三島里山倶楽部

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万巻上人の残影を追う
To chase vestige Mangan-shonin
かんちゃん
万巻上人に関する歴史的資料極めて乏しく編集長の私小説としてお読みください
なみちゃん


私は、中国で仏教を学び帰朝し、その後の仏教世界観を塗り替えてしまった最澄・空海以前の平安時代以前の仏教と山岳宗教に惹かれる者である。なぜなら縄文時代の太古より何万年も日本人が育まれた宗教観・世界観が如何なるものだったか、その糸口が見つかるような期待があるからである。その意味で、神仏混淆の集大成者・万巻上人の残影を追うことの本意をご高察いただきたい。

さて、万巻上人の学んだ仏教は、南都六宗とされる。「南都六宗」とは、奈良時代の六つの宗派、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗をいう。つまり、仏教界を一変、密教色へと変質させてしまった天台宗・真言宗の産声は後世のこととなる。

日本にはじめて仏教が伝来したのは六世紀の欽明天皇の時代であるが、聖徳太子の時代に至って本格的に招来された。(非公式な意見として朝鮮半島や中国大陸からの断片的私的交流の渡来僧により六世紀以前から仏教伝来説もあるが、ここでは割愛する)

聖徳太子は、仏教思想をもととした国家社会の構築を目指し、推古15年(607)、最初の遣隋使として小野妹子を派遣したのをはじめとし、その後も、多くの留学生や留学僧を隋に派遣して、積極的に大陸文化の摂取に努めた。さらに太子自らも四天王寺を建立し、敬田・悲田・施薬・療院の四院を設置して貧民救済事業を興し、飛鳥寺・中宮寺・法隆寺等を建立して仏教思想にもとづく政治を行い、飛鳥時代の繁栄を築いた。



聖徳太子没後、まもなく三論宗が伝わり、次いで法相宗が伝わった。この両宗に付随して成実宗・倶舎宗が伝えられたが、二宗は三論・法相の両教学を学ぶための補助的な学問宗派にすぎなかった。奈良時代になって華厳宗と律宗が伝えられた。

これら南都六宗は独自に宗派を形成したものではなく、寺院も原則的には官立であり、国家の庇護のもと、鎮護国家の祈願所としての役割を担うと同時に、仏教教理を研究する場所でもあった。万巻上人の本名は「満願」、生まれは京都、父は修行僧であり幼少より仏教に耳目を接し成長した。『筥根山縁起』によれば、二十歳になり、受具剃髪したとあるが、都の国分寺に正式に僧となった歳を伝えられたものとされ、それ以前から修行僧である父の背中を見て育ち仏門徒の素養は十二分できていた。

当時とすれば最先端の仏教文化を学ぶ国分寺(今で言う国立大学)に入門した満願は水を得た魚の如く学問に没頭し、生来の知識欲により経典・庫裡蔵書等を貪るように読み続け、やがて万巻と称せられるようになるなど全国の国分寺の僧達を凌駕する教学を身に付けている。その後、都の高僧に面綬を授かるとともに、更に仏法の奥義を究めようと、修行僧となって諸国遍歴の旅に出る。

愛知県豊川市篠田町田尻に万巻寺を建て住職となっている。己の私寺を設けられるのは当時として極僅かな高僧、しかも自分の名前を使った寺を設けることは異例中の異例であり、如何に万巻上人に対する世間評価の高さが偲ばれる事例である。残念ながら同寺は野武士の放火により全焼し残されていないが、地元の人々により『まがんじ』とか、近くの橋は『まがんじ橋』と呼ばれ記憶されている。

聖武天皇は、国家の安康と五穀豊穣を祈るため全国に国分寺(金光明四天王護国之寺)・国分尼寺(法華滅罪之寺)を建立し、さらにこれらを統括する総国分寺として東大寺を建立した。また、全国的に律令体制が確立されるに伴い僧尼令等が布かれ、仏教も国の統治機構の中に組み入れられていった。

三島に伊豆国分寺、国分尼寺が建立されたのも八世紀当時であった。つまり万巻上人が箱根に来た当時には既に三島に国家的大寺院が存在していたことになる。万巻上人が通読した経典は南都六宗:三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗の経典に絞られる。加えて、奈良の都の高僧に学び比叡山の山奥での荒行に打ち込み心胆を磨くとともに原初的修験道先達との接触を重ねて行き、修験道にも精通する。

天平勝宝元年(749年)仏事をもって神に奉仕する鹿島神宮寺を創建し大般若経600巻の写経をし,仏像を描いている。話は飛ぶが、この常陸の鹿島神宮に勤める物忌(ものいみ)、斎女(いつきめ)が存在した。 この巫女たちは、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごした巫女も存在していることを頭の隅に置いていてもらいたい。

さて、仏教・修験道に精通する万巻上人は天平宝字元年(757年)朝廷の命を受けて、箱根山の山岳信仰を束ねる目的で箱根山に入山するが、もともと箱根山を根本道場とする修験道先達のプライドと仏教への侮り感も手伝って若い新参者(官僧)への強力な反発抵抗があったに違いない。仮に修験道が禁止されたり仏道を強要されるようになったらこれまで築いて来た生活の糧と土台を無くす恐れもあるからだ。

