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養徳寺周辺の縄文エリア (ただし、私的イメージ)

養徳寺は臨済宗・円覚寺の末寺。禅寺を語るに多くを要しない。本堂の前の石庭を観音すれば枯山水が語り出す。境内東奥には縄文後期の磨製加工された石棒が保存され時空を超えた異時空間を無言で伝える古代の「子孫繁栄」の祈念碑なのである。

古文書が焼けて無くなっても、歴代の英俊な住職が口伝や作務により寺歴を伝え、古きものをあるがままに存続せしめ、未来永劫の異次元「三界萬霊」に貫通する禅の本姿を守り続けている。
大きな緑色の本堂の屋根は凛々しく立ち、境内の空気も清々しい。以前の古寺の焼け残った鬼瓦は本堂南面近く、東側の仏塔の基壇との間に配置され、古き良きものを見捨てない姿勢が見えて来る。

立地がまた凄い。同寺の南にある不動堂の不動滝は縄文時代には飲み水に使われ、縄文海退に相俟って稲作の始まる弥生時代や古墳時代には農業用水に使われたに違いない箱根伏流水の湧水ポイントが存在する。一方、西方には推定樹齢950年、樹高51m、幹囲13.5mの田方平野において大きさ一位の大楠を有する天地神社が祀られている。同寺の前道向うの石の階段から同神社の裏手に繋がっている。

養徳寺周辺の地形から考察するに東西南北に小高い丘で囲まれた広大な樹海の中の小さな盆地であった。今では道路が造成され、天地神社など民家に囲まれ手狭となっているものの奈良平安時代以前は函南町役場辺りまで広がる樹海だったに違いない。養徳寺周辺に広がる丘と樹海は東西南北からの強風を防ぐ天然の擁壁として機能しただけでは無く、天と地を繋ぐ大木は神として崇められ、原初的祈りの場として人の手が入ってはならぬ神聖な場所として機能したものと私は睨んでいる。

嘉慶元年(1387年)、用固和尚の開創。享保七年(1720年)、一渓和尚により中興。
安永六年(1777年)、火災により焼失。寛政元年(1789年)、牛窓和尚によって再建され今日に及ぶ。

「縄文時代の子孫繁栄を祈念した石棒と養児観音と父母観音が時空間を飛び越え共存している」・・・稀有なお寺ではある。

静岡県田方郡函南町平井1126 電話番号055-978-2176 駐車場あり。

養徳寺の山門 養徳寺の本堂
養徳寺の石庭 養児観音
父母観音 本堂南側の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
以前の寺の鬼瓦 墓園入口の結界を守る地蔵尊像
東側奥の地蔵尊の後ろの石の棒 縄文時代後期の石の棒3本が境内にある
養徳寺山門前参道左の石仏 養徳寺山門前参道左の石仏

【縄文時代の石棒について】

石棒の大小形の変化は単なる物理的変化ではなく、内容的・質的な転換を意味すると思われる。配石遺構などに立てられた大きな石棒は、衆目を集めるべく安置されたと見られ、そこには機能用途的な違いが認められる。函南町養徳寺の石棒は1m以上のものがあり大きいグループに属している。大中小三本揃って同時に見られるのがなにより嬉しい。私の知る限り、函南町では最古の石造物と思われる。

全国的には、静岡県藤枝市・天ガ谷遺の男根状石棒。福島県福島市・宮畑遺跡の男根状石棒。 滋賀県伊吹町・杉沢遺跡の巨大男根石棒。長野県塩尻市・縄文遺跡の男根状石棒。秋田県鹿角市・天戸森遺跡の棒状石棒。三重県八日市市・山奥遺跡の石棒。 長野県長野市・縄文遺跡の巨大棒状石棒。山形県高畠町・縄文遺跡の石棒。そして青森県青森市・山内丸山遺跡の石棒が有名である。


