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間眠神社(まどろみじんじゃ)の鳥居の注連縄(しめなわ)に宿る神意


間眠神社に毎年奉納される注連縄は、同境内から南南東へ直線距離約5.4km離れた韮山長崎の氏子連が穀物を代表とする米を育んだ稲わらを入念に編み込んだ注連縄(長さ・一丈≒3m、胴回り・六尺≒1.8m、重量≒80kg)が鳥居にかけられている。

大正4年(1915)大正天皇の即位の大嘗祭を祝し、不心得な長老の浅知恵から木彫りの大しめ縄を作り奉納したことがあった。編むのに手間が掛かるため木彫りの注連縄に変えたところ疫病が蔓延し、これを村人達は神罰と受け止めて藁の注連縄に戻したと伝承されている。



そもそも間眠神社の祭神・豊宇気毘売命(とようけびめのみこと)は、日本神話に登場する神。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている。古事記では豊宇気毘売神、日本書紀では豊受媛神と表記される。神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神なのである。

後に、他の食物神のオオゲツヒメ・ウケモチなどと同様に、稲荷神(ウカノミタマ)(日本神話に登場する神。『古事記』では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、『日本書紀』では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と表記する。名前の「ウカ」または「ウケ」は穀物・食物の意味で、穀物の神である。(両書とも性別が明確にわかるような記述はないが、古くから女神とされてきた)と習合し、やがて同一視されるようになった。

下の絵は豊受姫命(とようけひめのみこと)の尊像だが、両手には脱穀前の米の付いた藁が添えられている。正月飾りが玄関にかけられているが、これも稲わらで作られておりナンテンや松ぼっくりなどで飾られているが農家の中には脱穀前の米の付いた藁を1〜2本編み込むと次の豊作が見込まれると信じられていた。

縄文土器は稲わらの縄にて模様を付けられた土器であるが、食事と稲との縁は深く、何千年もの歴史を織りなす穀物の神・豊受姫命は、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、伊勢神道(度会神道)では、この世に最初に現れた始源神であると述べている。


その食物・穀物を司る女神に対し、穀物の代表とされる新米を育んだ稲わらで造った注連縄を奉納してこそ先秋の確かな実りを育んだ稲わらを神前に奉納しお礼申し上げ、来秋の実りを改めて祈願する習わしが稲わらの注連縄に込められているのである。往古の習わしには、それなりの意味が含包されているのである。

祭神の遷祀は、ほとんどの場合人為的に行われることが多い。しかしながら間眠神社の場合は天の力による遷祀と謂えよう。鎌倉時代よりずっと以前に天災により流されたにせよ、天災に乗じて豊受姫命が求める元来あるべくの神域へ自らの強い願いで遷座したという捉え方もある。この考え方から遷祀元と遷祀先との互助的融和関係が萌芽したと思えるのである。

それにしても、韮山北方の稲荷祠は何時現在地に流されたのか。明記している古文書に接しられない。だが治承4年(1180年)韮山蛭ヶ小島流嫡の頼朝が源家再興の大願を立て、三嶋大明神に百日の丑刻祈願の途上、路傍の祠の松の大樹の下にしばし下睡の夢を追われたと伝えられている。

路傍の祠とあり、境内の祠では無い。路傍とは現在の間眠神社境内前の路幅の狭い前道を指し、祠とは韮山で造られた石で作られた小さな祠だったに違いない。木造の祠だったら粉々になって痕跡を残さなかった筈だ。その祠の近くにある松の大樹の根元でまどろんだことから、後世、源頼朝が天下人になると世間がほって置かない。やがて境内が線引され社(やしろ)が建てられた。これが「間眠神社」と呼称されるようになったいきさつであろう。

この伝承により韮山北方の稲荷の祠は1180年のずっと以前に流されたことが類推できる。言い換えるなら、源頼朝がまどろんだ当時は路傍の祠であったが、社(やしろ)や鳥居が建造されてから、少なく見積もっても800年間も累々と間眠神社の注連縄は韮山長崎から搬入奉納され続けて来たことを意味している。それも狩野川の大洪水が起きたであろう8月1日に搬入奉納されていると類推される。

1180年以前の狩野川大洪水により韮山の稲荷の祠が流されたことは線引できた。それ以前の狩野川の大洪水について資料は皆無に近い。狩野川流域に残る最も古い洪水の記録は、飛鳥時代の和銅2年(709)のもので、稲苗の被害が大きかったことが伝えられている。また、平安時代前期の承和5年(838)にも、大雨による被害があったという記録が「続日本後紀(しょくにほんこうき)」に残されている。その後、多々狩野川の洪水はあったろうが鎌倉時代に韮山の守山を掘削し狩野川の流れを西に変え東側への狩野川蛇行氾濫は減ったことが伝承されている程度で、江戸時代まで大洪水の記録は確認されていない。つまり、大洪水の起きた年代を特定できる資料に接する事は出来ない状況にある。

鎌倉時代は、姓に代わって苗字が一般化した時代であった。これは、鎌倉幕府草創の時に、初代将軍源頼朝が、自己の直属家臣である御家人に、支配者たる自己とその近親者と、被支配者たる御家人とを明確に区別するため、また、朝臣ではなく将軍の家臣であることを強く認識させるため、姓ではなく苗字を名乗るよう要求したためである(姓とは基本的に朝廷から与えられるものであり、苗字は将軍から与えられた領地の名称に発することが多いということに注意されたい)。

長崎氏が統治した長崎村から流された祠の近くの松の木の根元で源頼朝がまどろんだとされる神社が形成されたとなれば、長崎氏郎党は知らん顔は出来る筈がない。村民こぞって間眠神社の鳥居にとりつける大注連縄の奉納は、是が非でもやり遂げねばならない年行事に繋がって行く。北条時政が源頼朝の命に従い三嶋大社の社・境内・神池などの造営や下田街道の改修工事や鳥居の造営などに尽力していたことも相俟って、北条時政の臣下達も間眠神社形成への後押しに力を傾注したに違いない。

三島市のホームページ・(第179号) 〜韮山町長崎から奉納される〜 「間眠神社の大しめ縄」にこの長崎地域は平安時代末、源頼朝が三嶋大社に寄進した土地として有名との記述に接した。なぜ、源頼朝が長崎の地を寄進したかの詳細な説明は無いが、現在に至るまで間眠神社は三嶋大社により祭祀され、韮山長崎より大注連縄が奉納され続けられている事実は否定できない。日本において類例の無い神社名・間眠神社(まどろみじんじゃ)の主人公はまぎれの無い源頼朝であることも否定できない。私見ではあるが三嶋大社の境内に厳島神社を遷祀した北条政子(安達盛長と懇意)を間眠神社の水面下の創設者と睨んでいる。

話は変わるが、山木遺跡(やまきいせき)は稲作(いなさく)を行っていた人々の生活がわかる遺跡(いせき)として伊豆を代表するもの。弥生時代後期(やよいじだいこうき)から古墳時代前期(こふんじだいぜんき)(約1800〜1700年前)の頃の生活の跡(あと)や、1200年くらい前の田んぼの跡が見つかっていて、韮山が昔から稲作のさかんな所であったことを示している。

遺跡発掘調査は何回も繰り返されて行われており広範囲に亘り水田跡や住居跡が発掘されている。私は山木遺跡の延長線上韮山北部(伊豆の国市長崎)に長崎と称される部落が形成され、既に稲荷の祠が祀られていたと睨んでいる。

さて、韮山長崎から北北西の方向に直線距離で約5.4km離れた場所に流されたという事態とはどういうものなのか調べて見た。韮山長崎は水田地帯で標高は9m〜12mと低い。一方、三島市東本町の間眠神社付近の標高は24mで川の流れは通常北から南に流れている。つまり、標高の低いところから標高が12m内外高い位置へ遡って流されている訳で韮山長崎はピーク時水面下10m余り水没していたことになる。ものすごい激流が渦巻く激甚水害であったことを物語っているのである。