これが、相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現(法躰・俗躰・女躰)を感得した経緯でなかったかと思う。相模国大早河上湖池が現在の地図にしてどの辺りを指すのか説明のある資料に接しられないが、万巻上人は函根山への登り口付近の相模国(神奈川県小田原市早川)に弟子達その他従者達とともに仮宿を構え、万巻上人は湖面に向かって難行苦行の末、山伏達を調伏し得る三所権現を感得した。

ただ、三所権現は万巻上人が想起者でないことに注意を要する。万巻上人が誕生する2年前の717年に越の大徳・神融禅師、泰澄(越前国麻生津生まれ)36歳は白山(標高2702m)を直弟子2人とともに開く。白山には、三神がいて、三所権現と呼ばれる。白山妙理権現・大行事権現・大汝権現の三神が伝えられている。古来より修験道のメッカと称される白山信仰の開祖・泰澄という大先達が三所権現と本地垂迹を唱えているからである。泰澄と万巻上人との接点は時代の波に呑み込まれて分らなくなっているものの、三神・三所権現と称すところが共通するところから万巻上人は三所権現を熟知修得していたと見るのが自然である。

一方、九頭竜を感得したのも修験道大先達者・泰澄なのである。泰澄は、養老元年(717)、36歳の時に白山(御前峰)へ登り、白山の山頂にある緑碧池(翠ヶ池)で白山妙理権現を感得したという。白山妙理権現は、九頭竜権現という九つの頭を持つ龍神の姿で出現した。 だが、泰澄は、その姿に満足せず、さらに祈念すると、やがて真の姿である十一面観音に変身したという。実に万巻上人は泰澄大師の教えを愛弟子の如く忠実に推進し集大成しているのである。万巻が誕生した年、修行僧の父が25歳と推定、泰澄は38歳である。この三名がどう繋がっていたかは五里霧中ではあるが、万巻上人の残影を追うにつれ、奇しくも万巻上人と泰澄大師とが瓜二つに酷似している事実が分って来る。敢えて違いを申せば、泰澄大師が観音信仰を主軸にしたのに対し、万巻上人は薬師信仰を主軸に置かれていたくらいである。

箱根山と白山権現との因縁は奈良時代に遡る。白山神社は江戸時代までは白山権現と呼ばれていた。天平年間(729-748年)に関東に塙瘡(ほうそう)が大流行した時代に、加賀白山霊場の開祖泰澄から派遣された弟子・浄定(きよさだ)行者が、天平10年(738年)箱根に白山権現社を建て、十一面観音【天平8年(736年)、入唐帰朝の玄ムより特に十一面経を授受されたばかり】を祀ったところ山から霊泉が湧き出し、病を治したという伝承が残されている。これが箱根湯本温泉の起こりとされている。つまり万巻上人が箱根に入山する19年前に湯本の温泉(江戸時代中後期まで宿泊施設無く湯場(ゆば)と呼ばれていた)と白山権現社は存在していたことになる。ただ現在の温泉街とは違って寒村の中の権現社であった筈であるが、それだけに同社が登山道入り口の道標になっていたことは間違い無いことと思われる。

箱根湯本の白山権現

泰澄の主張は、九頭竜の本地は十一面観音とされる。芦ノ湖に九頭竜神社が祀られる十九年前に箱根湯本に十一面観音が祀られていたのである。まさに泰澄の祈念は適中し、箱根湯本の本地は箱根山頂の芦ノ湖に万巻上人により遷祀され、九頭竜神社として祀られ、今もなお人々の信仰を集めている。
とりわけ、泰澄大師にとって万巻上人のやることなすことは絶賛の域にあったことは間違いあるまい。

757年当時、万巻上人と白山権現の修験者との接触の有無は証拠が残されていないものの、私は函南桑原の新光寺跡の北西部に白山神社が祀られ同寺跡の南西部に熊野神社が祀られていることに着目した。
三所権現・本地垂迹・箱根・白山神社・熊野神社など何かと共通項があり、万巻上人の箱根三所権現と白山三所権現と熊野三所権現との浅からぬ因縁が垣間見られてくる。

更に深読みするならば、万巻上人が相模国大早河上湖池水辺で難行苦行の功で三所権現を感得する以前に、既に仏教と修験者との融合に成功している白山権現の泰澄・高弟達と熊野権現の修験道先達者との周到なるお膳立てが事前になされていた可能性も考えられる。これは万巻上人側のみの要求だったとも思われない。白山権現並びに熊野権現側としても、朝廷の勅令として万巻上人が箱根山に向かうとすれば由々しき事態として高弟を箱根山に向かわせたことも考えられるからだ。

なぜならば、白山にせよ熊野にせよ、天下の険と称せらる箱根は地獄の霊場とされ重要な位置付けされた修験道にとって重要な場所、その場所へ朝廷勅令として万巻上人が入山すると聞きつければほっとして置かれない。きっと全国の修験道の先達達が集合したに違いない。この間、箱根の神々を取り入れ三所権現を創出することを万巻上人に託されるとともに暗に修験道権化の九頭竜神の供養を強く委託された。