山内丸山遺跡から出土した石棒

縄文中期以降から後期初頭までの大きな男根形石棒にはリアルな造形が多いが、そこまで徹底してリアルに象形した背景には妊娠を願う石像として「子孫繁栄」を切に祈願したと見られている。人口が減少傾向の縄文時代中・後期としては、人口を増やすエネルギーを男性器に見立てて、その力に訴えたと考えられている。

しかし一方縄文後期中頃以降は長い石棒へ変化し、機能的にも石棒祭祀は成人式にも通じ、一人前の大人になって行く過程での「通過儀礼」だったと考えられる。
石棒はよりリアルな子孫繁栄の象徴から、成人式を祝うセレモニー的象徴へと時代と共に大きく変遷して行ったと考えられている。


縄文時代、石は刃物や、食料を加工するための道具などとして加工され、利用された。一方で男性器をかたどった石棒など、信仰やマツリに関する「道具」も作られた。
石棒は、縄文時代中期から後期にかけて多く作られ、住居の中の炉の縁や壁際などに立てられたほか、ムラの中の特定の場所に置かれて、子孫繁栄と豊かな恵みを得るための祭祀や儀礼が行われたと考えられている。

長野県諏訪地方では縄文時代中期から後期前半(約4000年前)にかけて、石棒(せきぼう)が多く作られる。住居跡の炉の縁に立てられたり、集落内の配石などから出土することもある。したがって、石棒祭祀にも多様な形があったと思われるが、その全体像はわかっていない。ただし、集落全体、もしくはあるレベルの集団(ある竪穴住居の居住構成員等)により祭祀が行なわれていたものと考えられる。

石棒祭祀の内容については、狩猟儀礼的なものとする考え方と、農耕儀礼的な祭祀であるとする考え方があり、後者については縄文中期農耕論とも関係してくる。現段階では明確な答えが出ていないが、いずれにせよ、人々に、より豊かな恵みをもたらすための祭祀であったと考えられている。
 
縄文時代の住居跡の床面から、石棒が横たえられたり壊されたりした状態で出土することがある。さらにその上に石が積まれたり投げ込まれたりしていることも多く、これらは住居を壊す、あるいはその家を捨てるときに儀礼を行なった跡と考えられている。 石棒だけではなく、石皿も壊された状態で住居跡から出土したり、墓から出土する例がある。函南町養徳寺の石棒の一番右端の胴回りが太い石棒は上部が割られて欠落していることから日本最長の高さ2mに並ぶ石棒であったとも考えられる。



長野県諏訪市の穴場遺跡の18号住居跡からは、石棒と石皿が向かい合わせにされた状態で見つかった。まわりの土が焼け、炭が多く出土しており、これらの遺物には最後に火がかけられて埋められたことがわかっている。 縄文時代後期には、敷石住居の床上から石棒が出土する例がかなりある。これらには、集石をともなうものも多い。住居の廃絶時に、礫などとともに石棒を竪穴内に集め、または投げ込み埋めているものと思われる。

中には福松砥沢遺跡の例のように石棒を壊しているものもあり、「もの送り」的な儀礼であるとも考えられる。同様に、石皿も廃絶した住居址内から壊された状態で出土することがある。同じ石で造られた信仰対象ではあるが、後世の「祈念碑」的な石造物と比較して死(再生を前提とした)が表現されている点、縄文時代の世界観を考える上で興味深い。

縄文時代以降も「ミシャグジ」などと呼ばれる神社の中には、縄文時代の石棒を御神体とするものがかなりある。長野県諏訪地方には縄文時代の遺跡も多く、偶然土の中から掘り出されるなどして、改めて信仰の対象になったと考えられている。縄文時代のように壊されたり焼かれたりすることはないようだが、恐らくその形から縄文時代と同様、豊かな恵みを願って祀られるようになったと推察されている。

養徳寺の槇之木(まきのき)
縄文時代の函南町の地形イメージ図

函南町の縄文時代を考えるに当たり、先ず当時の地形を知らねばなるまい。Flood mapsを使って海面が現在より20m高かったとして上記地図を描いてみた。縄文時代の石棒のある養徳寺や大岩の洞窟から湧水する不動堂辺りは海(古狩野湾)に突き出る半島の高台に位置していたことが分る。