標高10m内外から標高24m内外まで祠を打ち上げるエネルギー。これは、平野部における大きな河川の堤防決壊の洪水程度では起こりえないことを意味している。低気圧前線が長期間停滞し地盤が相当緩んでいた上に大型の台風が天城山一帯に豪雨が襲った。未曾有の雨量が田方平野を襲うことになる。

伊豆半島の中央部を北へ向かって流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に今でも多発している。この大洪水は、天城山系一帯では数千箇所の山腹、渓岸崩壊がおこり、狩野川上流部(高標高地帯)に巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を一気に襲来した可能性が高いことを意味している。




これだけの大洪水の下手人は狩野川以外には考えられない。狩野川の上流域は天城山(あまぎさん)(最高峰は万三郎岳 まんざぶろうたけ:標高1,406m)一帯の集中豪雨や箱根西麓からの狩野川支流域の大雨などが重なり大洪水となったものだろう。縄文海進の折りには間眠神社付近は古狩野湾の海岸であった筈だ。

源頼朝が昼寝した松の大木は、すでに当時は海退により海岸では無く間眠神社の南西一帯には「笠縫の里」と称される菅笠の産地が形成されていた。「万葉集」に三島菅笠が謳われる如く都人にも知られる菅笠の産地で海岸線は沼津に海退していた。それでも間眠神社付近は海岸であった植生が残っていたのか、なんとなく海岸に繁った松の木が連想され富士山も眺望できる、源頼朝のお気に入りの場所だったに違いない。
菅小路

上記を単刀直入に申せば、当時の狩野川は現在の狩野川ルートより東側を蛇行し、大洪水は北北西方向に建造物や作物を一気に押し流したものの、縄文時代の海岸線を越えることなく標高24m地点で稲荷の祠は打ち上げられたのである。

ともすれば知名度の高い源頼朝の立ち寄った神社と喧伝されている間眠神社であるが田方郡に頻発する狩野川氾濫による災害史を語る第一級の史跡であることも忘れてはならないと思う。
縄文海進と現在の三島市

さて、韮山長崎の農民が稲荷の祠を取り戻そうと祠を動かそうとしたが、どうしても動かないことから流れ着いた付近の住民との話し合いの結果、同所への遷祀で合意、翌年から注連縄の奉納が開始されたとWeb上で記されていることが多い。

しかし、標高10mから標高24mまで押し出すエネルギーは、おそらく稲荷の祠周辺の大部分の民家は壊滅的被害を受けたであろうし、田方郡全域の経済的ダメージも大きかった筈である。年貢も出せたかどうか分らない。年貢未納ならば中央の記録に災史が残る。それよりなにより狩野川満水の猛威への恐怖心は半端なものではなく、いつまた襲ってくるか分らない低地部へ大事な神を再び祀って大丈夫か大いに迷った筈である。

加えて、韮山長崎からほぼ一直線上に三嶋大社境内に向かって稲荷の祠は流れており、三嶋大社の膝元で止まっていることから祭神自ら三嶋大明神の神威を求めての神通力が働いたと捉える氏子もあり遷祀の方向に心が傾いたとの見方もある。



韮山長崎住民の信仰は厚く往古より毎年欠かさず8月1日の例祭には、大注連縄を氏子自ら造り神前に奉納する珍しき行事が今日まで残っている。仮に、韮山長崎の稲荷の祠が流された年を平安時代前期の承和5年(838続日本後紀)と仮定できるならば、2013年8月1日に至るまで、驚くことに1175年の歳月を数えることになる。

だが、稲荷の祠が現在地へ流された年代と、大注連縄が奉納され始めた年代はずれている公算が高い。源頼朝が立ち寄ったとされる当時までは、大注連縄の年行事は無かったと捉えたい。

前述した如く源頼朝が松の根元でまどろんだとされる1180年当時の様子は「路傍の祠」と表現されているように、境内を有する神社とはほど遠い存在であった筈で、当然、鳥居や注連縄の類も無い単なる「路傍の祠」だったのである。

やはり注連縄の起源は、源頼朝が亡き後、長崎郷の地名の由来とされる長崎氏の祖先とされる平盛綱は、初代執権となった北条時政の家臣(家令)となり、伊豆国田方郡長崎郷(現在静岡県伊豆の国市)の地を得て長崎氏を称したのに始まるとあり、稲荷の祠はずっと以前から遷祀されたものであるが、その後、源頼朝が天下人に出世するに「源頼朝がまどろんだ縁起の良いスポット」として庶民に強く意識されるようになり、間眠神社と呼称され境内・社・鳥居が形成されて以降に年行事とされたものと推測される。

もう少し正確に記すならば、一番最初に「頼朝公の間眠の松」が世に知られるようになり、「間眠宮」という祠が祀られ、あくまで、主人公は源頼朝だった訳で稲荷神の名前は出てこない。やがて後世になって三嶋大社の宮司により「豊受姫命」が主神とされたが、神社の名前は「間眠神社」と残された。この曖昧模糊とした経緯から神社成り立ちにベールが被されることになっている。

いずれにせよ、800年前後の長きに亘り引き継がれている全国的に見てもギネスものの大注連縄の奉納の儀式こそ祭典以上の価値があるものと評され、シャギリと組み合わせた神輿に乗せた大注連縄の奉納儀式は立派な絵(伝統文化財)になるに違いない。(現在はトラック搬送→神社直前にて人力搬送)

さて、徳川時代から昭和に至る主たる間眠神社の変遷を顧みれば、慶応元年11月火災のため社殿宝物ことごとく消失している。しかし、慶応4年造営再建され村社に列せられている。明治28年祭神を祀る内陣を旧二日町の住人で彫刻師の渡辺長吉が作成している。明治40年社殿の大修理を行い、本社幣殿を増築し、大正4年幣帛供進神社に指定せられ、社務所の改築、境内周囲の玉垣の修理を完成している。


大正初期の間眠神社・・・周囲に全く民家は視認されず源頼朝は松の大樹の下から富士山を眺めたに違いない。
右下は桜川、社叢右端から手前に一部前道が見える。平安末期の富士山は、むろん宝永山は存在しない。

間眠の松の二世が枯死した跡に三世の松を植え、紀元2600年記念事業として、昭和15年箱根山組合より一町歩の原野を借受け檜苗3000本を氏子総出動にて植林し、神社の基礎が整備されつつあった時、太平洋戦争敗戦の憂き目に遭遇した。新しい憲法下、供進制度は廃止され神社保有の田畑は没収され、宗教法人としてわずかに社殿と境内地および山林の保有を認められ、氏子主体の維持経営に移ったのである。

昭和20年敗戦後の復興めざましく、氏子の有志は、社殿が建造後100年を経過するに相俟って関東大震災・伊豆の大震災に被災損傷したのを憂い、社殿の改築を模索し始めた。その用材として伊勢神宮および三嶋大社の神木の払い下げを要請するなど社殿の改築を祈念して周到なる計画のもとに遂行され、昭和40年遂に社殿改築に漕ぎつけた。



上記の如く、韮山長崎の氏子・三島市五町内の氏子など区別なく間眠神社の祭神を祀り上げ、社殿修復など地域を超越した互助の精神が引き継がれて来たのである。三嶋大社の全宮司も神社復活に心を砕いており、1月1日午前11時から、新年恒例の間眠神社元旦祭が行われた。当町の役員を含め5町内の氏子会役員、来賓らが出席、三島大社鳥居宮司が厳かに催事を取り仕切り、それぞれの役員が神前に榊を捧げて町内、各家庭の1年間の無事を祈念した。

二之宮・浅間神社が毎年1月2日に催事するに対し年内初の元旦祭とされ三嶋大社としても間眠神社の祭神を重く受け止めていることが解せるような気がする。

さらに祭神・豊受姫命(とようけひめのみこと)を調べてみると、 外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている。また、神道五部書等の中世日本紀の成立に大きな影響を与えた『大和葛城宝山記』では、葛城から豊受大神の伝承を補強する書が出てくる。

伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、奈具社(京都府竹野郡)、籠神社(京都府宮津市)奥宮真名井神社で主祭神とされているほか、神明神社の多くや、多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。伊勢神宮内宮でも天照大御神に次ぐ神格の神であるとの認識であり三嶋大社の宮司が足を運び催事するに値する高位の神を祀っているのである。

間眠神社は、余りにも源頼朝の残影が強すぎて、どんな御祭神が祀られ、その御祭神がどのようにしてどこから遷祀されたものか、その神様がどのような神なのか、どのような神格の神なのか等々、三島市民や旧田方郡の人々が余りにも知らな過ぎる現状を打破したいものである。


【編者自由雑感】
今回、大注連縄に焦点を当て、通常とは異なる切り口から「間眠神社」の残影を追求してみた。加えて、ご祭神の遷祀の由来も別角度で捉え直し、ご祭神がどのような神なのかスポットを当ててみた。稲荷の祠が祀られていたという韮山長崎から、同稲荷が流された先・現間眠神社までの平面図、地形断面図を作成提示して大洪水がいかなるものだったか、読者の方々に視的イメージを共有していただきたかったのである。

さて、編集し終わって、幾つかの雑感が頭の中をよぎるようになった。まず、路傍の祠のそばの松の大樹の根元でまどろんだとの逸話を語ったのは誰なのかという点である。

三嶋大社の大鳥居をくぐったところに、赤松と黒松がひとつの根から生えている縁起の良い「相生(あいおい)の松」が植えられている。この場所は、源頼朝が源氏再興のために百日祈願をしたとき、従者の安達藤九郎盛長が頼朝を守護し待機していた場所と伝えられている。そう、源頼朝(33歳)がまどろんでいた時、同行していたのは安達盛長(45歳)しかいない。

安達盛長(あたち もりなが)は、治承4年(1180年)8月の頼朝挙兵に従い、使者として各地の関東武士の糾合に活躍。石橋山の戦いの後、頼朝とともに安房国に逃れる。その際、下総国の大豪族である千葉常胤を説得して味方につけた。頼朝が再挙して、鎌倉に本拠を置き関東を治めると、元暦元年(1184年)の頃から上野国の奉行人となる。文治5年(1189年)、奥州合戦に従軍。頼朝の信頼が厚く、頼朝が私用で盛長の屋敷をしばしば訪れている事が記録されている。「間眠」の語り部は安達盛長以外には考えられないのだ。

安達盛長は、生涯を通じての自負心を抱いていた。それは源頼朝が出世して遠い存在になるにつれ膨れて行く。それは自分が最古参の源頼朝の従者であり、源頼朝の出世前の動静を間近に見聞しているのは自分しか存在しないという自負心である。源頼朝は流人の身、けっして源氏旗上げの気配を微塵も周囲平家側に悟られてはならない境遇にあった。

むろん、三嶋大社百日詣は人目を避けた命懸けの行為だったに違いない。出世後は寝所の奥に大勢の警護兵に守られて安眠されてはいるが、当時は警護は私一人のみ。松の大木の根は堅かろうに源頼朝は安心してまどろんでいた。その豪放磊落な性格に盛長は魅せられた。今は、その大木の如く大きく高く成長されたが、あの当時が懐かしくてたまらない。今振り返れば、あの松の大木と稲荷の祠の導きがあってこその今があるのかも知れないと心許せる者に回想を漏らしたのだ。

当時の人は何より神仏の力を信じていた。三嶋大社への信仰は当然ながら、源頼朝がまどろんだとされる場所も畏敬の念で信仰の対象となる。とかく、初代執権の北条時政と三島宿との関係は取沙汰されることは稀だが、良く調べてみると三嶋大社の神池の造営や下田街道沿いの整備など源頼朝の命令にしたがい事実上監督差配しているのだ。とくに、北条時政の家令となり韮山長崎の土地を貰った平盛綱(長崎氏の始祖)の間眠神社の創建に対する力入れは想像に難くない。

もう一つ触れておきたいことがある。それは、源頼朝が路傍の祠の遷祀の由来を事前に知っていたのか否かである。源頼朝は信心深く天変地異などに非常に興味を引く性質だったと睨んでいる。

もし、遷祀の由来を知って立ち寄っていたならば、自分の宿命に重ね合わせ同類憐みの近しい情けを実感したに違いない。そして、まどろむというよりは、ご祭神の懐に包まれて大自然との和合・瞑想に入り、夢うつつの中に松の根を通して源頼朝の心身に大地・穀物の神・豊受姫命の言霊を吸収していたとも捉えられる。

私は、古武道に身を置いた者である。この世界は口伝に重きをなす。秘伝を記述物にすると忽ち本意が伝授できなくなる。記述物は改竄の対象となり誤りの元となる。師匠からの口伝と体捌きこそ手本となる世界だ。江戸時代末期まで口伝の世界が続く。ましてや、鎌倉前期の当時は、あらゆることを通して書物に書き残されることは滅多に無かった。全て口伝であったことを理解すべきだ。

つまり、史実として残される真実が極めて少ないことを意味している。私は長崎の稲荷の遷祀を知った者として二名を挙げたい。一人は安達盛長、もう一人は長崎氏の始祖・平盛綱だったと思う。この二人の稲荷についての知見の符合により間眠神社の創建は着々と進められたに違いない。が、源頼朝に遷祀の由来を語ったのは安達盛長しかいない。

つまり、史実とはならないものを、いくら追いかけたとしても、しかたのないことではあるが、安達盛長が稲荷の祠の遷祀の由来を源頼朝に話していた方がロマンを感ずるのは何故だろう。それは、長崎氏の始祖・平盛綱が古老の口伝と安達盛長が語る証言との符合により、韮山長崎郷の稲荷の祠が現在地の間眠神社へ流された伝承の裏付けと成り得たに他ならない。総じて、源頼朝との思い出が詰まる間眠の松(まどろみのまつ)を脳裏に刻む安達盛長こそが間眠神社創建の真の誘因者と考えるようになりつつある。


第六代まどろみの松 (高さ2m内外の小さな松) 2013/12/20撮影

日本史教科書は、鎌倉幕府の成立を1192年から1185年に前倒ししている。だが、源頼朝は1180年に既に堂々と臣下に「土地の安堵」を宣している。土地を自在に配分する力とはどういうものなのか?・・・それは源頼朝自身が「天下人」となったことを自認していなければ出来ない話である。

それまで朝廷は平家と源氏の軍事力のバランスに腐心し、そのバランスの上にあぐらをかいて来た。平家が滅び10万騎を超える軍事政権を樹立した源頼朝に敵するものは天皇を含め誰一人も存在しない。この軍事政権を支える土地・穀物の配分に細心の采配を振るい「御恩と奉公」という新たな概念を生み出している。

この流れを導いたのは豊受姫命とは言うつもりは無いが、天照大神の子孫・天皇家の旧態依然とした陳腐な政治体質に源頼朝が一矢を報いたのは事実である。爾来、600年以上の長きに亘り武家政権が続くことになる。1180年に源頼朝は、大きく化けているのである。→源頼朝が化けた1180年

いずれにせよ、上述の雑感は歴史学上から見てどうでも良いことであろうが、叙事詩的概念をどう抱いて眺めるかにより歴史の景色が違って見えてくるから不思議である。

【路傍の祠を探る】
私は、源頼朝がまどろん(仮眠)だとされる「まどろみの松」付近にあった「路傍の祠」の原風景を勝手に想像して、その祠は大洪水に痛んだ小さな石造の祠ではなかったかと睨んでいる。

もし、そうであるならば間眠神社の境内のどこかに残骸が残されているかも知れないと本殿周辺を探し廻った。本殿を囲う玉垣内には古い石造物は発見出来なかったが、鳥居左手の玉垣外の路傍に新旧の石造物が保存されており、その最左端にひっそりと置かれた小さな傷みの進んだ祠(下掲写真)を目認できた。

