を抱かざるを得なくなった。上総介広常の腹つもり如何により、何時敵方に豹変し大軍を向けられるか分らない恐れがあった。つまり、この差し迫った時期に安房での長期滞在など悠長なことはしていられない。上総介広常の返事を悠長に待ってはいられない危険シグナルを頼朝は直観している。したがって、安房の東に向かい太平洋側迂回北上ルートは上総軍に包囲される危険性が高くなる。また、上総の中央突破は300騎内外の兵力では到底無理である。

頼朝は千葉介常胤との合流を目指し北上を決意する。吾妻鏡に北上ルートは明記されていない。推定の域を出ないものの上総を抜けたルートとして概ね@太平洋側迂回北上A中央付近の陸路北上B西海岸沿いの陸路北上とする大方三つの意見に分かれている。私はBの西海岸線沿いの陸路説を取りたい。なぜなら頼朝は真鶴岬から安房への海路脱出の妙を身を以て体験したばかりであるからだ。大庭景親の軍勢を大幅に上回る上総介広常の軍勢に頼朝軍300騎が攻められれば、石橋山の戦い以上の惨劇になるのは火を見るより明らかであるからだ。

西海岸にも平家方の国司や地方豪族がいるには違いない。しかし上総介広常以上のまとまった軍勢の比ではない。万が一の備えとして船足の早い二丁艪の平舟を複数海上に伴走させ、戦いとなった場合には主力武将は舟に逃げ込み、海路を北上し千葉介常胤のもとへ直行することも可能だからである。
運が良いことに頼朝軍の前を遮る戦は結果的に生じなかった。海路北上の第四のルートは実現しなかったが頼朝は用意周到に万が一の備えをしていた筈と私は考察している。

ちなみに、富津市・君津・木更津・袖ヶ浦・市原一帯には数多くの頼朝伝承が残されている。「吾妻鏡」には房総半島に関する記事は意図的に記されておらず推定の域を出ないが、その先導役は安西景益・和田義盛が務めた筈と見ている。その他、千葉県各地に伝承されている頼朝伝説は、頼朝が派遣した勅使が頼朝と見做されたか、一戦場の戦いの如く三浦義澄軍に頼朝が参戦していた筈と想像されて兎角の噂話として残ったものと思われる。

いずれにせよ、頼朝の真鶴岬からの出航の実体験は、鎌倉に都を造ってからも相模から安房までの海の道を十分意識するきっかけとなったことは間違いなさそうである。弓ヶ浜の外部船舶の着岸禁止と監視網の強化。伊豆地方からの年貢米の舟の航路は、江の島の境川河口から大船に運び、大船から鎌倉まで陸路を通り切通しの関所を経て鎌倉に至る通行ルートを造っている。弓ヶ浜方面からの攻めに対しては言うまでも無く三浦軍と和田軍の海軍力を強化している。
治承4年(1180年)8月17日頃 治承4年(1180年)10月6日頃

源頼朝と地方豪族を結び付けた時代背景】

治承3年(1179年)11月14日、清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)と呼ばれ、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件である。中央人事では16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官されている。

諸国の受領地の大幅な交替も行われ、平氏の知行国は政変前前の17ヶ国から32ヶ国になり、「日本秋津島は僅かに66ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及ぶ」(『平家物語』)という状態となった。後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった。

新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こった。特に、この時に交替した上総・相模では有力在庁の千葉常胤・上総広常・三浦義明が平氏の目代から圧迫を受け、源頼朝の挙兵に積極的に加わる要因となった。在地豪族の代々引き継がれて来た領地を新たに派遣された国司や目代が我が物顔で奪い去っていく理不尽な平家方への義憤と不安は大きく、1181年西日本を襲った養和の大飢饉の前年1180年より降雨量は極端に少なくなり都に住む平家の食糧事情を補うための関東地区での食糧調達に拍車がかかったとの見方もされている。表面上平家方に追随していた地元豪族と平家方との対立は激化していたのである。治承三年の政変がなければ、恐らく上総介広常の2万の軍勢は脆弱な頼朝軍に襲いかかっていたに違いない。