つまり、山の幸と海の幸を享受でき、箱根西麓の伏流水も飲料水として確保できる環境にあったことを意味している。田方平野の大部分は海の下だった訳で縄文時代の遺跡は存在しない。養徳寺の縄文時代の石棒は静岡県東部地区において比類ない存在であり、貴重なメッセージを語り始めようとしている。

養徳寺周辺の地形を観察すれば、箱根西麓から延びる尾根上の窪地と称されよう。尾根は海上に突き出る半島を形成し、同半島を挟むように流下する来光川と柿沢川の洪水の恐れは無く、東西南北からの強風を防ぎ、先に述べた箱根西麓の伏流水も南約180mの位置にあり飲料水の心配は無い。加えて西側の高台にある天地神社は縄文人が自然崇拝の祈り場とした原初的鎮守の森だったのではないかと睨んでいる。



現代科学のDNA分析により現代日本人は縄文人の遺伝子を濃厚に受け継ぎ、中国大陸のDNAとは極端に違う特徴があることが立証されつつある。現代日本人は縄文人とは断絶しておらず、血を濃厚に引き継いだ子孫なのである。縄文人が子孫繁栄を祈念したモニュメントが養徳寺の石棒なのである。

日本考古学草創期は明治前期に産声を上げる。縄文時代の石棒研究が深まったのはずっと遅れて最近のことである。養徳寺の住職が境内から掘り出された石棒を観て保存しようとした時代は何時なのか分らない。宗教者が忌み嫌う男根に似た石の棒を神聖な境内に保存した英断に敬意を表したい。本質を観る霊能力恐るべしである。石棒に込められた人間の祈りの本質を遠い昔に洞察していたのである。

道具も満足に無い縄文時代にあっては大きな石棒を作り上げるには相当な胆力・労力・時間を要しただろう。石棒は子孫繁栄と部落安全を願い祀られたものだろう。奇しくも養徳寺の境内には父母観音・養児観音の石造物が祀られている。時空間を何千年も越え同根の祈りが繋がっている三界萬霊の世界なのである。

養徳寺の石棒の石材分析が進めば、何処の石材を使用したか判明する筈だ。近場の柱状節理を使用したものかどうか。場合によっては採れた産地によっては丸木舟の使用も視野に入って来るかも知れない。
函南町最古の石造物と見られる養徳寺の石棒を、今後関係当局がどう捉えて行くかが問題である。とにかく現在、Web検索において石棒に関する詳細情報に接するサイトが無いことの方が問題なのかも知れない。

縄文時代草創期より近世までの年数グラフ(数字は年数を示す)・・・縄文時代は約80%を占めている

【静岡県東部エリアの先史時代ミニ知識】

静岡県東部における旧石器時代の人骨調査は愛鷹山南麓、箱根山西麓に密集している。
縄文草創期の遺跡は少ないが、伊豆の国市三福の仲道A遺跡で土器が出土している。早期になると撚糸文(よりいともん)や押型文(おしがたもん)の土器が集落跡から出土している。

その後(約7000〜8000年前)愛鷹山南麓から箱根山西麓・伊豆半島にかけて集落が急増していく。縄文前期には、遺跡数が減少するが、前期末から中期・後期前半までになると遺跡数も増加し、縄文最盛期を迎える。東部では集落遺跡・住居の形と構造・土器・土偶・石棒・石斧などの様相が類似・発達した文化が伊豆半島に広がっている。

また、矢尻として多く使用された石鏃の原料の石材も東部では八ヶ岳や神津島の黒曜石が主流で、遠隔地との交易・交流が盛んに行われていたことが分かっている。縄文後期後半になると遺跡数が、東部では激減する。一方では儀式用の石器(石棒等)が普及し出している。