泰澄大師(たいちょうだいし)691−767
泰澄大師は飛鳥時代(7世紀末)、691年、越前国麻生津(現 福井市三十八社町 泰澄寺)に生まれた。
  神童といわれた大師は11才の時、夢のお告げで越知山大谷寺に登り、苦行難行の後、ついに仏の教えを悟ったと伝えられる。
 泰澄大師の名声は都まで届き、21歳の時、朝廷は鎮護国家法師に任じた。
 その後、36才の時、2人の弟子・臥(ふせり)行者浄定(きよさだ)行者と共に717年に霊峰白山を開いたとされている。
養老7年(722年)、元正天皇のご病気を祈祷によって平癒したことにより、神融禅師の号を賜わる。
神亀2年(724年)、行基が白山を訪ね本地垂迹の由来を問うたことより神仏習合説の祖と呼ばれている。
天平2年(730年)、一切経を写経し法隆寺に納めた。これは、宮内庁図書寮に現存している。
天平8年(736年)、入唐帰朝の玄ムより特に十一面経を授受される。
天平9年(737年)、全国に疱瘡が流行し、勅名により祈願を行い疫病を終息させたと伝えられる。
 このとき、天皇から大和尚位を授けられ、「泰澄」の尊称を賜わる。
泰澄大師の名声は、都のみならず全国的に不動のものとなり、現世利益の願いを叶える祈祷力が貴族庶民層の羨望の的になり、白山信仰は白山修験者集団により全国的に広がって行った。
 
万巻上人が箱根に入った10年後、神護景雲元年(767年)、越知山大谷寺に戻った泰澄大師は、釈迦堂の仙窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化している。
 境内に祠つられる国指定文化財の九重の石塔は泰澄大師のお墓と伝えられている。 
中宮白山平泉寺境内古図


↓【中世平泉寺の推定復元図(イラスト:島村正博)】

泰澄大師が平安末期に 開いた平泉寺は神仏一体の寺院だった。 中世最盛期には 48の社と 36の堂 6000坊院(修行僧や修験者の住居)があったと伝えられている。

三つの鳥居の手前の拝殿の幅は三十三間あったものとされ、中世にあっては、他の追随を許さぬ宗教的勢力が窺える。

なお、左右に並ぶ小さな建物は6000坊と称される修行僧の住居であり、全国より泰澄大師の教えを授かろうとした修行僧が多数存在したことを雄弁に物語っている。

徐々に古絵図を参考に発掘調査がされているようだが、現在の所、古絵図に合致する位置から宗教都市を裏付けされるような遺構が出土しているようであり、全容が解明されることが期待されている。

万巻上人や万巻上人の父親が白山平泉寺に足を運んだか否か、教導を受けたか受けなかったかは歴史の闇に消えて分らないものの、現在鋭意追調中である。

発掘調査などによって、15〜16世紀頃の平泉寺境内の様子がわかりはじめている。
かつての境内は東西約1.2q、南北1qの範囲に広がり、境内の北側と東側には、三頭山からのびる尾根が横たわり、南側には女神川沿いに崖が続いている。

境内の中心部分は、東西方向の細長い尾根上にあって、社殿や堂塔が建ち並んでいた。これを挟んだ南北両側の谷(南谷と北谷)には多数の坊院が集中していた。当時の平泉寺は、まさに中世の「宗教都市」とよべる性格を備えていたことが判明しつつある。

坊院群の中を走る道路は石敷きで側溝を持ち、坊院敷地の出入口も等間隔に配置されるなど、かなり計画的な整備がなされていた。

坊院跡からみつかった遺物の多くは生活用品であり、坊院は宗教的な施設であると同時に、僧侶の日常的な生活空間であったことをよく物語っています。

食器類には、瀬戸・美濃焼をしのいで多くの中国製陶磁器が用いられていたようだ。
また、文房具や茶道具、生花具などもたくさん出土しており、これらを通して僧侶たちの生活や文化の様相をうかがえる。


万巻上人の唱える三所権現とは泰澄大師の唱える三所権現の応用とされ法躰(僧)・俗躰(在家)・女躰(巫女)の三体の神(権現)を祀ることであり、箱根三所権現は男女差や僧俗差を超越し、仏教と修験道とが習合し得る三体の神を等しく祀るという万巻上人のメッセージであった。修験者側からすると朝廷が全国に国分寺や国分尼寺を建て、本気で日本国に仏教を広めつつあることは察知しており、修験道の行く末が仏教という大津波に飲み込まれてしまうのではないかという大きな不安があった筈で、朝廷から遣わされた高僧との面会を、万が一の場合差し違えの覚悟で待ち構えていたに違いない。

修験者達は万巻上人の箱根山ふもとでの動静を遠くから見守り観察した。都育ちのやわなインテリ僧ではなく、自分達と同じように大自然に向かって難行苦行を積み祈祷も行う大上人であることを察知するようになり、殺気が先立つ心境から一度は話し合いをするのも良いかも知れないと、会う前の心境が変わったかも知れない。万巻一行が一気呵成に箱根山頂に向かったならば問答無用と命を落としていた可能性もあった。