屋根と下部の石造物とは明らかに石材が違う様であり、修復が重ねられた元の姿をとどめた祠とは評し難いが、源頼朝がまどろんだとされる当時の路傍の祠の原型に近い祠の残影ではないかと、源頼朝が触れたかも知れない屋根を思わず撫でてしまった・・・。これは、筆者の勝手な思い込みであり、歴史的資料に基づいての仮定では無いので予め独断とお断り申し上げるが、どうにも気になる石造の屋根だった。

多くの訪問者が新しい本殿を目指し参拝するなかで、見落とされている壊れかかった石造物ではあるだけに
逆に間眠神社の氏子連は、この小さな祠を何故に保存続けているのか?史実を探りたいところではある。






【間眠神社の縁起を探る】

吾妻鏡に元暦2年(1185)8月源頼朝は神池において放生会を行い、その際糠田郷・長崎郷を三嶋大明神の料と定めたとあり、鎌倉初期の神池は源頼朝が放生会を開き、後年になり北条政子が三嶋大社の神池に厳島神社を勧請したと推定される。

したがって、三嶋大社の神池は元暦2年(1185)8月以前に整備竣工されていたことを意味し、これに相俟って源頼朝の下知により北条時政の手により三嶋大社の境内の整備や韮山北条邸と三嶋大社とを結ぶ牛鍬道(在庁道・旧下田街道)の整備と鳥居の建造等が進められている。

25年余り栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦い・壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい1185年4月25日)が終え数か月が経った時期に三嶋大社の神池で放生会が開かれたことになる。『吾妻鏡』文治2年(1186年)3月13日条には、「頼朝知行の国々(関東御分国)は、相模・武蔵・伊豆・駿河・上総・下総・信濃・越後・豊後等なり」とあり、武家の棟梁として確固たる基盤を築きあげている絶頂期だ。

→→→三嶋大社・神池の水源

間眠神社の縁起は火災などで灰燼に帰し、分らぬところとなっているものの牛鍬道(在庁道・旧下田街道)の側近に立地する間眠の松と祠の間眠宮化が行われたのは元暦2年(1185)8月以前に着工されていた牛鍬道(在庁道・旧下田街道)の整備事業と同時期だった可能性が高いことになる。

間眠神社の祭神・豊受姫命(稲荷神)は、元々韮山長崎の地に祀られていた祠だった訳で、狩野川大洪水に流されて現在地へ遷祀されたものであり、吾妻鏡に元暦2年(1185)8月源頼朝は神池において放生会を行い、その際糠田郷・長崎郷を三嶋大明神の料と定めたとあるは、源頼朝自身が間眠宮祭神遷祀の伝承を熟知していたことを意味し、頼朝自身が間眠宮の整備を下知したことも否定できなくなる。

三嶋大明神の神域より南6km離間した韮山長崎(現伊豆の国市)の郷を三嶋大明神の糧と定めたとなれば、間眠神社の事実上の創設あるいは再興したのは源頼朝自身ということになる。つまり、「源頼朝が伊豆に流されて20年の集大成としてまどろんだ大事な場所、その稲荷神を祭神として間眠宮と名付けるが三嶋大明神に祀られる事を託したい」との意味が込められていた。

仮に、源頼朝の死後に創設された神社ならば、源頼朝が何らかの形で神として祀られていたに違いなく、「間眠神社」という名称は残らなかったものと思えるのである。

※元暦二年(1185)四月小廿日癸酉。今日。迎伊豆國三嶋社祭日。武衛爲果御願。被寄附當國糠田郷於彼社。而先之。御奉寄地三ケ所有之。今已爲四ケ所也。相分之。以河原谷。三薗。募六月廿日臨時祭料所。被付神主盛方。〔号東大夫。〕以糠田。長崎。爲八月放生會〔二宮八幡宮。〕料所。被付神主盛成。〔号西大夫。〕是皆北條殿御奉令施行給云々。

※源頼朝は以下の4ヶ所の郷を三嶋大明神の神主・盛方と盛成に寄贈している。河原谷=(三島市川原ヶ谷)、三薗=(三島市御園)、糠田=(伊豆の国市原木字糠田)、長崎=(伊豆の国市長崎)



間眠神社の社叢と巨樹


狩野川流域災害史

流域
発 生 年
被 害 状 況
狩野川
寛文11年/1671/8月27日
「亥の満水」沿川一帯満水、人畜の死傷大。
狩野川
寛政3年/1791/4月8日
「第2の亥の満水」2丈3尺(約7m)の増水、田方平野はほとんど泥海。
狩野川
安政6年/1859/6月25日
「末の満水」2丈3尺(約7m)の増水、大仁から守木、一大湖水。
狩野川
明治23年/1890/8月25日
狩野川沿川の田畑、収穫皆無、韮山町四日町では床上7寸、放水路計画の陳情。
狩野川
明治36年/1903/10月1日
2丈1寸4尺(約6.5m)の増水、人家、作物に被害甚大、韮山では床上浸水6・7尺、修善寺温泉では旅館流失。
狩野川
明治43年/1910/8月7日〜10日
8月10日の大雨で田方平野一面の泥海、家屋流出の被害大、韮山町四日町では床上5寸、御園で2丈7尺の増水。
狩野川
大正3年/1914/8月29日〜30日
「亥の満水]と同規模の出水、韮山町四日町では床上2尺6寸、死者11名、負傷者4名。
狩野川
大正9年/1920/9月30日
韮山町四日町の床上2尺8寸の浸水、30日午前2時〜午後10時までの降雨量は173mm。大仁町、田中山に山津波が起り深沢川が氾濫。死者18人、負傷者1人、行方不明10人、全壊家屋12棟、流失住家52棟、床上浸水1、908棟、床下浸水665棟、田畑浸水2、270町歩。
狩野川
大正13年/1924/9月16日
狩野川沿岸肥田附近の増水は、平水位上1丈9尺4寸、韮山町の四目町山田宅床上1尺8寸の浸水、被害は田方郡役所調査によれば、堤防決潰49カ所、道路埋没流失14カ所、橋梁流失5カ所、浸水耕地1、433.6町歩、床上浸水1、902戸、床下浸水2、034戸等。
狩野川
昭和33年/1958/9月26日
狩野川台風。死者684名、行方不明169名、家屋全壊261戸、流失697戸、半壊647戸、床上浸水3、012戸、床下浸水2、158戸。
狩野川
昭和36年/1961/6月23日〜29日
28日の大雨で家屋全壊9戸、流失29戸、半壊1、195戸、床上浸水6、608戸、床下浸水6、366戸、浸水面積5、000ha。
狩野川
昭和49年/1974/7月7日〜8日
七夕豪雨。狩野川流域:沼津市では浮島地区を中心に死傷者8人、家屋の損壊34戸、家屋の浸水8、106戸の被害があり、西浦地区では崖崩れにより、沼津〜戸田の道路が寸断された。
狩野川
昭和57年/1982/9月12日
家屋全壊流失1戸、床上浸水190戸、床下浸水449戸、浸水面積302ha。
狩野川
平成16年/2004/10月9日〜10日
台風22号による被害。950hPaという非常に強い台風が伊豆半島を直撃して各地で幹線道路が寸断。伊豆市上船原では土砂崩れにより1名が死亡。
昭和33年狩野川台風被災状況

昭和33年(1958)9月21日に太平洋上のグアム島沖で発生した狩野川台風は、勢力を強めつつ西北に進み、26日の午後9時頃に伊豆半島に接近、27日午前0時に神奈川県の三浦半島に上陸した。

発達の過程で中心気圧877hPa、中心付近の最大風速75m/s、半径400km以内で風速50m/sを記録するという戦後最大級の大型台風に成長した。台風の接近に伴い南海上に停滞していた前線が活発化しながら本州に接近したため、各地に大雨を降らせて被害を増大せしめた。