【考えるヒント】

意は似せ易く、姿は似せ難し」と、小林秀雄の「考えるヒント」にあった。

青春期の私は、形而上は形而下の上位と理解し、「意は似せ難く、姿は似せ易し」の間違えでは無いかと考え、この言葉がどうにも釈然とせず解せなかった。

日本刀の素振りを繰り返す。当初、数ミリのブレがあったものが数千回の鍛錬により100分の1のブレに収束
されて行く。そして、100分の1のブレになっても大きなブレを感じ始める。このことは、脳内や体躯全体に1000
分の1の誤差を感得できるセンサーが生成されたことを意味する。更に、ブレは左右だけでは無い、切っ先の
円弧軌道のブレや押し引きのブレも含まれる。

これに加えて、大地への両足の捌き、臍下丹田への気の充実、目付と手の内の鍛錬、無駄な力・動作の廃
絶、無念無想の不動心の養成などが肝要となる。そして、本物の鍛錬が繰り返されれば、他人が真似られぬ
姿が現出する。本物の姿と所作の違いの弁別も容易となる。

宮本武蔵は、無名な魚職人の無駄の削がれた流れるような包丁さばきを観て武の達人と絶賛したと伝えら
れる。大工、壁職人、板金職人、すべからず一流の職人技は繰り返しの精進の結果であり、戦前の職人は
それぞれ真似のできない職場の姿を、先人の動作を盗み真似から入り身に付けていた。

舎利頭(しゃりこうべ)の中の脳みそが自分で一番大事と思い込んでいる人に問いたい。脳みその中にいった
い、どの位の自分がありますかと。赤子の時から周囲の大人から言葉を覚え、幼稚園から学校に進学し、読
書、テレビ、ラジオ、新聞などから知見を得て、兄弟、友人、周囲の大人などと接しながら世界観を得て来た
に違いない。自分だと思い込んでいる殆どが周囲から与えられた借符みたいなものかも知れない。

近年、武道・習字・そろばん・座禅など繰り返しの修練が激減し、上達・精進という概念が消滅しつつある。仕
事も職人技という概念が消失しつつある。だが、誰もが毎日食べ、排せつし、寝ることは繰り返し続けている
ことは間違いない。糞尿製造機のままで一生を終えるのは忍びないことである。

さて、掃除が心を込めて行われたか否かは、掃除が終わってからの雑巾の姿を見れば分かる。臍下丹田に
気が充実し、頭のてっぺんから真っ直ぐ天に気が流れる如く腰から背骨が直ぐに伸び正しく歩行しているか
否かは下駄、草履、靴の減り様で分かる。歩く姿は嘘が通らない。武の道、禅の道からすると、清く正しく美し
く歩く姿は実にたやすいことではなく、際限のない修行なのである。

臨済宗円覚寺の禅の教えとして、自我という壁を飛び越え、「天地と我と同根、万物と一体」「天地大自然は
一枚の仏心であった」と気づくことが大切と説く。また、生きるの死ぬだの、他人だの自分だというのは単なる
妄想に過ぎない。生き通しの仏心であったとわかる。とも説いている。

そもそも形而上・形而下と分ける西欧哲学がおかしい。なぜなら、人間は首の上と首の下が無ければ生きて
行けないからだ。首の上と首の下が連動して感応しあって成長して行く。繰り返しの鍛錬が脳を鍛える場合が
多いかも知れない。いずれにせよ、頭と胴体が繋がっただけで人は生きて行かれるかだ。答えはノーであ
る。人間の五体が揃っているとは云え、天地自然の支えが無ければ人は生きて行けない。人は生かされて
生きているのだ。座禅や作務を通して自我に積もった垢を洗い落とし雑念はびこる世界から清らかで明るい
世界へワープしたいものである。禅の姿は、体躯と天地とが織りなす真似がたい異時空間の姿なのである。


【日本一の石棒】
長野県佐久穂町高野町北沢の大石棒は、縄文時代中期後半に豊穣や集落の子孫繁栄を願う祭祀のシンボルとして立てられたと考えられている。佐久穂町高野町北沢川ほとりの畦に立ち、高さ2.23m、直径25cmで大きさは日本一を誇っている。