このような時代背景が手伝い、頼朝丸は平清盛が巻き起こした旋風を順風満帆に受け止め出航したのである。


【源頼朝の残影を追う】
私は、源頼朝の石橋山の戦いからの第二矢が鋭かったと表現した。真鶴岬から海路を取り翌日29日には安房に上陸し、北条時政や三浦義澄などの味方と合流している。また、源頼朝の許に、安西景益が一族と在庁二、三名を伴って参上したことが知れるが、安西景益の助言を聞き入れ安西家の館に入り、上総介広常に直接交渉に一刻も早く出向きたい気持ちを抑え、陸路行進の平家方の反撃リスクを避けることを決意し、二人の勅使を上総介広常と千葉介常胤に派遣している。

次に、北条時政を甲斐源氏へ向かわせ、後の駿河攻め「鉢田山の戦い」の布石をとっている。木曽義仲に対しては文覚を飛ばし、武蔵の国の地方豪族に対しても敵味方の差別なく文や勅使を次々に送り出し源頼朝軍への加担要請を矢継ぎ早に行っている。それらは全て陸路では無く三浦一族の海運力に負う海路の活用があった。

千葉介常胤の色好い参戦の意向を知るや上総介広常の動静は棚上げとして安房を出立し千葉介常胤の館に向かっている。9月17日千葉介常胤の参陣を得るや直ちに鎌倉に向け出立、上総権介広常(かずさのごんのすけひろつね)は、上総国の周東・周西・伊南・伊北・庁南・庁北ら2万騎を率い、隅田川の辺りで源頼朝のもとに参陣した。

源頼朝は上総権介広常の馳参の遅さを叱責するが参陣を許している。3万近くの兵力となれば武蔵・相模の武士達も軽々に手出しは出来なくなるし、三浦氏・千葉氏・上総氏などの加担の事実は源頼朝の存在を再評価せざるを得ない空気を生み出していた。ここで、先に安西景益の館でしたためた手紙の効果が後押しした。

かつて、石橋山の戦いでは敵方に就いた武蔵の江戸重長・葛西清重などや秩父の地方豪族などの参陣が得られ、鎌倉に着いた時点で、約7万騎の軍勢に膨らんでおり、もはや上総権介広常の反旗に怯える必要も無くなった。

なぜに、短期間に桁違いの軍勢が形成されたかである。ひとつは平清盛の晩年における失政である。「平家にあらずんば人にあらず」と言わしめた平家一門の独裁体制、平家による地方豪族の土地の奪取に対し表面上は平家方と見せて平家に諂っていた地方豪族も目に余る先祖伝来の土地の奪取に事実上屋台骨が傾き平家への反感がつのっていた。

加えて、後白河法皇の幽閉、後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった。貴族や大寺院・神社なども平家の専横に背を向け始め、朝廷と平家の乖離が関東武士階級にも認識されるようになっていた。そこえ、近畿から西に起こった大飢饉が平家の足元を崩し始める。
大飢饉が関東地域の土地の奪取に繋がったかも知れない。

頼朝は「御恩と奉公」という新しい概念を導入した。武士の根本は「一所懸命」である。頼朝は武士が土地を何よりも欲することを知っていた。敵対する地方豪族の首を取ったら褒賞として領地を分配し安堵して行く。武士たちは戦となれば目の色を変えて馳せ参ずるのである。

御家人」という棟梁直下の身分制も設けている。後年、上総権助広常が謀叛を企てたとして梶原景時に命じて暗殺させていることなどを鑑みれば、どうも頼朝は2万騎もの大軍勢を有する大豪族より300騎〜500騎程度の兵力の中小規模の武士団を数多く直接差配する方が好みだったと見られ、1〜2騎の小さな家臣の顔・声・性格・戦いぶりなどを良く憶えていたとのエピソードは多く残されている。

頼朝は「富士の巻狩り」と「那須の巻狩り」と大きな巻狩りを二度催しているが、対外的に源頼朝軍の軍事力をアピールしただけではなく、多くの御家人を狩り陣近くに布陣させ親しく懇談し、棟梁と御家人相互の意思の疎通を図っている。蛭が小島での孤独な日々を晴らすように御家人との結び付きが強まる巻狩りが心底好きだった。

また、頼朝は味方戦死者の弔い詣でも行っている。そして残された家族へ寺社を創建したり土地の寄進や税の免除等きめ細かな配慮を見せている。これは現代で言えば家族保険に当たる。いや、棟梁の直々の弔い詣でをいただくのは武士の本懐・武家の誉れであり、武士が後顧の憂いなく安心して死んで行ける土壌を創っている。

