間宮の賽の神の祀られた場所に注目したい。新しい「間宮」と呼ばれる村が創られた際、村の出入口に村民一同が協力して村の安全と繁栄を祈念して賽の神が祀られた。特に地元の小中学生に知っていて欲しいのは、三嶋大社と韮山を結ぶ旧下田街道が賽の神の前の道路だったという点である。
鎌倉時代に源頼朝が北条時政に命じ、三嶋大社の整備とともに下田街道も拡幅整備させ、道路の要所に鳥居を設け、大場川に架かる橋も修復整備させている。三嶋大社(みしまたいしゃ)を出発して間眠神社を通過、左内神社と右内神社の間を抜け、大場川を渡り、直ぐにあるT字路を右折して間宮の賽の神の前を通る道こそ旧下田街道だったことを若い人は憶えていて欲しい。
この古道沿いの西側には寺院や神社が並んで建てられているのも三島と韮山を結ぶメインストリートだったことの証しである。間宮の賽の神は間宮村の出入口に置かれ、爾来風雪に耐えて来たのである。
【間宮の道祖神】 :単体・坐像・丸彫・笏持
さて、函南町の鎌倉時代から歴史を振り返れば、函南町の土豪として仁田氏がおり、古くから函南の歴史に関わってきた。有名なのが1180年(治承4年)源頼朝の挙兵の時、山木館攻めに仁田次郎忠俊、仁田四郎忠常が従っている。特に、仁田四郎忠常は1193年(建久4年)富士の巻狩りでの猪退治で活躍、建久4年(1193年)の曾我兄弟の仇討ちの際に、兄の曾我祐成を討取った事や富士の人穴探検などの逸話で知られている。ちなみに、1203年(建仁3年)北条時政の謀略により加藤景廉に討たれ、他の兄弟共に相模鎌倉で死んだ。そのため、函南町仁田には仁田四郎忠常の墓があり、町の史跡となっている。
上記の仁田氏以外に、土豪として主に肥田郷に肥田宗直、畠郷に新田信綱がいた。特に、肥田宗直は、伊豆直家の係累といい、鎌倉将軍源頼家の側近の中の側近でもあった。新田信綱も、先祖の新田秀綱の兄とされる小野寺通綱が平家討伐に功をあげて源頼朝から畠郷を与えられ、新田秀綱の子通房が畠郷に住み、その子の重房が新田太郎と称し、その子重綱の四男が新田信綱にあたる。
桑原は小筥根と称され平安時代末期より箱根三所権現の神領となっていたが、その他の函南町域の郷村の多くは、鎌倉時代から室町時代初期まで、走湯山の神領であった。丹那郷もその一つであったが、1336年(建武3年)以降、伊豆国の守護と目代を兼帯した祐禅が、三嶋大社の造営役を丹那郷に賦課し、田畠山野を押領して狩猟を欲しいままにする事件が起きている。
鎌倉公方四代を経て、小田原北条氏の時代になると、函南町域の支配関係が変化した。仁田と肥田は馬廻衆の松田助六郎、畑郷は小田原衆の西原善右衛門、間宮は伊豆衆の秩父次郎左衛門、平井郷は玉縄衆の北条綱成、桑原は御家門方の北条幻庵、丹那と塚本は川越衆の大道寺弥三郎の所領となっており、肥田には松田助六郎の他に、伊豆衆の笠原美作守の所領になっていた。
北条氏直の家臣に山口淡路秀房がおり、1590年の相模小田原城の落城により丹那村の川口教影の養子となり、川口秀房と称して、丹那・畑・田代村の名主となる。尚、川口秀房は後に、当村域の凶作により領主への年貢減免を直訴し、要求が認められたものの死罪となった。
函南町域は、1600年の関ヶ原の戦いまでは、韮山城主内藤信成の領地となっていたが、駿河府中への転封となったのち、大部分が旗本領となり、一部が相模小田原藩・相模萩野山中藩領となり、のちに駿河沼津藩・幕府領に編入される。
1881年(明治14年)仁田常種、川口秋平らによって丹那産馬会社を設立、畑の大洞山に牧場を設ける。
1889年(明治22年)4月1日:田方郡仁田村・畑毛村・肥田村・塚本村・柏谷村・畑村・軽井沢村・桑原村・田代村・大竹村・丹那村・上沢村・平井村・大土肥村・間宮村、駿東郡日守村が合併し、田方郡函南村が成立する。
1896年(明治29年)仁田大八郎が仁田信用組合を設立。
1896年(明治29年)駿豆電気が平井に水力発電所を建設、函南村に電灯がついた。尚、丹那トンネルの工事により、水力が減り大正末期に閉鎖。
1926年(昭和元年)仁田大八郎が、丹那牛乳を東京に売り込む為の伊豆畜産販売購買利用組合を設立。
1934年(昭和9年)丹那トンネルの工事を原因とする深刻な農業用水の不足に悩む農民が騒動を起こす(水騒動事件)
1934年(昭和9年)丹那トンネル開通。函南駅を設置。
1963年(昭和38年)4月1日:町制施行により函南町となる。尚、町制施行以前は、「かんなん」や「かんなみ」と読み方がまちまちであったが、町制施行で「かんなみ」で統一される。
明治22年には既に間宮村の名が見られることから、間宮の賽の神も明治以前に造られたものとされるが詳細年月は不詳。歴史全般から考えると、それほど古い時代ではないことが分って来る。函南の双体道祖神は江戸時代のものも含まれるから間宮の賽の神より古い。かんなみ仏の里美術館に展示される仏像は更に古い時代となり、7世紀に造られたとされる函南の穴古墳群は更に古い歴史を刻んでいる。
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