この大石棒は、佐久石とも呼ばれる志賀溶結凝灰岩からつくられている。この志賀溶結凝灰岩は、佐久市から佐久穂町大日向にかけての東山一帯に露頭がみられ、大日向西の反の露頭には柱状節理がみられる。

長い石棒をつくるのに適した石材が豊富にあったことにより、大形の石棒をつくることができたのではないかと考えられている。

私が養徳寺訪問の際、迂闊にも巻き尺を持参しなかった。正確な高さは不明ながら、全国の石棒の多くは高さ50cm以下が圧倒的に多く、長くとも1m以下らしいので、私の目測では1m以上だった養徳寺の石棒は日本屈指の高さの石棒の可能性もあり、是非、寺の関係者により高さと胴の直径を測定していただければと期待している。

願わくば、折れた石棒も元の石棒の推定高さも胴回りから割り出していただきたいと思う。

伊豆半島の柱状節理

石棒の原材料とされた石材は、現時点において石質調査など精査は行われておらず、明確な報告は無いものの、1m以上の長尺物の石棒は、柱状節理の岩を加工したのではないかという説が有力となっている。新たな説であるが切り口が面白い。

函南町の養徳寺の石棒の原材料を伊豆半島近辺の柱状節理と仮定した場合、何処の柱状節理の石材を採取したのか興味が湧くところである。古狩野湾の向こう岸であったなら彼らは丸木舟を使用していた間接的証拠になるに違いない。

神津島の黒曜石の如く伊豆半島南東部の柱状節理だった場合は、石材取引専門集団の存在も視野に入ってくる。重い石をどのような方法で広範囲に移送させたものか、また代価(物々交換)はどんな内容だったのかも気になるところだ。神津島と海の道

さて、単成海底火山が急激に冷やされて形成される柱状節理は伊豆半島各地において確認されている。おおざっぱに申せば伊豆半島南北約68km、東西約35km圏内に存在する。函南町を中心に考えれば、浄蓮の滝まで約25km、景ケ島の屏風岩まで約16kmで行ける。


伊豆六方石の柱状節理

最も近場のものといえば、函南大嵐山(日守山)の柱状節理となるが古狩野湾の向こう岸となる。向こう岸には沼津市獅子浜の柱状節理、伊豆城山の柱状節理、伊豆白鳥山の柱状節理、修善寺旭滝の柱状節理、修善寺雄飛滝の柱状節理など石材が豊富に存在する。

南伊豆から著名な柱状節理産地を挙げれば、南伊豆中木港の柱状節理・爪木アの柱状節理・河津七滝の柱状節理・浄蓮の滝の柱状節理・修善寺旭滝の柱状節理・修善寺雄飛滝の柱状節理・伊豆白鳥山の柱状節理・伊豆城山の柱状節理・函南大嵐山(日守山)の柱状節理・沼津市獅子浜の柱状節理・湯河原中尾沢の柱状節理の滝・熱海幕山の柱状節理・箱根飛龍の滝の柱状節理・景ケ島渓谷・屏風岩の柱状節理など広範囲に亘り散在している。

石棒の原石を柱状節理、産地を伊豆半島近辺と仮定し、柱状節理産地12ヶ所から石質を比較分析し絞り込んで行けば、養徳寺の石棒の産地が明確に解明されると思うが、石造物に詳しい考古学者の出番を待ちたいところである。


養徳寺とこだま石

養徳寺の本尊・十一面観音

日本国内で一番多く造られた仏像といえば、阿弥陀如来像、薬師如来像、観音菩薩像が挙げられよう。函南の三十三所観音霊場の如く観音菩薩は多くの変化身(へんげしん)をもつと伝えられるが、中でも聖観音像・十一面観音像・千手観音像は奈良時代より人気が高く全国に多くの像が残されている。