関東や東海地方では26日の午前から風雨が強まり、その後一時的に雨脚は衰えるも、台風が接近した夜半にかけて再び大雨となり、21時からの時間雨量は120mmを超えるという猛烈な雨となった。このため狩野川の各観測地点で警戒水位を超えるとともに、上流では連日の長雨で緩んでいた山地斜面などが約1,200ヶ所で崩壊して集落を襲った。

さらに、その土砂は川に流れ込んで濁流となり下流へと押し寄せた。下流域では、濁流や流木が橋梁でせき止められて一時的に巨大な湖を形成し、それが上流から押し寄せる濁流の勢いで決壊し、最大の深さが12mに達する大洪水を招いた。猛烈な勢いの濁流が堤防を決壊させるとともに集落を洗い流し、狩野川流域管内だけで853人の死者や行方不明者を出し、狩野川の水害史上未曾有の大災害となった。

災害の発生が夜間であったため、避難が遅れたことも被害を拡大させた原因の一つとされている。特に中流域の田方平野での被害が大きく、大仁町(現伊豆の国市)白山堂では175人の住民のうち75人が、修善寺町(現伊豆市)熊坂では980人のうち289人が犠牲になるなど、各地で壊滅的な被害となった。

昭和33年22号(5822)狩野川台風経路図
※伊豆半島に大きな被害をもたらせた「狩野川台風」の経路図を憶えておこう。はるか遠くの太平洋上に発生した大型の台風が北北東に進路を取り、伊豆半島の東岸を掠め神奈川県の三浦半島付近に上陸している。
※静岡県に大きな被害をもたらせた台風の経路を全部憶える必要は無かろうが、静岡県沿岸を北東方向に掠めて通過する台風に被災している傾向があるようだ。
↓水没した田方平野
↓旧伊豆長岡町の河川氾濫
↓三島・函南・韮山・伊豆長岡の被災状況

@ 野川被害状況より、最大2.7mと推定 A 伊豆長岡駅の被害状況 
A 江間地区堤防の決壊による家屋浸水 C 南江間地区堤防の決壊
D 北江間から狩野川本川を望む E 原木駅周辺被災
F 肥田方面より望む、蛇ヶ橋付近の立木 
G 一面泥と流木の田方平野  H 塚本地区決壊箇所

祭典日順・三島市の神社
祭典日
ふりがな
神社名
エリア
鎮座地
祭神
1月15日
1月17日
1月17日
1月20日
1月23日
2月7日
2月15日
2月15日
2月28日
4月10日
5月15日
5月15日
5月15日
5月27日
6月11日
6月15日
6月26日
7月5日
7月15日
7月16日
7月16日
7月16日
7月16日
7月17日
7月25日
8月1日
8月16日
9月16日
9月17日
9月25日
10月1日
10月10日
10月14日
10月15日
10月15日
10月15日
10月15日
10月15日
10月15日
10月15日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月16日
10月17日
10月17日
10月17日
10月17日
10月19日
10月20日
10月20日
しんめいぐう
やまじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
あたごじんじゃ
あかおうじんじゃ
てんじんじゃ
もりつなじんじゃ
たきがわじんじゃ
かもがわじんじゃ
ひすみじんじゃ
ろくしょおうじじんじゃ
わかみやじんじゃ
みついしじんじゃ
しゃこうじんじゃ
やさかじんじゃ
ごてんじんじゃ
やなぎはらじんじゃ
だいばじんじゃ
しばおかじんじゃ
しんめいじんじゃ
しんめいじんじゃ
せんげんじんじゃ
さないじんじゃ
てんじんじゃ
まどろみじんじゃ
みしまたいしゃ
みみいしじんじゃ
あきはじんじゃ
てんじんじゃ
はちまんじんじゃ
やおとめじんじゃ
しょうはちまんぐう
くわとじんじゃ
こまがたじんじゃ
たがじんじゃ
るぎたちいわとこわけのみこと
てんぱくじんじゃ
はちおうじじんじゃ
みるめじんじゃ
あしたかじんじゃ
いなりじんじゃ
いなりじんじゃ
おうじじんじゃ
たかはしじんじゃ
てんじんじゃ
はちまんぐう
みたけじんじゃ
やすとみじんじゃ
やまじんじゃ
しんめいぐう
すわこまがたじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
うないじんじゃ
すわじんじゃ
やまじんじゃ
神明宮
山神社
山神社
山神社
愛宕神社
赤王神社
天神社
守綱神社
瀧川神社
賀茂川神社
日隅神社
六所王子神社
若宮神社
三石神社
赤玉神社
八坂神社
御殿神社
楊原神社
大場神社
芝岡神社
神明神社
神明神社
浅間神社
左内神社
天神社
間眠神社
三嶋大社
耳石神社
秋葉神社
天神社
八幡神社
八乙女神社
正八幡宮
鍬戸神社
駒形神社
多賀神社
劔刀石床別命神社
天泊神社
八王子神社
見目神社
愛鷹神社
稲荷神社
稲荷神社
王子神社
高橋神社
天神社
八幡宮
御嶽神社
安富神社
山神社
神明宮
諏訪駒形神社
山神社
山神社
右内神社
諏訪神社
山神社
三島市南部
三島市南部
三島市北部
三島市北部
三島市南部
三島市南部
三島市東南部
三島市街中
三島市東部
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市西部
三島市街中
三島市南部
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市南部
三島市街中
三島市北部
三島市南部
三島市街中
三島市南部
三島市街中
三島市南部
三島市街中
三島市北部
三島市西部
三島市東部
三島市北部
三島市北部
三島市東部
三島市南部
三島市北部
三島市東南部
三島市東南部
三島市南部
三島市東南部
三島市北部
三島市西部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市箱根西麓
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市箱根西麓
三島市南部
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市南部
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市御園399
三島市松本169
三島市佐野1117
三島市佐野1125
三島市北沢7
三島市大場883
三島市谷田284-2
三島市日の出町6-10
三島市川原ケ谷755-1
三島市加茂川町17-21
三島市大社町8-12
三島市日の出町6-90
三島市西若町8-7
三島市広小路町13-1
三島市北沢139
三島市中央町2-27
三島市南本町20-29
三島市北田町4-7
三島市大場10
三島市芝本町6-3
三島市萩341
三島市多呂210
三島市芝本町6-3
三島市中島字西310-2
三島市大社町16-8
三島市東本町2-11-35
三島市大宮町2-1-5
三島市幸原町69
三島市加屋町4-3
三島市川原ヶ谷51.
三島市壱町田75
三島市徳倉649
三島市川原ケ谷字小沢1061
三島市長伏1
三島市沢地350
三島市谷田164
三島市谷田293
三島市中字亀岡4
三島市竹倉18
三島市佐野1
三島市三好町12-30
三島市新谷塚ノ越158
三島市八反畑12
三島市安久287
三島市松本298
三島市三ツ谷新田434-1
三島市鶴喰46
三島市青木31
三島市安久424
三島市笹原新田224
三島市平田1番地
三島市山中40-1
三島市市山新田172
三島市塚原新田308の甲
三島市梅名1
三島市元山中1248-2
三島市元山中1250-2
天照大日霊尊
大山祇神
大山祇神
大山祇神
軻遇都知命
櫛真智神
菅原道真公
守綱大神
瀬織津姫神
須佐之男命 ほか
大己貴命
事代主命の御子神六柱
譽田別命
豊受姫大神
武甕槌命
須蓋之男命
宇迦魂神
事代主命 大山祇神
日本武尊 譽田別尊
高皇産霊神
大日霊尊
大日霊尊
木花開耶姫命 波布比売命
阿米都瀬氣多知命
高皇産霊神
豊受姫命
大山祇神 事代主命
国狭槌尊
火牟須比命
少彦名命
譽田別命
天鈿女命
彦火火出見尊
倭文神
天御中主命
伊弉諾尊
劔刀石床別命 日本武尊
天児屋根命
八王子大神
見目大神 事代主命御妻神六柱
日本武尊
稲倉魂命
宇迦之御魂神
六所王子神
磐鹿六雁命
高皇産霊神 大山祇神
譽田別命
大日霊尊
大巳貴命 大山祇神
大山祇神
大日霊之尊
日本武命 建御名方命
大山祇神
大山祇神
櫛石窓命
建御名方命
大山祇神
間眠神社は1月1日、芝岡・浅間神社は1月2に町内代表と三嶋大社の宮司が祭祀している。