芦ノ湖に住む9つの頭を持つ毒龍(九頭龍)が荒れ狂って村民を苦しめていたのを法力で調伏した。調伏された九頭龍は懺悔して宝珠・錫杖・水瓶を持って万巻上人に帰依したので、湖の主・水神(九頭龍権現)として祀ったとの伝承は巷に流されている。恐らく、万巻上人没後100年200年後に万巻上人の偉大な祈祷力を後世に伝えようとする巷の語り草が今日に及んだものと思われる。

九頭龍が宝珠・錫杖・水瓶を持って帰依したとある。宝珠・錫杖・水瓶は修験者の道具を指す。九つの頭とは箱根山を霊場と位置付ける全国の修験者諸派の9人の頭(かしら)を示唆し、九頭竜神社の創設は万巻上人と修験者集団との和睦を暗示している。九頭龍調伏とデフォルメされた伝承がされているが、現実的には失敗の許されない新しい宗教と古い宗教との命懸けの交渉であり、それこそ生死を分ける和睦だったに違いない。

何故に絶対降伏すべきでない仏教派の主張に対し、修験者達が抗し得なかったかである。それは、万巻上人の提示した俗躰の承認が大きい。在家出家が大半を占める修験者にとって具体的に朝廷側の認めた上人の俗躰承認の具体案に対し、これ以上の朝廷側への反逆は不益になると判断し、修験道に精通し神仏習合を唱える万巻上人の三所権現の表明に対し、修験者達は本気で味方しようとの腹を決めた。その水面下での協力者は白山修験者達だった気配が箱根山周辺に漂っているのだ。白山三所権現は箱根三所権現の先輩格であり、泰澄大師が修験者を束ねる本地垂迹の理に適っているからである。

もう一つ重要なのは女躰の存在である。万巻上人は大和の国は太古より女性が神=巫であり、神事と祭りは女性が本来担って来た史実を知っていた。修験道も胎内潜りとして生まれ変わりの行を重要視している。修験道に仏教色が濃くなって行く時代になって行くにつれ女人禁制とする山が多かった中、万巻上人は当初より諸々の禁制を提示しておらず、その後になっても女人禁制をとっていない。当時は、人間が死ぬと男女の区別なく、死者の霊魂が箱根山に吸い寄せられると信じられていたこともある。『新編相模国風土記稿』の元箱根の荒湯駒形権現の項には「往古箱根の地、箱根派修験比丘尼等、凡そ六百軒余住居せし頃、彼輩遙拝の為、地主駒形権現を勧請せしと伝ふ」とあり、箱根には「箱根派修験比丘尼」といわれる女性宗教者が多くいたことが伝えられいる。彼女たちは死霊が集まる箱根で死者の霊を口寄せし、慰める霊能者であったと考えらている。箱根派修験比丘尼のその後の全国への広がりを記録する文献は極めて乏しい。

万巻上人は、「仏教」対「修験道」という真っ向勝負を柔軟に避けている。論理や知識による論戦も避けている。古からの地元自然神と仏との本地垂迹へと論点をワープさせている。「箱根山の神である」と自ら名乗る三体の神々を上人が感得して、法躰・俗躰・女躰の三所権現を前面に押し出し、修験者達の山岳宗教の神と同根の神仏を平等に祀ることを大前提に置くメッセージに何ら反撃の余地は無かった。

俗躰・女躰のお墨付きが、今後の修験者や巫女の生活基盤を保証し得るものと理解された。これに加えて法躰は三世覚母の文殊菩薩の垂迹、俗躰は当来導師の弥勒菩薩の垂迹、女躰は施無畏者の観世音菩薩の垂迹とされる超一流の万巻上人の唱える本地垂迹の理念まで教導され、仏教と修験道が集合されて行く箱根修験道の端緒となった。万巻上人と修験者代表との話し合いは一本筋の通ったもので強く共鳴しあったのである。国分寺の阿闍梨よりも山岳修行を積む修行僧が尊ばれる時代が確かにあったのである。

血を一滴も流すことが無く、修験者達の崇拝する霊山に宿す神々を蔑むことも無く、神仏習合・本地垂迹の理に裏打ちされた箱根三所権現が修験者達に自然に無理なく受け入れられ、しかも朝廷から派遣された高僧の擁護下に置かれる心強さを修験者達に与えていた可能性は高い。芦ノ湖湖畔に金剛王院東福寺が建立されたばかりではない。その湖畔には九頭竜神社・弁財天も祀られ毎年祭りも履行されている。これら神社は神仏分離令に抵触しなかったことが幸いし、昔ながらの祭典が連綿と執り行われている。

明治6年、明治天皇の巡行に際し、小地獄は小涌谷に大地獄は大涌谷と名称が変更されたが、賽の河原などの地獄に関係する名称が今でも箱根山に多く残されている。全国の修験者諸派は箱根山=地獄と位置付けされ、地獄の霊場とされ全国の修験者諸派の共有霊場となっていた。当時最も情報収集力・宣伝力を有していたのは修験者集団とされ、したがって箱根を押さえるということは現代で言えば地方新聞社・ローカル放送局を手中にしたことになり、当時の朝廷の真の狙いは情報の全国ネットワークの構築にあったと思われる。

