平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた石橋山の戦い(いしばしやまのたたかい)で8月24日に戦死した北条宗時と狩野茂光の墓である。
韮山寺家の森山の地に墓地が造られず、来光川右岸に位置する小高い丘の上に埋葬された訳は、当時の武士の心情から推し測れば、北条時政は、主君・源頼朝の初めての本格的合戦において大敗北をしてしまい、息子を無くしてしまった無念さは大きかったが、一族の中枢部に亡き息子を葬り、頼朝や政子の足元周辺から負け戦を遠ざけ忘却せしめたいという一念が強かったのではと思われる。
さりながら、石橋山の戦いで、平家方の俣野景五郎と一騎打ちをした頼朝の家来・佐奈田与一に対し、1190年には源頼朝が与一の墓参りに石橋山を訪れ、後に討ち死の地に与一塚が建てられ与一を御祭神とする佐奈田霊社が祀られている。また1194年(建久5年)、源頼朝が衣笠城が攻められ、籠城の末、討死(89歳)した三浦大介義明の菩提を弔うために材木座の来迎寺を建立している。本堂横には義明の五輪塔が、本堂裏には三浦一族の墓がある。本尊阿弥陀三尊・伝運慶作が祀られている。
なぜか、頼朝は伊豆の重鎮・狩野茂光と北条時政の子息・北条宗時の墓参りしたという記録は残されていない。時政は顔には出さなかったが、腹の中では息子の不憫さを引き摺っていたに違いない。頼朝の死後、北条時政は執権として事実上政権を握る立場となり、早浙した宗時の無念を弔うため函南桑原を訪ねている。運慶の流れを汲む「慶派」の仏師実慶を呼んで阿弥陀三尊像を造らせ新光寺の末寺に奉納している。北条時政の墓がある願成就院の仏像も素晴らしいが、今回、国指定重要文化財となった阿弥陀三尊像も北條一族が幕府の牽引役を務め、鎌倉文化が田方の地域にもたらすベクトルが働いていたのだ。
かんなみ仏の里美術館に安置されている北条宗時弔いのために造られた阿弥陀三尊像を拝観する折には、函南駅近くの丘の上にある両人の墓地を訪ねられ、お祈りされることをお奨めしたい。
さて、石橋山の戦いの後、頼朝、土肥実平一行は箱根権現社別当行実に匿われた後に箱根山から真鶴半島へ逃れ、船を仕立てて真鶴岬(神奈川県真鶴町)から出航。時政らも引き返して船を仕立て、海上で三浦一族と合流し、安房国を目指して落ち延びた。
9月、安房においては頼朝は再挙し、安西氏、千葉氏、上総氏などに迎えられて房総半島を進軍して武蔵国へ入った。平氏方目代に圧迫されていた、千葉氏、上総氏などの東国武士が平氏方目代や平氏方豪族を打ち破りながら続々と参集して、1か月かけて数万騎の大軍に膨れ上がった。その後武蔵豪族を味方につけ10月6日に頼朝は鎌倉に入る。
10月20日に富士川の戦いにて、武田信義らの甲斐源氏らとの同盟により京から派遣された平維盛の軍勢を撃破した。この後、佐竹氏、新田氏などの頼朝に従わぬ豪族達との対立を制し頼朝は坂東での覇権を徐々に確立していくことになる。
石橋山の戦いで頼朝を破った大庭景親と伊東祐親は平家方に合流しようとするが失敗し、景親は降参するが許されずに斬られ、祐親は捕えられ自害した。頼朝は征夷大将軍となり武士政権を確立している。
頼朝旗揚げに参戦し、夢半ばで命を落とした北条宗時と狩野茂光の二基の墓標は質素にひっそりと830年の風雪に耐え佇んでいる。それにせよ茂光の墓は小さ過ぎると思うのは私だけだろうか?
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