エリア別・三島市の神社
エリア別
ふりがな
神社名
鎮座地
祭神
祭典日
三島市西部
三島市西部
三島市西部
あきはじんじゃ
あしたかじんじゃ
わかみやじんじゃ
秋葉神社
愛鷹神社
若宮神社
三島市加屋町4-3
三島市三好町12-30
三島市西若町8-7
火牟須比命
日本武尊
譽田別命
9月17日
10月16日
5月15日
三島市南東部
三島市南東部
三島市南東部
三島市南東部
たがじんじゃ
るぎたちいわとこわけのみこと
てんじんじゃ
はちおうじじんじゃ
多賀神社
刀石床別命神社
天神社
八王子神社
三島市谷田164
三島市谷田293
三島市谷田284-2
三島市竹倉18
伊弉諾尊
劔刀石床別命 日本武尊
菅原道真公
八王子大神
10月15日
10月15日
2月15日
10月15日
三島市東部
三島市東部
三島市東部
しょうはちまんぐう
たきがわじんじゃ
てんじんじゃ
正八幡宮
瀧川神社
天神社
三島市川原ケ谷字小沢1061
三島市川原ケ谷755-1
三島市川原ヶ谷51
彦火火出見尊
瀬織津姫神
少彦名命
10月14日
2月28日
9月25日
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
三島市南部
あかおうじんじゃ
あたごじんじゃ
いなりじんじゃ
いなりじんじゃ
うないじんじゃ
おうじじんじゃ
くわとじんじゃ
さないじんじゃ
しゃこうじんじゃ
しんめいぐう
しんめいぐう
しんめいじんじゃ
だいばじんじゃ
たかはしじんじゃ
てんぱくじんじゃ
はちまんぐう
まどろみじんじゃ
みたけじんじゃ
やすとみじんじゃ
やまじんじゃ
赤王神社
愛宕神社
稲荷神社
稲荷神社
右内神社
王子神社
鍬戸神社
左内神社
赤玉神社
神明宮
神明宮
神明神社
大場神社
高橋神社
天泊神社
八幡宮
間眠神社
御嶽神社
安富神社
山神社
三島市大場883
三島市北沢7
三島市新谷塚ノ越158
三島市八反畑12
三島市梅名1
三島市安久287
三島市長伏1
三島市中島字西310-2
三島市北沢139
三島市御園399
三島市平田1番地
三島市多呂210
三島市大場10
三島市松本298
三島市中字亀岡4
三島市鶴喰46
三島市東本町2-11-35
三島市青木31
三島市安久424
三島市松本169
櫛真智神
軻遇都知命
稲倉魂命
宇迦之御魂神
櫛石窓命
六所王子神
倭文神
阿米都瀬氣多知命
武甕槌命
天照大日霊尊
大日霊之尊
大日霊尊
日本武尊 譽田別尊
磐鹿六雁命
天児屋根命
譽田別命
豊受姫命
大日霊尊
大巳貴命 大山祇神
大山祇神
2月7日
1月23日
10月16日
10月16日
10月19日
10月16日
10月15日
7月17日
6月11日
1月15日
10月17日
7月16日
7月15日
10月16日
10月15日
10月16日
8月1日
10月16日
10月16日
1月17日
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
三島市箱根西麓
すわこまがたじんじゃ
すわじんじゃ
てんじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
諏訪駒形神社
諏訪神社
天神社
山神社
山神社
山神社
山神社
三島市山中40-1
三島市元山中1248-2
三島市三ツ谷新田434-1
三島市笹原新田224
三島市市山新田172
三島市塚原新田308甲
三島市元山中1250-2
日本武命 建御名方命
建御名方命
高皇産霊神 大山祇神
大山祇神
大山祇神
大山祇神
大山祇神
10月17日
10月20日
10月16日
10月16日
10月17日
10月17日
10月20日
三島市北部
三島市北部
三島市北部
三島市北部
三島市北部
三島市北部
三島市北部
三島市北部
こまがたじんじゃ
しんめいじんじゃ
はちまんじんじゃ
みみいしじんじゃ
みるめじんじゃ
やおとめじんじゃ
やまじんじゃ
やまじんじゃ
駒形神社
神明神社
八幡神社
耳石神社
見目神社
八乙女神社
山神社
山神社
三島市沢地350
三島市萩341
三島市壱町田75
三島市幸原町69
三島市佐野1
三島市徳倉649
三島市佐野1117
三島市佐野1125
天御中主命
大日霊尊
譽田別命
国狭槌尊
見目大神 ほか
天鈿女命
大山祇神
大山祇神
10月15日
7月16日
10月1日
9月16日
10月15日
10月10日
1月17日
1月20日
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
三島市街中
かもがわじんじゃ
ごてんじんじゃ
しばおかじんじゃ
せんげんじんじゃ
てんじんじゃ
ひすみじんじゃ
みしまたいしゃ
みついしじんじゃ
もりつなじんじゃ
やさかじんじゃ
やなぎはらじんじゃ
ろくしょおうじじんじゃ
賀茂川神社
御殿神社
芝岡神社
浅間神社
天神社
日隅神社
三嶋大社
三石神社
守綱神社
八坂神社
楊原神社
六所王子神社
三島市加茂川町17-21
三島市南本町20-29
三島市芝本町6-3
三島市芝本町6-3
三島市大社町16-8
三島市大社町8-12
三島市大宮町2-1-5
三島市広小路町13-1
三島市日の出町6-10
三島市中央町2-27
三島市北田町4-7
三島市日の出町6-90
須佐之男命 ほか
宇迦魂神
高皇産霊神
木花開耶姫命 ほか
高皇産霊神
大己貴命
大山祇神 事代主命
豊受姫大神
守綱大神
須蓋之男命
事代主命 大山祇神
事代主命の御子神六柱
4月10日
6月26日
7月16日
7月16日
7月25日
5月15日
8月16日
5月27日
2月15日
6月15日
7月5日
5月15日