源頼朝の二所詣でと鎌倉への西からの防御壁。徳川家康の箱根山脈を江戸の重要の防御壁としたことに通ずる箱根山の地理的・軍事的条件が江戸時代まで重視されて来た。奈良時代にあっては東大寺が全国の国分寺の中心に置かれ僧達を統率した。私見ではあるが、朝廷の仏教の取り込みとの対立軸にあった山岳宗教とりわけ全国の修験者達の寄り集まる箱根に万巻上人を入山させ金剛王院東福寺を創建させ、全国庶民からの情報収集と情報提供の重要基地とし、一方で死後の世界で仏法の果たす役割を世に示す。仏教による国家安康を願う朝廷の重要な政治的アプローチが「万巻函根入り」の背景にあったものと思われる。

元箱根石仏・石塔群にうかがえるように、中世の箱根は死者の霊魂が集まる地蔵信仰の聖地だった。また、箱根には「箱根派修験比丘尼」といわれる女性宗教者が多くいたことが伝えられている。彼女たちは死霊が集まる箱根で死者の霊を口寄せし、遺族・悩める庶民を慰める霊能者であったと考えられている。三島市の阿闍梨小路に残される市子石も、この時代背景の流れを汲むものか関係無いものか問題が残されている。

先に述べた常陸の鹿島神宮の巫女のように箱根の修験比丘尼も同様に何故か万巻上人の歩かれた後には巫女(みこ)が付いて回り、性差別が激しかった当時、男女差を問題視しない万巻上人は後世における巫女の実質的な生みの親だと思わざるを得ない。弁財天が祀られていることも看過してはならない。

箱根神社は何を差し置いても九頭竜神社の祭典は第一に守り継続して来た。万巻上人が死力を尽くして達観した三所権現の三体の神と九頭竜と弁財天などは皆平等であることが根本原理である。万巻上人以降は祭りの主催者である箱根権現は九頭竜神社と弁財天の祭りは第一義の欠かせぬ行事なのである。

さて、万巻上人は徹底した神仏習合論者である。この思想は明治の神仏分離令が下されるまで全国の神社仏閣において連綿と続いている。本地垂迹として神と仏を融合させ祀っている。さて、万巻上人の残影を追うと同上人が第一に信奉していた仏は薬師如来だったことが読み取れる。万巻上人の弟子達も、薬師のことは周知しており、平安中期(11世紀半ば)ごろ新光寺の本尊として薬師如来座像が祀られている。

ここまで読まれた人ならば、箱根神社と箱根権現の二層構造が理解される筈である。箱根神社は明治元年の神仏分離令の直撃を受けた新たな神社であり、御祭神は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、 木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、となっており天皇系の神々が祀られている。

天平宝字元年(757年)〜明治3年1月3日(1870年)
金剛王院東福寺 阿弥陀如来
箱根三所権現の本地 法躰 (国重要文化財) 文殊菩薩
俗躰 (国重要文化財) 弥勒菩薩
女躰 (国重要文化財) 観音菩薩
箱根三所権現の末社 能善権現 普賢菩薩
駒形権現 馬頭観音 大日如来
吾妻権現 阿弥陀如来
明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」〜
箱根神社 箱根神社本殿 箱根大神(瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花咲哉姫尊)
摂社・高根神社 天児屋根命・天太玉命・天宇受売命  [配祀] 大山祇命・
乙橘姫命・誉田別命・稲倉魂大神・菅原道真朝臣命
摂社・駒形神社 高皇産霊尊・神皇産霊尊
[配祀] 櫛御毛奴命・??草葺不合尊・豊玉比売命・天照大神

国家神道の名の下に神仏習合の神々は表面上抹殺され天皇の命により創建された金剛王院東福寺の仏閣は取り壊され、別当や僧達は明治の世を生き継ぐ新たな神社神官の選択を余儀なくされている。悲しい歴史の中にあって苦渋の選択を余儀なくされた人々は、それでも往古の伝統を守り続け1200年続けられて来た万巻上人の精神を深く理解し、今も祭りや行事は堅持されており芦ノ湖畔の神々は大切に祀られている。
奈良時代の天皇の命により創建された寺院の仏閣や仏像が壊された。明治に入り歴史に無知蒙昧な戦争屋により扇動された民衆により全国で多数の貴重な歴史文化遺産が破棄されている。
謂わば古の天皇に対する謀反行為であると断言できる。
→廃仏毀釈wikipedia

私が箱根神社に詣でる機会があるならば、まず真っ先に拝みたいのは箱根山を北限とされる姫沙羅(ヒメシャラ)の純林である。他所のものより幹が赤いのが特長であり幹が滑らかで美しい。この姫沙羅は、 箱根外輪山の一角「鞍掛山」南西斜面の標高600m〜800mの、江戸時代から禁伐林として保護されてきたアカガシ、ブナ、ヒメシャラなどの林に広がる。万巻上人の菩提寺・新光寺のある小筥根桑原の方向に自生している。奇しくも静岡県田方郡函南町の町木に指定されている。私は金剛王院東福寺の開祖である万巻上人の墓(奥津城)の近くにある姫沙羅の純林が気になってしょうがない。万巻上人と姫沙羅の関係が気になるのだ。金剛王院東福寺跡の礎石もある近くの姫沙羅の純林が往古を偲ぶ唯一残された姿と思えるのである。