ただ、石橋山の戦いで戦没した北条時政の嫡男・宗時の墓参りに一度も詣でることは無く、時政としては無念の境地に置かれていたに違いない。後年、函南桑原の寺に北条時政は宗時の弔いのため阿弥陀如来及両脇侍像(国指定重要文化財)を鎌倉仏師に造らせ奉納している。

10月20日の富士川の戦いを待つまでも無く、10月14日に行われた鉢田山(愛鷹山の古称)の戦いで実質的に源平合戦の帰結は決まっていた。この戦いで駿河の国は甲斐源氏のものとなり、甲斐源氏と源頼朝軍の合流により、平家は既に軍勢の数・兵糧の多さ・兵士の士気において劣勢に立っていたのである。

頼朝は富士川の戦いの勝利に乗じて都への進軍を主張したが、主力の武将から関東の敵方攻略をして背後から固めるべしとの進言を受け入れ反転している聞く耳と柔軟性を有している。また、鎌倉において神社仏閣を建立し優秀な住職を抜擢、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる書始を行い、右大将家政所を司る四等官として政所別当に大江広元、令に主計允二階堂行政、案主に藤井俊長、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、門注所執事に三善善信、侍所別当に和田義盛、侍所所司に梶原景時、公事奉行人に藤原親能他6名、京都守護に外戚で公卿でもある一条能保、鎮西奉行人に内舎人天野遠景を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めている。つまり、有能な人材を次々に登用し内部管理面の強化を図っている。


【源頼朝が愛した茅ヶ崎の地】
奥州征伐も終え、見渡す限り政敵に成り得そうな軍勢が居なくなり、手狭な要塞都市・鎌倉に閉じ籠っている必要から解放される欲望にかられていったと見たい。

ただでさえ、広大な富士の裾野や那須の高原での巻狩りが大好きな頼朝にあっては鎌倉大蔵幕府内にあった自分の館内に居ることは気の休まる場所では無かった筈であり、病弱な長女・大姫への気疲れや妻・政子の嫉妬心から来る猜疑心からの解放を求め、晩年の頼朝は鎌倉西方の茅ヶ崎の地を頻繁に訪ねている。いわば、頼朝にとって鎌倉は手狭で息苦しい、逃げ出したい心境となって行ったに違いない。

茅ヶ崎の地には鶴嶺八幡宮が鎮座する。天喜3年後(1055年)の前九年の役の際に源頼義が祈願したに勝利を収めると、康平6年(1063年)、戦勝に報いるため懐島八幡宮を鎌倉由比郷に鶴岡八幡宮の前身である元八幡を建立したという。その後、応徳2年(1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進し、懐島郷の隣の浜之郷に鶴嶺八幡宮を創建した。この時期に元八幡の旧社であることから懐島八幡宮は本社宮と改称したという。

また、その懐島(ふところじま)郷には流人時代から遊んだ臣下・大庭景義の館がある。敷地7000坪と伝えられることから、この時代最大の館であった。当然、頼朝の事前了承はあった筈だ。その館の背後に守られるように頼朝の側室・丹後局(頼朝の乳母・比企掃部允と比企尼の子で、比企能員の妹)の館「桜屋敷」があった。

北西の寒川には頼朝が信奉する寒川神社が鎮座し、武勇に長ずる梶原景時の館もあり、防衛の面でも安心できる環境にある。大庭景義の館の西隣には景義建立とされる宝生寺がある。同寺の境内に 阿弥陀堂がある。 善光寺式三尊の金銅仏を安置している。1959(昭 和 34)年 6月 27 日、国の重要文化財に指定された。私見ではあるが、当時地方では極めて珍しい金銅仏を京仏師に造らせたのは頼朝以外には考えられない。二度の都訪問により文化の違いを目の当たりにして神社仏閣の創建に力を尽くして来た頼朝にとって金銅仏は是が非でも移入したかった宝物だったに違いない。実際に手配したのは神護寺の文覚あたりだろう。

この仏像は大庭景義の建立した菩提寺・宝生寺の境内にある阿弥陀堂に祀られていたことから、通説として景義が仏師に造らせたものとの説になっているようだが、疑問視する向きもあるようで、私は薬師如来像で無く阿弥陀菩薩像であることから建久8年7月14日(1197年8月28日)に死去した頼朝の長女・大姫の弔いのため頼朝が京都の金銅仏師に頼んで作らせたものと睨んでいる。



