満宮神社に関する歴史的資料は極めて乏しい。私は森山という地形に着目した。標高36mとされる小さな山である。縄文海進の時代は海上に浮かぶ小さな島だった筈である。縄文海進の時代を通り抜け周囲が平らな大地が開かれる頃、西には嵐山や鷲羽山が平野を包み込み日没の空を静かに収める。やがて、この地域に伊豆半島東岸に芽生えた海洋民族が移り住み独自の文化を形成した。それが、この一帯に残る穴群と思えるのである。
満宮神社は何かを秘めている。穴群を造った末裔の霊が宿っていると感じるのである。なぜなら太陽の軌道線上に形成された穴群の扇の要に位置し平野部で目立つ森山に、往時の人々の関心が寄せられぬ訳は無い。
そこに祀られたのは年終えた古い神様では無かった。これからの農耕を支える「日守」、つまり若殿を祀った。
限られた古文書から類推するならば、その若殿とは当時の人望厚かった「ひた王子」に他ならぬ。この神は式内神宮に当たらない。明治3年、八幡宮と処せられたが明治18年に元の満宮神社と称するようになっている。史料に残されていないが地元の誰かが八幡宮への異議が叶えられた証しとして注目される。
満宮神社の旧称は満後神社(まごじんじゃ=孫神社)、江戸時代には「萬後明神」と称していた。御祭神は誉田別命 (配祀)王子大神 少名彦命 大山祇命とされる。明治に入ってからの廃仏毀釈の影響も加わって式内宮天皇系の神の名が加わっているが、本来の王子(おおじ)大神の名は残されている。また、三嶋大社の御祭神・大山祇命の神も加わっている。
さて、現在目視可能な森山に話を戻そう。森山は古式蒼然たる原風景を残す社叢背景の森山は海抜36m、丘陵面積は8107u。山頂には森山稲荷神社が鎮座する。古くは土器等を多数出土したと伝えられている。
鎌倉時代の歌学書『八雲御抄』には森山は「田方の杜」と称され「夕されは千町の稲穂うちなびき田方の杜に秋風ぞ吹く」と詠われている。
境内案内によれば、「明治初年頃の神苑は老松が何本も生え、神社は茅葺でした。老松は落雷、松くい虫で枯れ昭和51年南西の1本が最後に枯れた。大正10年氏子の寄付に依り社殿が瓦葺に改築され昭和48年には屋根瓦の葺替工事を致し、是も氏子が瓦数枚ずつを寄付修復現在に至って居ます」とある。
神津島と海の道を記した私がピンと感じたのは、卑弥呼の時代に造られたという沼津市東熊堂の熊野神社境内から発掘された前方後円墳だ。伊豆半島南東部の神津島を中心に萌芽した海人族、大山祇命を信奉する海洋族の一部は弥生時代には狩野川河口付近の沼津に辿り着き集落を形成した。そして大きな古墳を残し各地に海神族の神社を勧請した。やがて狩野川を上りつつ集落を広げ函南肥田を中心に穴群を残した。
僻地の小さな神社こそ真の歴史が埋没する。その意味で肥田の地は伊豆神祇史的に見て重要な空間と思えるのである。肥田の地の鎮守は「ひた王子」(若宮)を祀る社と「皇后の宮」の二社だった。実は皇后の宮「きさきの宮」は沼津式内:長濱神社の勧請社とされ、長浜御前=伊豆諸島神津島にいます伊豆三嶋大神の本后・阿波命を祀った社だった。
大山祇命も本后・阿波命も気の遠くなる大昔の祖先の神々である。その神々を信奉する子孫が、近世で例えれば江川太郎左衛門の如く代々同姓を名乗っていたと同様に、また歌舞伎役者が先代の名を踏襲するように一族の殿様・妃・その王子も連綿と同じ神を祀りながら血脈を繋げていた。ひた王子もその一人であり千町の稲穂うちなびく田方の杜に祀られた。かつて森山は「王子の森」と呼ばれ下の境内には「王子之森稲荷」が今尚祀られている。田方の杜つまり森山の満宮神社はひた王子の本地なのである。南方約600m先の肥田神社はその後裔社であり、肥田の地を開墾した祖先の霊を祀った社なのである。
むろん、王子の森山頂に祀られている森山稲荷神社もひた王子の後裔社である筈で、単なる稲荷信仰の真似事では無いと言える。残念ながら伊豆の小さな神社には歴史的精査は行われておらず未知の分野になっている。
ただし、この山頂から南西方角の日守の大嵐山から鷲羽山にかけての山並みに沈み込む夕焼けは、なぜか三次元を超越した風情が漂っているのは今も変わりない。
|
|