姫沙羅ヒメシャラ  ( イギリスでは、森の女王と呼ばれている )

箱根を代表する樹木の一つで、太平洋側の山地では箱根が北限にあたる。
箱根神社周辺にはヒメシャラの純林があり、その数は百本以上という。
和名「姫沙羅」のシャラは、インド産の沙羅双樹(サラソウジュ)のことで、昔の人がナツツバキのことをそう呼んだのだという。

万巻上人が金剛王院東福寺を創建した時、既に人工の建造物は儚く姿を消すが仏法の源の沙羅双樹の純林は永劫に仏法の痕跡を残すに違いないと、朝廷からの勅令(仏法による山岳宗教界の統率)を順守する気を込めて同寺周辺に姫沙羅の仏教色の濃い姫沙羅林を造園した可能性は高い。

なぜに姫沙羅が箱根山が北限なのか?、諸説あるようだが私は万巻上人の神通力とここでは答えておくが天城連山に続く万三郎岳への山道に繁茂する姫沙羅をはじめとする巨木群は伊豆半島の真の宝と思われる。

ちなみにヒメシャラとナツツバキの花はよく似ていて、2cmほどの白い花をつける。この木は、樹皮に特徴があり、色は淡赤褐色、触れるとヒヤリと冷たく、他の木の肌と比較するときに良い教材になる。冷たいのは、樹皮のすぐ内側を、水を吸い上げる導管が通っているからという。木肌が美しいので、家屋の床柱として珍重されている。樹皮が剥がれ落ちたあとには、灰白色の斑紋ができる。
花期は6月〜8月だが、高木なので花は遙か上、近くで見るチャンスは少ない。
9月頃、果実が熟す。果実は1.5cmほどの卵形、白い毛が密生し木質で堅い。
この数年間、湖尻から大涌谷に至る自然探勝路のヒメシャラが、枝にこぶ様のふくらみを持っている。虫こぶとは明らかに違う。病気だろうか。
ヒメシャラと似ているヒコサンヒメシャラは、木肌に輪のような筋があること、枝ぶりが荒いこと、などで区別する。種子はヒメシャラより大きい。箱根に多く自生している。

「沙羅双樹(さらそうじゅ)」と呼ばれることもあるが、お釈迦(しゃか)様が亡くなったときに 近くに生えていたことで有名な「沙羅双樹」は、 全く別の熱帯樹のこと。 「沙羅双樹」は日本の風土では育たない。          
  では、なぜ夏椿がこの「沙羅双樹」に 間違われたか・・・。 

  昔、ある僧侶が、仏教にゆかりのある沙羅双樹の樹は日本にもきっとあるはず、と山に入っていろいろ 探したところ、夏椿の木を見て 「これが沙羅双樹だ♪」と思い込み、それを広めたため、との説がある。


天平宝字7(763)年に,伊勢国(三重県)桑名郡の多度神社近くの道場に住み,丈六の阿弥陀仏の像を造立したところ,忽然と人が現れて,「重い罪業を行ってきたため,報いとして神の地位(神の身となって)を受けている,永久に神の身を離れるために,仏法に帰依したい」と多度神の託宣を告げた。満願は山を切り開いて,小堂を建て,また多度神の神像を造り,多度神に菩薩号を贈り,多度大菩薩と名づけて,この多度神宮寺に安置した。これが文書に現れた最初の神像制作である。

太子山上宮院 正法寺(しょうぼうじ)は、愛知県豊川市赤坂町にある真宗大谷派の寺院である。山号は太子山。院号は上宮院。本尊は阿弥陀如来。
聖徳太子が三河地域を訪れた際、赤坂上宮という所に太子を祀る堂宇(太子堂)を建てたことが創立の切っ掛けであるとされる。嵯峨天皇の時代(809年 - 823年)に、万巻上人が箱根神社再建の勅許を得るため上京したが、その帰途に病を得て太子堂にて療養し、弘仁7年(816年)10月2日に死去した。上人の弟子らは、太子堂を改築して上人を開基とした。

古伝承の一つに嵯峨天皇が万巻上人の霊廟を創るようにと勅命が下されたものと伝えられているが、これが太子堂なのか小筥根山新光寺だったのか具体的霊廟の場所と建物名などが銘記された古文書に接することが出来ない。新光寺は七堂伽藍の大きな寺院であったようで当時の箱根権現は万巻上人が嵯峨天皇に箱根権現社の再興再建を上奏している経緯もあり箱根権現社に七堂伽藍を創建する財政的余力は無かったと見られ、また弟子達も太子堂を造ったばかりで資金的余裕は無かったと推察される。
だとするならば、他界後の翌年に造られた新光寺の七堂伽藍は嵯峨天皇の勅令により万巻上人の霊廟として造られた可能性が高い事になるが、嵯峨天皇と新光寺の因果関係の確証を得るに至っていない。

確証は得られていないものの、社伝によれば第五十二代嵯峨天皇は弘仁八年(817)勅により駿豆相(実質的には小田原藩領とその周辺)の三州を寄進したと伝えられ万巻上人が他界した翌年817年小筥根山・新光寺が建立された年と奇しくも符合しており、確信は無いものの三州寄進と新光寺建立との因果関係が読めそうな気がして来た。