三嶋大社の年間祭式
祭典日
祭式名
祭式案内
1月1日午前零時 開運祈祷祭
(かいうんきとうさい)
初太鼓の響きと共に新しい年を迎え、この一年がより良き年であるよう祈願す
る祭。
1月1日午前6時 歳旦祭 元旦早暁、皇室の弥栄と国の隆昌、氏子崇敬者を始め広く天下万民の幸福を
祈る年の初めの祭。 祭典後、神宮・宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)、及び我が
大神の后君・御子神を祀る伊豆七島を遙かに遙拝する。
1月1日午前8時 飯神社例祭 内庭東五社に保食神を祀る末社飯神社の例祭。三嶋大神の御食物を司る神と
される。
1月3日午前8時 元始祭 天皇の御位を寿ぐ祭儀。明治3年1月3日、神祇官八神殿に八神・天神地祇・歴
代の皇霊を鎮祭したのに始まる。年始に当たって皇位の大本と由来とを祝し、
国家国民の繁栄を祈る祭典。
1月7日午後1時 田祭(たまつり) 五穀豊穣を祈る祭で、近郷の農家より100俵程の新米が奉納される。祭典後
舞殿にて社家の人々の奉仕により行われる県無形文化財「御田打神事」は年
頭に五穀豊穣を祈る予祝神事である。その起源は古く平安時代とされ、鎌倉・
室町を経て整えられ、今日の狂言形式となったものとされる。
1月15日
午前6時40分
左義長祭(さぎちょうさい)
どんどん焼き
別名 どんど焼き。正月にかかげられた〆飾(しめかざり)等を、ご神火をもって
焚き上げる神事。 三嶋大社崇敬会事業推進委員会の奉仕により執り行われ
ます。
1月15日午前8時 小豆粥調進祭 小豆粥の中に、田祭に供えた餅を小指の先程の大きさに割った「柱」と称する
餅を入れて炊き、神饌と共に供え、五穀豊穣を祈る祭。古くは粥占が行われ、
二寸ばかりの篠竹に稲、麦、大豆等を書き入れて粥と共に炊き、其々の筒の粥
の入り具合を見て豊作、凶作を占い、その結果を社頭に掲示して民衆にしらし
めたという。
1月17日午前10時 奉射祭(ほうしゃさい)  年の始めに、世の邪悪を射そけ祓い、また人々の悪疫退散を祈る祭。本殿における祭儀に続き流鏑馬馬場に設けられた射場にて、弓太郎以下六人の射手が三十三間先の五尺八寸の大的にむけ二射づつ三回三十六筋の矢を放つ。古式により終始無言で粛然と行われる壮烈な神事である。神事後の大的は災難除のお守りとなる。
2月3日午後1時 節分祭(せつぶんさい) 二十四節気の起点である立春の前日に執り行い、厄を祓い悪疫退散招福を祈る祭。当大社では73歳以上の年男による豆まき神事がある。年男のまく福豆を拾おうと集まる人々は千人を超える。 
2月3日午後4時 追儺祭 節分の夜行われる邪悪祓いの祭で、「おにやらい」などともよばれる。古くは鬼追いが行われた。
2月3日
午後4時30分
鳴弦式 節分の夜、追儺祭に続いて舞殿に神籬を刺立て、弓箭八幡大神・三嶋大神の神霊を招き邪悪を祓う祭儀が行われる。宮司に続いて奉行も祝詞を奏し、終わって九字を切る。更に七五三と弓の弦を鳴らし「イーン」と大声を発すること三度。寒気の闇に弦の音と奉行の声が響き、身の清められる神事である。 
2月8日午後1時 針感謝祭 一年間使用して、折れたり曲がったりした針を納めて、針に感謝する祭。針の恩恵に浴する方多数参拝のもと執り行われ、裁縫の上達が祈願される。社頭の淡島神を参拝し、針を豆腐に刺して塚に納める。
2月11日午前10時 紀元祭 神武天皇が橿原の宮において御即位された日にあたり、我が国の建国を祝う祭。祭典後神武創業を偲び、橿原神宮を遙拝する。また、東部建国記念の日奉祝会主催による祝賀式典並びに市中行進が行われ、市内諸団体関係者500名余が参加して国の誕生をお祝いする。
2月17日午前10時 祈年祭 祈年祭は「としごいの祭」とも云われ、その年の五穀 豊穣を祈る祭である。今日では、農業のみならず、商業、工業などあらゆる産業の繁栄を祈る祭として斎行されている。
2月4日午前10時 立春祭 四季の始まりである春を迎えて万民の幸福、開運を祈る祭。
3月3日午前10時 節句祭 古くは「上巳の節句」と云われ、女児の健康を祈願する。よもぎ、菱餅及び神酒に桃花を添えて献る。八乙女の舞は紅白の桃の枝を使う。
3月春分午前9時 春季皇霊祭遙拝式 彼岸の中日である春分の日、宮中では天皇自ら歴代天使の皇霊を祀る皇霊祭が皇霊殿にて斎行される。この皇霊祭に併せ宮中皇霊殿を遙拝する。
3月22日午前11時 神鹿記念祭 大正7年3月22日、奈良の春日大社より雌雄8頭の神鹿を譲り受け、神園に放った事を記念する祭。 
3月31日午前11時 交通安全祈願祭 当社は古来交通の要衝に位し、道中安全の信仰極めて篤いことから、管内の交通安全を祈願する祭。三島警察署を始め、管内交通関係者多数参列のもと斎行される。
4月1日午前10時 献茶式 沼津市なる初代東海庵青龍氏が、昭和天皇の御大典を奉祝し昭和3年に茶道具一式を奉納、翌4年2月献茶式を行った。その後絶えることなく代々の庵主が献茶を行い今日に至る。拝殿で立てた濃茶、薄茶を神前にお供えする。
4月3日午前9時 神武天皇祭遙拝 皇統の始祖である神武天皇の崩御の日に当り、宮中皇霊殿と神武天皇陵にて、神武天皇祭が斎行される。この祭儀にあわせ神武天皇陵である畝傍山東北御陵(うねびやまのうしとれのみささぎ)を遙拝する。 
4月3日、5日
午後1時
稚児健康祈願祭 4月9日の鎮花祭の神賑行事として3歳から7歳の男児女児により稚児行列が行われ、続いて奉仕された稚児の健やかな成長を祈願する。
4月9日午前10時 鎮花祭 「花しずめの祭」とも称し、疫病鎮護、災難除の祭である。この祭にあわせ稚児行列、明神講講社祭が行われる。 
4月11日午前10時 敬老祭 昭和24年より始められた祭で、75歳以上のお年寄りを招待し、健康祈願祭を行う。終了後演芸等が行われる。
4月13日
午前10時30分
水産祭 昭和9年より静岡県が主催し、知事参列の上県内水産関係者の海上安全・大漁満足の祈願祭が行なわれた。戦後は県漁連の主催となり、神前に漁業者が海の幸を奉献し、水産業の発展が祈願される。
4月14日午前10時 見目神社例祭 見目神社は三嶋大神の妃神六柱を祀る御本社と関わり深い摂社である。春秋の酉祭に先立つ二日前に例祭が斎行される。これは本社大祭の前々日、幕府より奉献の玉簾を在庁が奉持し、見目社の前で検分の上神主に渡す儀式が行われていたことに由来する。 
4月15日午前10時 大楠社例祭 大楠社は内庭西五社に祀られる末社である。江戸時代初期の境内古絵図には大楠社の社殿が見られるが、御祭神また本社との関わりは詳らかでない。春秋の酉祭の前日に例祭が斎行されることから、本社との関わり深いことが伺われる。
4月16日午前10時 酉祭 古くは4月2日の酉の日に行われた大祭で、その年の五穀豊穣を祈る。
4月29日午前10時 昭和祭 昭和天皇の御在位六十有余年、国の隆昌と安泰、国民の幸福にお尽くし頂いた聖徳大業を景仰し、昭和天皇誕生日である昭和の日に際し皇室の弥栄と国の隆昌を祈念する祭。
5月5日
午前10時30分
端午祭
命名児健康祈願祭
古来「端午の節句」と称し、5月始の午の日に行われたが、改暦後は5月5日に定められ、男児の健康を祈る祭。かしわ餅、ちまきなどの特殊神饌を献る。昭和23年より医師を招き、当大社命名児の健康診断と健康優良児の表彰等を行っている。
6月30日午後2時 夏越大祓式 「夏越の祓」と称し、その年の上半期の罪穢れを祓い、下半期にそなえる重要な儀式であり、人形に罪けがれをたくして川に流す。また茅の輪をくぐり"水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶというなり"をうたい、左右左と茅の輪をまわる。民族固有の伝統行事である。
