肥田神社(田方郡函南町肥田832番地)は、明治44年(1911年)に、村社であった皇后神社を同じく村社でもあった若宮神社と合祀し、神社名を肥田神社と改称したのが、現在の肥田神社である。
皇后神社の祭神は、氣長足姫命である。創建年月不明。例祭日は1月15日であり、元々皇后宮と称していたが、明治6年(1873年)に、皇后神社と改称したものである。
若宮神社の祭神は、肥田王子(ひた王子)である。例祭日は10月15日であり、明治に入って若宮八幡宮と称していたが、明治6年(1873年)に、若宮神社と改称したものである。 現在の肥田神社境内に鎮座しているが、元々は蛇ヶ橋上に鎮座したものであり、後明應中時代(1492年〜1500年)に現在の場所に移転している。
掻い摘んで申せば、塚本・肥田・日守などの穀倉地を統治していた「ひた王子」と、その母に当たる皇后の宮を祀っている。詳しく申せば皇后の宮「きさきの宮」は沼津式内:長濱神社の勧請社とされ、長浜御前=伊豆諸島神津島にいます伊豆三嶋大神の本后・阿波命を祀った社だった。
神津島と海の道を記した私がピンと感じたのは、卑弥呼の時代に造られたという沼津市東熊堂の熊野神社境内から発掘された前方後円墳だ。伊豆半島南東部の神津島を中心に萌芽した海人族、大山祇命を信奉する海洋族の一部は弥生時代には狩野川河口付近の沼津に辿り着き集落を形成した。そして大きな古墳を残し各地に海神族の神社を勧請した。やがて狩野川を上りつつ集落を広げ函南肥田を中心に穴群を残した。
僻地の小さな神社こそ真の歴史が埋没する。その意味で肥田の地は伊豆神祇史的に見て重要な空間と思えるのである。肥田の地の鎮守は「ひた王子」(若宮)を祀る社と「皇后の宮」の二社だった。実は皇后の宮「きさきの宮」は沼津式内:長濱神社の勧請社とされ、長浜御前=伊豆諸島神津島にいます伊豆三嶋大神の本后・阿波命を祀った社だった。
大山祇命も本后・阿波命も気の遠くなる大昔の祖先の神々である。その神々を信奉する子孫が、近世で例えれば江川太郎左衛門の如く代々同姓を名乗っていたと同様に、また歌舞伎役者の先代の襲名の如く一族の殿様・妃・その王子も連綿と同じ神を祀りながら血脈を繋げていた。
ひた王子もその一人であり千町の稲穂うちなびく田方の杜に祀られた。かつて森山は「王子の森」と呼ばれ下の境内には「王子之森稲荷」が今尚祀られている。田方の杜つまり森山の満宮神社はひた王子の本地なのである。南方約600m先の肥田神社はその後裔社であり、肥田の地を開墾した祖先の霊を祀った社なのである。
むろん、「王子の森」山頂に祀られている森山稲荷神社もひた王子の後裔社と見られ、単なる稲荷信仰の真似事では無いと言える。残念ながら伊豆の小さな神社には歴史的精査は行われておらず未知の分野になっている。
ただし、この山頂から南西方角の日守の大嵐山から沼津の大平山・鷲頭山にかけての山並みに沈み込む夕焼けは、なぜか三次元を超越した風情が漂っているのは今も変わりない。
沼津アルプスの西南端の中里穴群の最も高位置の巨大穴墓の正体は未だ五里霧中なのだが、肥田一帯を統率していた王族の墓だった可能性を直観せざるを得ない。太陽の沈む大嵐山〜鷲頭山の山稜を望む平野部を「日守」と呼称し、「没した太陽を尊く見守る里」として、同時に尊き祖先の霊の眠る中里穴群・北江間穴群を見守る扇の要を森山と推評すれば、肥田神社は後裔社として光を増してくるのだ。
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