後年とはなるが第六十五代花山天皇の時には、皇子豊覚王が第十五代座主職に着任、天皇の皇子を賄う上でそれ相応の経済的基盤が無ければあり得ぬことと思われ箱根権現は底支え出来る経済基盤を有していたと見られる。また鳥羽上皇は箱根権現を崇敬し、酒匂郷四十八町を寄進しており、箱根権現は創建時より万巻上人草創の権現社と東福寺とが一体を成しており、仏教色が強かったため式外社とされていたが、朝廷の信仰篤く、関東鎮護の別格大社として崇められていた。

話は飛ぶが万巻上人が生前中の箱根山の火山は大きな噴火は無く小康状態を保っていた。富士火山の延暦噴火(800〜802年)は,日本後紀の「灰が雨のように降り,山や川は紅に染まった」「砕石が道を塞いだため,足柄路を廃して箱根路を開いた」等の記述内容から,青木ヶ原溶岩流を流した貞観噴火(864年)や宝永噴火(1707年)とならぶ富士火山の歴史時代の3大噴火とみなされてきた。

ところが最近の調べから足柄路を埋めつくしたはずの噴火堆積物は極めて薄いことが判明し、実質的に富士吉田東部地区が溶岩により埋め尽くされ富士山北斜面を通っていた一番古い東海道が長期不通となり、1年後には早くも開通したというのは沼津の根方街道に繋がる富士山南側ルートの旧東海道の切り換えだけのことだった。ただ、短期間とは言え、箱根峠を越える東海道の造成は喫緊の課題とされ、この地を統治する箱根権現への朝廷からの勅令があったものと推察され、万巻上人の弟子達が修験者や地元農民などの協力を取り纏め小田原と三島を繋ぐ新たな東海道を造ったものと思われる。

明治元年神仏分離令によって箱根権現が権現号を廃止し、箱根神社と改称した際に、金剛王院東福寺は廃寺となり、堂塔伽藍は打ち壊されたが、金剛王院の本尊阿弥陀如来と親鸞聖人筆と伝えられる十字名号とともに、親鸞聖人像は箱根の萬福寺に移され難を逃れている。明治になる前は箱根三所権現(箱根大権現)と称され万巻上人が建てた金剛王院東福寺が中枢をになっていたが、三所権現・九頭竜神社・弁財天が箱根大権現の最も大切な柱であったことを忘れてはならない。

→廃仏毀釈wikipedia



最後になるが、注目すべき二体の神像が箱根神社の倉の奥から見つかったことである。奈良時代の神の像など全国的に前代未聞のことではあるが、俗躰女躰と見られるユニークな像が確認されたのである。残された僧躰は万巻上人座像であり計三体となり言い伝えと符合する。万巻上人座像は万巻上人を描写した人物像では無く僧躰のご神体と理解した方が三所権化の由緒から自然である。製作年代は万巻上人が生きていた時代より、ずっと後の事と鑑定されたが、製作されたのは平安後期でも鎌倉時代に入ってからでも構わない。要は、万巻上人が山上の神々をモチーフに新たな神々を作り上げ、万巻上人の唱えた二体の神像と己の像を後世の弟子が木造彫りし彩色し、現在の平成の時代へ三体残した創造的で自由闊達な原初の社風が、今もなお芦ノ湖畔に吹き渡っているように感じた。

既に国重要文化財に指定されている「木像萬巻上人座像」に加え、この二躰の神像が国重要文化財に2012年4月21日指定されたことを「あしがら新聞」が報じている。



万巻上人が愛した函南桑原
泰澄大師
あしがら新聞

【 不思議発見 】
山岳宗教のメッカ・白山と富士山と箱根山(神山・駒ヶ岳)は一直線上にあった。白山と箱根山の距離230km。

万巻上人の霊廟・新光寺跡付近を散策したい人への函南見どころマップ

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「神道集」巻第二 二所権現事

相模国大早河上湖池水辺ニ、 万巻上人ノ難行苦行ノ功依テ、三所権現顕レ給ヘリ、
三人異形ニシテ、万巻上人ニ名乗テ言ク、 我等三人ハ即此山ノ主ナリト、 上人ニ向テ三人同音ニ唱テ言、 池水清浄浮日月、如意精進来天衆、三人同倶住此所、結縁有情生菩提、 又我等三人異躰ナル事ハ、即法躰・俗躰・女躰ノ三形是ナリ、
之ニ依リ御本地ヲ申ハ、法躰ハ文殊ナリ、[中略]、 因位ノ昔ハ斯羅那国源ノ中将尹統入道殿是ナリ、
俗躰ハ弥勒菩薩ナリ、[中略]、 因位ノ昔ハ波羅那国太郎王子是ナリ、
女躰ハ観音ナリ、[中略]、 因位ノ昔ハ,斯羅那国源中将之御姫常在御前是ナリ、
能善権現守護ノ山神、八大金剛童子、本地ハ普賢菩薩ナリ、[中略]、
吉祥駒形ハ太郎ノ王子ノ兵士ナリ、本地馬頭観音ハ、抜済心ニ深シ