さて、源頼朝が相模川の架橋祝賀に参列し、その帰りに落馬して川に転落し鎌倉に移送されず桜屋敷にて息を引き取ったとされる一件であるが、大正12年(1923年)の関東大震災の時に、流砂現象によって、茅ヶ崎市の国道1号線の南側の水田に直径60cmのヒノキ材3本が出現した。 また翌年1月15日の大地震でさらに4本が出現。日本最古の橋ぐいとして、大正13年7月史跡保存指定があり。広さ100平方メートルの池で保存されていいる。

この新事実により分かったことは相模川が鎌倉時代には現在の位置よりも1km以上東に流れていたことであり、鶴嶺神社の直近にあったことであり落馬した場所は「八的ヶ原」(やつまとがはら)だとされている。鎌倉時代に弓の練習場として八つの的が置かれたことから「八的ヶ原」と呼ばれていた。八的ヶ原は現在の藤沢市辻堂だという。辻堂には、源頼朝が勧請したとされる宝泉寺もある。つまり、戻ろうとしたのは鎌倉では無く桜屋敷方向だったことを雄弁に物語っている。


 
 この橋は源頼朝の重臣 稲毛三郎重成(いなげよししげ)が、亡き妻の追善供養のために建久9年(1198)12月2日に落成したものと言われている。 当時の相模川は水量も多く、川越は難渋を極め、渡船事故などで多数の命が失われていた。 重成は妻の没後、出家したが社会への報恩のために3年かかりで架橋したと言われる。この作られた橋の長さは60m、幅員は7m位(3本が横一列に並び、4列あるのでこう考えている)もある巨大なものと推定されている。

だが、考えるまでも無く鎌倉に近い川の架橋ともなれば防衛上の観点から当然頼朝の事前の承認が必要となる。巨大な橋には技術力と莫大な費用もかかる。稲毛重成が、亡き妻の追善供養のために落成と伝えられているがs土木技術の持たない武蔵国の地方武士が軽々にこなせる事業では無い。頼朝が練った計画で表面上の施主が稲毛重成とした方が分り易い。江戸時代に入ってからも相模川に橋は架けられていないのである。

上記の頼朝の行動を鑑みるに、事実上の天下人となり強大な軍事力を持つ立場になった頼朝にとって要塞都市・鎌倉は、もはや手狭になりつつあったと考えられる。西は自然の防御壁・箱根山麓までの広大な領地は頼朝の新たな都に成り得ると確信する。その第一歩としての事業が相模川の架橋ではと思えて来るのだ。頼朝がもし早世しなければ旧態然とした鎌倉に大人しくおさまっている筈はない。鎌倉は要塞機能を城として温存して残し、祖先の残してくれた鶴嶺八幡宮を祀る茅ヶ崎の地に頼朝御殿を構築したかも知れない。

 頼朝はこの橋の渡り初めをしたのだが、祝宴を終えたころ橋に慣れない馬が暴れだし、頼朝を乗せたまま馬が川に転落する。頼朝は頭部を強打し、川の水に顔を沈ませ気を失った。17日間の闘病も虚しく翌正治元年1月53歳で亡くなった。以来このあたりの川を馬入川と呼ぶようになった。


【源頼朝は父祖の縁を生かした】

頼朝の家人の多くは、関東に住む武士であった。彼らの家は、頼朝の先祖である畿内の河内源氏の源頼信、源頼義や源義家から恩を受けており、頼朝の父・源義朝に従っていた者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げた。また挙兵後には、平家の天下の下で苦しんでいた同族兄弟が、多く集まり従っている。関東平定後は、京都から公家を鎌倉に招き、政務の助けとした。これら頼朝に仕えた家人は、御家人と呼ばれ、諸国の守護地頭に任じられ、子孫は全国に広がっていった。以下に主な家人を列記する。

北条時政 - 頼朝の義父・北条義時 - 頼朝の義弟・安達盛長・佐々木定綱・佐々木盛綱・佐々木経高・佐々木高綱・三浦義澄・稲毛三郎重成 - 北条政子の妹を娶る・工藤茂光・工藤祐経・土肥実平・岡崎義実・天野遠景・加藤景廉・大庭景義・和田義盛 - 侍所別当・千葉常胤・千葉胤頼・上総広常 - 誅殺・梶原景時 - 侍所別当・梶原景季・葛西清重・足立遠元・畠山重忠・河越重頼 - 誅殺・江戸重長・宇都宮朝綱・八田知家・常陸入道念西(伊達朝宗)・伊佐為宗・佐竹秀義・比企能員・小山朝政・結城朝光・下河辺行平・下河辺政義・大江広元 - 政所別当・三善康信 - 問注所執事