6月30日
午後2時30分
祓所神社例祭 境内西側に鎮座し、祓戸四柱の神(瀬織津比刀E速開都比刀E気吹戸主・速佐須良比刀jを祀る末社祓所神社の例祭。祭典は夏越大祓式に続いて斎行され、多くの方が参列する。罪穢を祓い去り氏子崇敬者の平安を祈る。 
7月15日午前10時 八坂大神神輿渡御祭 7月8日、市内加茂川町に鎮座する旧境外末社、賀茂川神社より八坂大神を大社舞殿に遷御奉安し、7日間祭儀を行う。この日大神輿にて市内を巡行し各所にて祈願祭を斎行、各町内の安全、悪疫消除を祈る。 
8月15日午前9時 若宮神社例祭 古くは八幡宮・若宮八幡または若宮社などと呼ばれる若宮神社は、御本社との関わり深い摂社である。御祭神として物忌奈乃命(三嶋大神の御子神)・誉田別命(応神天皇)・神功皇后・妃大神を祀る。御本社の例祭の前日に例祭が斎行される。
8月15日正午 献茶式 例祭にあたり舞殿にて裏千家渡邉宗契社中による献茶式が行われ、濃茶、薄茶が神前にお供えされる。
8月15日午後2時 菅奉納祭 例祭の前日、神様の茣蓙を新調して献上するなごり二日町間眠神社の氏子中が真心こめて調整した菅が奉納される。 
8月15日午後6時 宵宮祭 例祭の前夜行われ、例祭が恙なく斎行される様祈願する。また例祭期間中社頭の掲げる千燈余の御神燈奉納の世話人が多数参列し、大神様にその由が奉告される。
8月16日午前10時 例祭 年間祭儀の内、最重儀をもって執り行われる祭典。 古くは旧暦4月・8月・11月の酉の日に大祭が斎行されてきたが、明治4年官幣大社に列するにあたり、8月16日を例祭日と定めた。尚、4月、11月の大祭はそれぞれ16日に春、秋の酉祭として今日も斎行されている。 古来東海道一の夏祭りとされ、例祭前後両日の3日間、境内では各種神事が執り行われる。また市内には三島囃子のカネや笛の音が響き渡り、当番町による山車の引き回しを始めとする神賑行事がくりひろげられ、昼夜を問わず大変な賑わいをみせる。
8月16日
午後2時45分
頼朝旗挙出陣式 治承4年8月源頼朝が当大社に戦勝祈願して旗挙したことにちなみ、拝殿前で出陣式が行われる。神主盛方が頼朝に金幣を授け出陣した故事による。
8月16日午後7時 手筒花火神事 引佐郡井伊谷村東四村共煙社による手筒花火。男性的でしかも勇壮な花火。火の粉をかぶっての演技、除災招福のお守りとし筒を奉納者に渡す。
8月17日午前11時 崇敬会大祭 崇敬会員一、七〇〇名の夏の大祭。 拝殿前に大テントを張り、無事安全を祈る祭。
8月17日午後1時 流鏑馬祭 当大社の流鏑馬の起源は古く、平安の昔より行われてきたと伝えられる。記録によれば、文治元年6月20日の臨時祭に源頼朝が流鏑馬を奉納したとされ、爾来明治初年に至る680余年に亘り、6月20日と4月及び8月の二の酉の大祭の年3回、流鏑馬役社人青木一学家により執行されてきたが、明治の御改正により廃絶した。昭和59年8月、三嶋大社崇敬会10周年を記念し、武田流弓馬軍令故実司家金子家教一門の奉仕により130年ぶりに復興され今日に至る。
8月17日午後4時 後鎮祭 「あとしずめの祭」ともいわれ、例祭の翌日、三日間に亘る例祭諸祭儀が、無事終了したことを大神様に奉告感謝する祭。
9月秋分午前9時 秋季皇霊祭遙拝式 彼岸の中日である秋分の日、宮中では天皇自ら歴代天皇の皇霊を祀る皇霊祭が皇霊殿にて斎行される。この皇霊祭に併せ宮中皇霊殿を遙拝する。
9月上旬
午後5時30分
木犀の夕 昭和9年天然記念物に指定された当大社金木犀の満開にあわせて斎行される。樹霊を和め、芳香をめでた、「夕べ」が催され、雅楽、邦楽、箏曲が演奏される。
10月17日
午前10時
神嘗祭遙拝 神嘗奉祝祭に先立ち、神宮を遙拝する。
10月17日
午前10時
神嘗奉祝祭 神嘗祭は伊勢の神宮における大祭で、その年に収穫された新穀である由貴の大御饌を宵暁の二度豊受大神宮・皇大神宮にお供えする。 皇室より勅使が遣わされ奉幣の儀が行われると共に、天皇は神宮を遙拝され、賢所において御親祭を行われる。この神嘗祭を言祝ぎ斎行されるのが神嘗奉祝祭である。
11月3日午前9時 明治祭 明治の大御代、我が国の文明は開化し、国運は大いに発展、世界有数の近代国家となった。この明治天皇の御聖徳に感謝、顕彰して明治天皇誕生日に斎行する祭。
11月4日午前10時 伊豆魂神社例祭 伊豆一円の戦没英霊二三七二柱を祀る境内末社伊豆魂神社の年一度の大祭で、英霊の遺業を顕彰し慰霊の誠を捧げる。終了後は遺族をお慰めする余興を行っている。
11月14日
午前10時
見目神社例祭 見目神社は三嶋大神の妃神六柱を祀る御本社と関わり深い摂社である。春秋の酉祭に先立つ二日前に例祭が斎行される。これは本社大祭の前々日、幕府より奉献の玉簾を在庁が奉持し、見目社の前で検分の上神主に渡す儀式が行われていたことに由来する。
11月15日午前9時 七五三祝祭 七五三詣は3歳の髪置、5歳の袴着、7歳の紐解と古来小児の成長の節目に行われてきた伝統的行事に因み、子供の健やかな成長を祈願する。 
11月15日
午前10時
大楠社例祭 大楠社は内庭西五社に祀られる末社である。江戸時代初期の境内古絵図には大楠社の社殿が見られるが、御祭神また本社との関わりは詳らかでない。春秋の酉祭の前日に例祭が斎行されることから、本社との関わり深いことが伺われる。
11月16日
午前10時
酉祭 古くは11月二の酉の日に行われた大祭で、その年の五穀豊穣に感謝する収穫祭。
11月20日
午前10時
恵比須講祭 御祭神事代主命(えびす様)の商売繁盛の御神徳に感謝し、今後の御加護を祈る祭。この祭にあわせ商店による大市が境内で行われ、近郷からの人々で賑わう。
11月23日
午前10時
新嘗祭 新穀に感謝する収穫祭で、大神様にその年に収穫された新穀並びに新穀で醸した新酒(白酒・黒酒)をお供えする。また新穀を頂くことで新穀に宿る神々の御神威を蒙るとされる。五穀豊穣を祈請する2月の祈年祭と対置され、その起源は古くわが国に稲作が始まる弥生時代とされる。 宮中でも神嘉殿において天皇が天照大神・天神地祇に新穀を捧げる親祭を奉仕し、御自らも新穀をお召し上がりになる。 尚、年ごとの新嘗祭に対し、天皇即位後初めて行われるこの祭は大嘗祭と称せられる。
12月23日
午前10時
天長祭 今上陛下の御誕生日に際し、これを祝して聖寿の万歳を祈る祭である。
12月31日午後2時 師走大祓式 新年を迎えるに当たり、一年の罪穢れを祓い清める儀式で、人形に罪穢れをたくして川に流す。
12月31日
午後2時30分
祓所神社例祭 境内西側に鎮座し、祓戸四柱の神(瀬織津比踏速開都比踏気吹戸主・速佐須良比刀jを祀る末社祓戸神社の例祭。祭典は師走大祓式に続いて斎行され、多くの方が参列する。罪穢を祓い去り氏子崇敬者の平安を祈る。
12月31日午後5時 古札焼納祭 氏子崇敬者が1年間神棚に奉斎したお札・お守りが神社に納められ、その御加護に感謝し、祓い清めて焼納する。
12月31日午後5時 除夜祭 一年間の最後の祭である。
毎月1日と16日
午前10時
月次祭
東五社月次祭
西五社月次祭

月ごとに斎行する祭。 御祭神の御神徳を称え、皇室の弥栄、国民の平安、氏子崇敬者の幸福、萬の産業の繁栄を祈念する祭。 尚、毎月一日には崇敬会誕生祭が併せ斎行される。

三島市北部の神社マップ (JR東海道新幹線より北側に鎮座する神社)

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