「諸神本懐集」

大箱根ハ三所権現ナリ。 
法躰ハ三世覚母ノ文殊師利、俗躰ハ当来導師ノ弥勒慈尊、女躰ハ施無畏者観音薩垂ナリ。

「新編相模国風土記稿」巻之二十八(村里部 足柄下郡巻之七)

箱根三所権現社 上

祭神三座、瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・木花開耶姫尊なり、 (各木坐像にて、万巻上人の作と云、秘して別当と雖も拝する事なし、) 天平宝字元年、万巻上人霊夢の告ありて、勧請する所なり、 (縁起曰、万巻上人天平宝字丁酉、投錫宇禄山、練行修史、一夕有霊夢、三輩各告之、我等斯山旧主、権実応化之垂跡也、汝留令修練云々、三容各異其貌、有比丘形、左執如意宝珠、右掬独鈷也、我是為三世諸仏、助出世化儀、以汝心清浄吾今現形矣、又有宰官形、手持白払云、当来導師也、汝因慇懃吾現此矣、又有婦女形云、我是聞思修大士也、汝以有上求下化悲願、故我今来此矣、三容異口同音唱云、池清水浄浮月影、汝意清潔来三躰、三身同共住此山、結縁有情同利益、万巻夢醒矣、日数不幾、彼霊瑞達天聴、即為勅願造梵宮、飾霊場鋪以金玉、而奉崇三容於一社、霊廟各号筥根三所権現、)
[中略]
本地仏釈迦、(木立像、長六尺二寸、)弥陀(同上、長三寸五尺)の二像を置、 弥陀の像には、文殊、(行基作、)弥勒(玄ム作、)観音(吉備大臣の安置する所と云、)の三躰を腹籠とす、
[中略]
△本社(桁行四間二尺余、梁間三間二尺余、但六尺五寸を以て間とす、此下間と云も皆同、)
△幣殿(桁行三間二尺余、梁間三間一尺、)
△拝殿(桁行六間一尺余、梁間三間二尺余、) 安元二年行実造立せし事、縁起に見ゆ、 箱根大権現の額を掲ぐ、近年修造の時、新に作る所なり、藤原朝臣基敦の筆、 又銅燈籠二対を置、 寛文十三年九月の鰐口をかく、
△石瑞籬(社の四方にあり、合八十間、)古は廻廊あり、寿永二年頼朝卿造立ありし事、縁起に見ゆ、
△唐門(両楹間八尺、)関東惣鎮守の額を掲ぐ、是も基敦朝臣の筆なり、元暦の頃頼朝卿中門を造立せしと、縁起に見えしは、此門の事なるか、
△本地堂(桁行二間五尺、梁間二間一尺、)一名相殿堂と云、 本地仏は今本社に置、此堂には、観音(銅像、)及弘法大師(木像、)万巻上人の像(同上、)を安ず、 慶長四年八月、宇賀兵庫奉納の鰐口をかく、
△鐘楼(方一丈一尺余、仮に造る所なり、)永仁四年五月の古鐘(径三尺四寸、高六尺、厚さ四寸五六分、)をかく、
[中略]
△末社 △本宮 △離宮 大平皇子を合祀す、△白鳥 △灰島 △右鵲王 △左鵲王 △八幡 △天神 △稲荷 △神明 春日を合祀す、
△駒形能善高根権現合殿 駒形は大磯高麗権現を勧請す、能善は熊野権現、高根は高彦根命を祀る、又聖占仙人、利行丈人、玄利老人の三祖像を置、長寛二年五月、別当行実当社を再興す、
△勝名荒神 曾我五郎時致の霊社なり、正保四年稲葉美濃守正則建、祭祀五月二十八日、此社の宝物に、こうひら丸と号する刀一振あり、
△第六天 △山王 △一之護法神
△駒形権現(以下社外の末社なり、)駒ヶ嶽にあり、(石祠、)当山の地主神なり、祭神国狭槌尊本地仏大日を置、聖占仙人の勧請する所なり、嵯峨天皇の頃、神威を現す、寿永中頼朝卿此神を豆州奈古谷に勧請す、元暦二年、頼朝当社の拝殿を再興す、社後に馬降石と唱ふる石あり、(大さ方九尺、)石上に、小さき穴あり、(各一升程の水あり、名けて金剛水といふ、如何なる旱魃にも枯ることなし、)又傍に馬乗石と云石あり、(長一丈、横二間許、此石上に往古白馬出現ありしと伝ふ、是皆当山七名石の中なり、)
△八町駒形権現 八町坂の傍にあり、元禄四年勧請す、
△山神 二
△吾妻権現 賽ノ河原の東山上にあり、祭神日本武尊、本地仏弥陀(銅立像、)を置、
△弁財天(方三尺五寸、)堂ヶ島にあり、像は弘法大師の作、(長五寸五分、)
△蓑笠明神 箱根宿三島町にあり、
△荒湯駒形権現 同宿蘆川町にあり、往古箱根宿の地、箱根派修験比丘尼等、凡六百軒住居せし頃、彼輩遥拝の為、地主駒形権現を勧請せしと伝ふ


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