兄弟(いずれも異母弟)
源範頼 - 流刑・阿野全成・義円・源義経 - 追放

源氏
平賀義信・大内惟義・源頼隆・浦野重遠・武田信義・一条忠頼 - 誅殺・武田信光・加賀美遠光・安田義定 - 誅殺・新田義重・新田義兼・足利義兼・源頼兼・源広綱・源有綱 - 追放・源光行 - 文官


八重姫 - 伊東祐親三女、千鶴丸母。病死したとも、頼朝を訪ねた際に政子のために会えず、悲嘆し韮山の真珠ヶ淵に身を投げたとも伝わる。
北条政子 - 正室、北条時政娘、頼家・実朝・大姫・乙姫母
亀の前 - 良橋太郎入道娘
大進局 - 常陸入道念西(藤原時長、伊達朝宗)娘。三男・貞暁の母
利根局 - 波多野経家の娘。大友能直の母。
子女
長男:千鶴丸 - 伊東祐親に殺される。享年3。一部では生存していて甲斐源氏逸見氏に預けられ、島津忠久となり九州の大名島津氏の祖となったという伝承があるが傍証は無く、現在は否定されている。
長女:大姫 - 源義高婚約者。享年20
次男:源頼家 - 二代将軍。伊豆修善寺に流され殺される。享年23
三男:貞暁 - 妾・大進局の子、仁和寺で仏門に入る。享年46
次女:三幡(乙姫) - 頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14
四男:源実朝 - 三代将軍。頼家の次男・公暁に殺される。享年28
龍前院(茅ヶ崎)の十基の五輪塔を斬る

大きさは茅ヶ崎市内最大で、このような比較的大型の五輪塔が10基もまとまってある例は神奈川県内でも珍しい。しかも十基全てが大きさ、基本形が揃っており、全ての銘が削られている。加えて静岡県三島市の石造物を観察して来た私が、この五輪塔に違和感を憶えたのである。



三嶋大社・浅間神社・若宮神社の石灯篭などで欠損したり修復されたりしているものが殆どだ。ところが龍前院の五輪塔は欠損は殆ど無く、後世に新造ないし修正を重ねたものに違いないと直感した。茅ヶ崎市ホームページでは「由緒は全く不明だが、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀前半)にかけて順次造られたものと考えられている。」とあっさり由緒不明と断定している。他のホームページでも「しかし調査の結果は、これら10基の五輪塔の製作年代はバラバラであった。そのため、これらの五輪塔は、鎌倉時代に懐島氏の後にこの地を支配した二階堂一族の墓であると推定されている。」と二階堂一族墓説を述べている。

普通の墓ならば、時代変遷に伴い形も大きさも変わる。形も大きさも揃えた墓など見たことは無い。彫られた銘を全部削り落とす罰当たりをする必要もなかろう。万巻上人の愛した函南桑原を執筆した私が閃いたのは、鎌倉時代から江戸時代にかけて作られて来た十二神将立像のことである。造られた年代はバラバラなのである。鎌倉時代当初に既に十二躰揃っていたからこそ十二神将立像と呼ばれて来たのだ。昔の日本人は昔からある古いものを大切に保存した。龍前院の歴代の住職も理由の如何を問わず「十基揃った五輪塔」を境内に守り通して来たと見たい。

湿度が高く、台風地震多発の我が国にあっては、木像の仏像しかり、石造物の多くは損壊の憂き目を見るのが当たり前で、むしろ、創建時当時のまま温存されている方が非常に稀有な存在として捉えなければならない。私は早速茅ヶ崎市周辺に起きた地震の歴史を調べて見た。驚くことに鎌倉の大仏さんも大津波に襲われていたのである。

茅ヶ崎付近の地震の歴史を紐解こう
1241年5月15日(5月22日)(仁治2年4月3日) 鎌倉で地震 - M 7、津波を伴い由比ヶ浜大鳥居内拝殿流失。
1293年5月20日(正応6年4月13日)鎌倉大地震 - 死者23020人。三浦半島にこの地震のものと見られる津波堆積物あり。旧相模川橋梁も上記大地震のいずれかで一気に泥中に埋没したものと推察している。