阿弥陀如来は極楽往生をつかさどり、薬師如来が病気の治癒をつかさどる如く、その霊験が、あの世での身の保障や病気回復など、ごく限られた御利益なのに対し、多くの変化身を持つ観音菩薩の現世利益は数多く、とくに十一面観自在菩薩心密言念誦儀軌経によれば、10種類の現世での利益(十種勝利)と4種類の来世での果報(四種功徳)をもたらすと言われる。

十種勝利とは、病気にかからない・一切の如来に受け入れられる・金銀財宝や食物などに不自由しない・一切の怨敵から害を受けない・国王や王子が王宮で慰労してくれる・毒薬や虫の毒に当たらず、悪寒や発熱等の病状がひどく出ない・一切の凶器によって害を受けない・溺死しない・焼死しない・不慮の事故で死なないと至れり尽くせりだ。

四種功コとは、臨終の際に如来とまみえる・悪趣、すなわち地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わらない・早死にしない・今生のあとに極楽浄土に生まれ変わるとあり、阿弥陀如来がつかさどる極楽往生以上の早死にしないが盛り込まれた功徳が謳われている。

玄奘三蔵は、629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像等を持って帰還している。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となった。玄奘訳の「十一面神咒心経」にその像容が明らかにされている通り、本体の顔以外に10または11の顔を持つ菩薩である。

多くの十一面観音像は頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂き、頭上には仏面(究極的理想としての悟りの表情)、菩薩面(穏やかな佇まいで善良な衆生に楽を施す、慈悲の表情。慈悲面とも)、瞋怒面(しんぬめん。眉を吊り上げ口を「へ」の字に結び、邪悪な衆生を戒めて仏道へと向かわせる、憤怒の表情。忿怒面(ふんぬめん)とも)、狗牙上出面(くげじょうしゅつめん。結んだ唇の間から牙を現し、行いの浄らかな衆生を励まして仏道を勧める、讃嘆の表情。牙上出面あるいは白牙上出面とも)、大笑面(だいしょうめん。悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する、笑顔。暴悪大笑面とも)など、各々に複雑な表情を乗せ、右手を垂下し、左手には蓮華を生けた花瓶を持っている姿であることが多い。

著者が記した「万巻上人の残影を追う」の中で述べたように、奈良時代の修験道僧である泰澄は、幼少より十一面観音を念じて苦修練行に励み、霊場として名高い白山を開山、十一面観音を本地とする妙理権現を感得した。平安時代以降、真言宗・天台宗の両教を修めた宗叡は、この妙理権現を比叡山延暦寺に遷座し、客人権現として山王七社の1つに数えられている。雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。

養徳寺の本尊も十一面観音とされ、伊豆八十八ヶ所巡礼の内、二十番札所として毎年多くの善男善女を迎えている。

養徳寺へ電車・バスで行く (推奨)

「函南駅」から「平井バス停」(畑毛温泉行き)

「平井バス停」から「函南駅」(函南駅行き)

「大場駅前」から「切透しバス停」(畑毛温泉行き)

「切透しバス停」から「大場」(大場方面行き)

「切透しバス停」から「函南駅」(函南駅方面行き)

平井バス停から養徳寺への徒歩ルート (推奨)
養徳寺へ車で行く→案内地図

養徳寺への東進ルートは函南町役場の前の「岐れ道交差点」から県道11号線(熱函街道)か県道136号線(畑毛温泉への道路)の二通りとなります。

初訪問される方は136号線がお奨めです。函南東小の東南端の信号のあるT字交差点を左折し道なりに北上します。再びT字交差点にさしかかったら左折し直ぐ右折し北上すれば右手に養徳寺の専用駐車場に着きます。Dの赤線矢印が最も分かり易く間違え難いルートだと思います。

県道11号線は、交通量多くカーブも有り@〜Cの入り口も狭く分り難いため、また、道路が狭いため対向車用空き地の有無など現地の様子を熟知してからの利用が無難と思われます。運転に自信の無い方や車幅のある乗用車の場合は避けた方が良いと思います。

いずれにせよ、養徳寺ご参拝の際には近くの天地神社の大楠不動堂の不動滝の見学もお忘れなく。



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