茅ヶ崎付近を襲った津波
o 1241年5月の相模湾の地震(M7.0)では,由比ヶ浜の八幡宮の拝殿が流出。
o 1498年9月の地震は,遠く遠州灘(M8.6)にもかかわらず津波は鎌倉大仏殿に達し流死200名。
o 元禄地震(1703年,房総近海,M8.2)では,由比ヶ浜二の鳥居まで浸水,死亡600名.藤沢,平塚でも大波上がり,片瀬では住家の流失をみたという.津波の高さは鎌倉で8メートル,片瀬6メートル,藤沢は4メートル,大島で10mであった。

上記のような大地震ないしは大津波により、当初の十基の五輪塔は壊滅的破損を免れなかった可能性は高い。先に述べたが石造物は地震に弱い。鎌倉時代末期に入り精巧な復元五輪塔が記念碑的に新造され、南北朝時代初期には五輪塔の大修理と一部取り換えが行われたと推評すれば、五輪塔の製作年代がバラバラであることが当りまえに頷ける。江戸時代、大正時代と地震に襲われるが、その都度補修は行われて来た。現在、五輪塔の大きな欠損が見られないのがなによりの補修して来た証左である。

関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の大地震の際に小出川沿いの水田から7本の木柱が出現した。その後の発掘により地中になお3本あるのが発見された。当時、沼田頼輔博士が『吾妻鏡』にもとづいて鎌倉時代の相模川の橋脚と考証し、中世橋梁遺構として高く評価されている。沼田頼輔はこの橋を「鎌倉時代1198年に源頼朝の家来であった稲毛重成が亡き妻(頼朝の妻の北条政子の妹)の供養のために相模川に架けた大橋である」と鑑定した。大正15年(1926年)10月20日に国の史跡に指定されている。ただし埋没した理由は明記されていない。

この橋が何百年間、何故に朽ち果てなかったかは、一気に土中に埋没し大気から遮断されたことに起因する。下の画面はFlood Maps (GoogleMaps)Sea level rise +7mを使って津波高7mを想定した航空写真である。ここで茅ヶ崎の地形は広範囲に亘り標高が低いことに注目する必要がある。旧相模川馬入橋が架橋されてから鎌倉には少なくとも二度の大地震が起きている記録があり、このどちらかの大地震津波により旧相模川橋が土中に埋没した可能性を先に指摘した。同時に龍前院も壊滅的被害を被り、寺ごと境内は流され荒野と化した可能性はかなり高いことをこの地図は示している。やっと鎌倉時代後期に入り生き残りの曖昧模糊とした記憶を頼りに龍前院と十基の五輪塔が新造された。



l龍前院の現住職から「同寺口伝」に関する話に接していないが、頼朝が馬入橋の橋供養のときに馬が暴れて落馬し、それが原因で頼朝が死亡したため、責任を取って切腹した警護の武士10人のものだという伝承は、記録では無く口伝にて世間では軽視されがちではあるが、頼朝が設けた親衛隊10人と五輪塔十基が符合する。そして歴代の住職が連綿と十基の五輪塔を維持管理して来た。よほどの由緒口伝が無い限り費用の嵩む五輪塔維持に努める筈がない。製作年代がバラバラであるという調査結果だけで親衛隊十人の墓では無いと否定される方向になっているが、私はもう少し龍前院の五輪塔を深堀したいと考えている。歴史を別の切り口から見直すことにより、旧相模川橋と龍前院の十基の五輪塔が茅ヶ崎市の自然災害に対する脆弱性ある立地を語り出すとは予想だにしなかった。
茅ヶ崎市は、縄文海進当時、相模灘の湾だった可能性も高く、大津波は旧相模川を駆け上がり島の付く地名部を残して低地部を呑み込み寒川神社辺りまで津波による瓦礫が北上したのではと上の画像は語っている。

茅ヶ崎市は、自然災害警鐘のシンボルと成りえる龍前院の十基の五輪塔を、いま一度防災の観点から追跡調査する必要があると願うものである。馬入橋は地震により埋没し、地震により土中より顔を出したのである。橋の杭は国指定遺跡となった。金銅の仏像も国宝に指定された。上記した五輪塔も鎌倉時代前期の創設されたものでは無いにしても、大きな津波に呑み込まれ、その後、慰霊碑として再建されたものとして捉え直されるならば、その存在価値は高いものとなるだろう。茅ヶ崎市の古い歴史は自然災害抜きにして語ることのできない稀有な頼朝が愛した街なのである。


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